凡人少女のパニック観察日記 〜天才友人の「合理的」な助言により、彼氏が3人になりました〜
トムさんとナナ
第1話:特異点発生に関する緊急レポート
放課後の教室は、時間が止まったかのように静まり返っていた。
窓から差し込むオレンジ色の夕日が、並んだ机の影を長く、長く伸ばしている。
舞い上がる埃が光の筋の中でキラキラと停止して見え、遠くから聞こえる吹奏楽部の音出しも、まるで水の中にいるみたいにこもって聞こえる。
私は、自分の席である「廊下側の後ろから二番目」という、モブキャラに相応しい定位置で、机に突っ伏していた。
ひんやりとしたメラミン化粧板の感触だけが、ここが現実だと教えてくれる。
「……なんで……?」
絞り出した声は、誰に届くわけでもなく、茜色の空気に溶けて消えた。
私の名前は、佐藤美咲。
成績は中の下。
容姿も中の下。
特技は「背景に溶け込むこと」。
人生の目標は「波風立てずに平穏無事に生きること」。
それなのに。
今日、たった数時間の間に、私の「平穏」は核兵器級の爆撃を受けて消滅した。
私の頭の中は、容量オーバーでショート寸前だ。
ぐるぐると回る思考が、今日のハイライト
――いや、悪夢の記録(ログ)を勝手に再生し始める。
記録1:12時45分 体育館裏にて
太陽が真上から照りつける昼下がりの体育館裏。
金網フェンスに囲まれた閉鎖的な空間で、逆光を背負った巨漢の男子生徒が、怯える小柄な女子生徒を見下ろしていた。
地面には二人の濃い影が落ち、逃げ場のない圧迫感が満ちていた。
昼休み。
購買のパンを齧りながら裏庭を通り抜けようとした時だった。
突然、視界が暗転した。
いや、巨大な「壁」が私の前に立ちはだかったのだ。
「佐藤ォ!!」
鼓膜が破れるかと思うほどの大声。
見上げると、そこには逆光を背負った仁王像
――もとい、サッカー部の剛田猛次くんがいた。
180センチ超えの長身。
鋭い眼光。
ユニフォームから覗く筋肉。
彼が私を見下ろしている。
まるで、獲物を狙うライオンのように。
(ひっ……! 怒られる!? 私、何かした!? 昨日の体育でボール拾うの遅かったから!?)
恐怖で足がすくむ。
ガタガタと震える膝を手で押さえるのが精一杯だ。
剛田くんは、私の顔を至近距離で覗き込み、荒い鼻息と共に叫んだ。
「俺は! お前を見てると! 胸がこう、燃えるように熱くなるんだよ!!」
(え……カツアゲ……? それとも、私の存在が邪魔でイライラして燃えてるの……?)
私は涙目になりながら、首をブンブンと横に振った。
「ご、ごめんなさい……私なんか、すぐに消えますから……!」
しかし、剛田くんはニカっと白い歯を見せ、私の肩をバシッと叩いた。
痛い。
骨が軋んだ気がする。
「そうか……! その震え、お前も同じ気持ちなのか! 感極まって言葉も出ねぇってか! わかった、俺の『ゴール』はお前に預けたぜ!!」
「へ……?」
彼は満足げに踵を返し、去っていった。
残された私は、腰が抜けてその場にへたり込むしかなかった。
記録2:16時10分 図書室にて
放課後の静寂に包まれた図書室。
本棚に囲まれた狭い通路で、知的な眼鏡の男子生徒が本を読んでいる。
西日が舞い上がる埃を照らし、密室めいた緊張感が漂っていた。
剛田くんの恐怖体験から回復しきっていない放課後。
私は避難所である図書室の隅で、息を潜めていた。
ここなら誰も来ないはず。
そう思っていたのに。
「……非合理的だ」
氷のような声が、本棚の隙間から降ってきた。
学年5位の秀才、氷室慧吾くん。
銀縁メガネの奥にある瞳は、常に何かを測定しているようで怖い。
「佐藤さん。これを見たまえ」
ドン、と重たい音がした。
彼が私の目の前に積み上げたのは、大学ノートが三冊。
表紙には『佐藤美咲の行動経済学における非効率性と特異点について』と油性ペンで書かれている。
(な、何これ……? 私の観察日記……? 3冊も……!?)
恐怖というより、あまりの奇行に引いてしまった。
私は持っていた本を盾のように構えた。
「あ、あの……これはいったい……」
「君の行動パターンを記録し、解析した結果だ。君の思考には『ノイズ』がない。僕が複雑な数式で迷路に迷い込んでいる時、君は直感という名の最短ルートで答え(=無)に到達している。君という『特異点』を、僕の人生という数式に組み込みたいと判断した」
(えっと……つまり、私の頭が空っぽだってことを、ノート3冊分かけて証明したってこと……? この人、頭良すぎてバカなの……?)
「わ、私、数学は赤点ギリギリで……お役に立てるような脳みそじゃ……」
「謙遜か。それもまた興味深いデータだ。……沈黙は肯定と受け取る。これからの放課後は、僕のために時間を空けておいてくれ」
彼はそう一方的に通告すると、満足げに冷たい笑みを浮かべた。
私は理解が追いつかず、口をパクパクさせることしかできなかった。
記録3:16時40分 昇降口にて
夕焼けに赤く染まる昇降口。
並んだ靴箱の前で、スポーツバッグを肩にかけた男子生徒がいる。
男子は泣きそうなほど必死な表情。
もう帰ろう。
家に帰って布団にくるまろう。
そう決意して靴箱を開けた瞬間、背後から聞き覚えのある声がした。
「……美咲」
心臓が跳ねた。
振り返ると、そこには幼馴染の間宮陽人が立っていた。
バスケ部のバッグを肩にかけ、複雑な表情で私を見ている。
中学に入ってから3年間、まともに会話をしていない「かつての」隣人。
(ど、どうしよう。挨拶? 無視? ていうか、今さら何を……)
私は反射的に目を逸らし、逃げようとした。
けれど、陽人は私の手首を掴んだ。
熱い掌の感触に、体がびくりと震える。
「逃げんなよ!」
「ひっ……!」
陽人は私の反応に傷ついたような顔をしたが、すぐに強い瞳で私を射抜いた。
「俺……ずっと見てた。剛田と氷室がお前にちょっかい出してるの。……俺、お前に嫌われたと思って、ずっと遠慮してた。お前の迷惑になりたくなくて、距離取ってた。でも……!」
陽人の声が震えている。
それは怒りではなく、焦りだった。
「ポッと出のあいつらに取られるくらいなら、遠慮なんてしなきゃよかった! 俺はもう待たない。……宣戦布告だ、美咲。昔みたいな『ただの幼馴染』でいるつもりはねぇからな」
(えっ、嫌われてたわけじゃ、なかったの……? 私が勝手に避けてただけ……? でも、宣戦布告って何!? 戦争でも始める気!?)
陽人は真っ赤な顔でそう言い捨てると、逃げるように走っていった。
残された私は、掴まれた手首の熱さと、彼が抱えていたらしき3年分の感情の重さに、呆然と立ち尽くした。
現在時刻、17時30分。 意識が、現在の教室に戻ってくる。
私はゆっくりと顔を上げ、誰もいない黒板を見つめた。
頭がズキズキする。
情報量が多すぎて、知恵熱が出そうだ。
「……整理しよう。状況を整理しましょう、美咲」
サッカー部の野獣に「ゴール(所有物)」認定された。
学年トップクラスの秀才変人に「研究対象」認定された。
疎遠だった幼馴染から「戦争」を仕掛けられた。
「……逃げたい」
それが一番の本音だった。
全員に対して「ごめんなさい!」と言って逃げ出せばいい。
普通ならそうする。
でも、私の脳内シミュレーションは最悪の結末を弾き出していた。
もし、剛田くんを断ったら? →「俺の純情を踏みにじったな!」と逆上され、物理的に粉砕されるかもしれない。(生存確率:0%)
もし、氷室くんを断ったら? →「拒絶の論理的根拠を示せ」と詰め寄られ、言葉の刃で精神崩壊させられる。(精神生存確率:0%)
もし、陽人を断ったら? → 3年も我慢させた挙句に振ったとなれば、私は人の心がない冷血女だ。罪悪感で死ぬし、彼のファンたちに刺される。(社会的生存確率:0%)
そして、誰も選ばずに放置したら? → 三方向から同時に攻め込まれ、私は跡形もなく消し飛ぶだろう。
「……詰んだ」
私には、この猛獣たちを傷つけず、かつ自分も無傷でやり過ごすような高度な外交スキルなんてない。
下手に動けば死ぬ。
動かなくても死ぬ。
「穏便に……とにかく穏便に済ませないと……私のようなモブは、一瞬で消し炭になる……」
ガタリ、と椅子を引いて立ち上がる。
この危機的状況を打破できる人間は、この学校に一人しかいない。
感情論を排除し、完璧な「解」を導き出せる唯一の人物。
私は震える足で、理科準備室へと向かった。
そこにいるはずの「魔王」
――九条理沙に助けを求めるために。
これが、私のパニック観察日記の1ページ目。
地獄の釜の蓋が開いた日の記録である。
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