鏡の中の魔人

志緒原 豊太

第1話 魔人の復活

 十三夜月の冴え冴えとした明かりに照らされた小さな祠は、背後に聳える切り立った絶壁からたったいま彫り出されたかのように、切妻屋根の輪郭をくっきりと壁面に浮かび上がらせていた。一メートルほどの高さの祠の中には、杉板で造られた厨子が設えてあり、観音開きの扉に付いている錆の浮いた小さな錠は、鉄梃の一撃で無残に壊されて地面に転がっている。

 和歌山県熊野山中にある大鷲山の中腹にある祠は、標高が千五百メートルを超えている。そのためか六月中旬とはいえ、深夜の空気は肌寒い。初夏の木々の青葉が発するムッとするような生気に満ちた空気が、祠の周囲をみっしりと取り巻いている。チリチリという虫の鳴き声が、木々の葉に落ちる雨粒の音のように天上から降っている。

 厨子の中に頭を埋めるようにして何かを物色していた男が、ゆっくりと身体を起こした。男の手には高さが三十センチほどの木製の神像が握られていた。

 男の名は春山幸吉。東京都中野区で春山庵という古美術商を営んでいる。本業は古美術品や仏像・神像などを古民家や神社仏閣から盗み出して、秘かに好事家に売り捌く、窃盗・盗品売買である。

 春山は月明かりの下で神像を捧げ持つようにして頭上に掲げ、しげしげと眺めた。

異形の神だ。頭頂部には鶏冠のようなものが突き出ていて、飛び出したような大きなふたつ目と獅子鼻に、耳まで裂けた口からダラリと舌が下がり、大きな牙が突き出している。裸の上半身に腹の前で組んだ腕、両足は胡坐をかいている。この祠に鎮座する前は、永い年月風雨に晒されていたのだろう。神像の素材の木は飴色に変色していて、神像の表面に施されていたはずの細かな造作はすっかり摩耗している。

 何とも不思議な神像だと春山は思った。仏像・神像などは単なる商品としか思っていない春山だが、この神像を見た途端、神像の発する霊気を感得したのか、背筋にゾクリと悪寒が走った。日本の神像の様式を備えていないため、作製年代は分かりかねるが・・・相当に古いものであることには間違いない。こりゃあ、高く売れると、春山は確信した。

 和歌山くんだりまできたかいがあったと、春山は満足そうにほくそ笑んだ。

 春山は神像を絹の布で丁寧に包み、緩衝材を詰めたリュックサックに入れた。春山はリュックサックを背負い、鉄梃やドライバーや金槌などの窃盗工具の入った鞄を手に持つと、祠の前から足早に立ち去った。


 熊野那智大社から熊野の山中に分け入った先にある大鷲山の懐に位置する牛鬼集落の集会所に、十人ほどの男が集まっていた。時刻はそろそろ夜の十時を過ぎようとしている。十畳の畳敷きの部屋にコの字型に座卓が並べられていて、胡坐をかいて座っている男たちの前には湯呑が置かれている。湯呑の中の茶はすっかり冷めていた。

 集落の長の榎本幹雄は、日に焼けた黒い顔を歪めて、腕を組んだまま目を瞑っていた。その他の男たちも、押し黙ったまま身じろぎひとつしないで座っている。

 ザアッと一陣の風が吹き抜けて、集会所の裏山の大きな柏の木の枝を揺らしたかと思うと、集会所の入口のアルミ戸がカラリと開いて、ひとりの修験者が姿を現した。

 坊主頭に頭巾を乗せ、身に袈裟と篠懸を纏い、括袴をはいて、白手甲・脚絆をつけ、足元は草鞋を履いている。身長は百六十五センチと小柄ながら、山々の修行で鍛えた身体は針金を捩り合わせたように引き締まっている。

 修験者は畳敷きの部屋には上がろうとせず、上がり框に腰を下ろすと、身体を捩るようにして榎本の顔を見た。手に持ったままの錫杖がジャラリと音を立てた。

 榎本は眼を開いて修験者の姿を認めると、小さくオオと声を上げてから立ち上がり、修験者の前で正座した。そして、修験者に向かって深々と頭を下げた。

「大巌坊様、ご修行の最中にお呼び立てして申し訳ありません。何しろことは重大で、大巌坊様のお力を借りなければ、私どもでは何ともならないものですから」

 榎本が言い終わるのを待っていたかのように、ひとりの男が温かな茶を淹れた湯呑を大巌坊と呼ばれた修験者の前に差し出した。大巌坊は小さく礼をすると、湯呑を取り上げてガブリと茶を飲み、修行で鍛えた太く張りのある声を出した。腹の底に響くような声だ。

「榎本さん、いったい何があったのです。儂の力が必要とは、穏やかではありませんな。ましてや、烏口の秘法を使って儂を呼び出すとは、それほどまでに火急の用件なのですか」

 烏口の秘法とは、山々に伏している修験者に火急の用件を知らせるために用いる秘儀で、烏を放って修験者を見つけ出し、烏の口から用件を伝えるものである。

 榎本は頷くと身体を乗り出した。額にはうっすらと脂汗が滲んでいる。

「祠が・・・封魔の祠が壊されて、祀ってあった異形の神像が何者かに盗まれてしまったのです」

「何!」

 ザクリザクリと鑿で削り出したような彫りの深い大巌坊の顔に驚愕の色が浮かんだ。

「盗まれたのは昨夜です。今朝、私がお供え物を持って祠にいって、厨子の扉が壊されているのを発見しました。足跡から察するに、犯人はひとりのようです」

 大巌坊はグウウと小さく唸り声を上げながら榎本の話を聞いている。

「牛鬼集落に代々伝わる言い伝えによれば、建仁元年(西暦千二百一年)、後鳥羽上皇が熊野に御行幸された年に、那智勝浦の浜辺に神像が流れ着いたそうです。鷲龍坊という名の行者が神像の中に封じ込まれている魔を感得して、その魔が世に出ないように、大鷲山に封魔祠を設けて神像を安置したといわれています。鷲龍坊からの命を受けて、牛鬼集落はそれ以降脈々と封魔祠を守ってきました。あの祠の中に神像が安置されていることは、牛鬼集落の者しか知らないはずです。それが、こんなことになってしまって・・・ご先祖様に顔向けできません」

 そこまで言うと、榎本は畳に両手を突いて、額を畳に擦りつけた。榎本の背後の男たちも、榎本に併せて頭を下げた。

「大巌坊様、どうか・・・役小角の再来と称される大巌坊様の験力をもって盗人に神罰を下し、神像を取り戻して頂きたい。なにとぞ、牛鬼集落一同の願いをお聞き届け下さいますよう、お願い申し上げます」

 大巌坊は湯呑を上がり框の上に置くと、スウッと顔を上げた。

「儂はあの神像を以前に一度だけ見たことがある。神像の発する邪気に気圧されて、暫く口が利けなかったことを覚えている。あの神像に封じ込まれている魔は人の世に厄災を招くだろう。知らぬ者が迂闊に触れてはならんものだ。何としてでも取り戻さなければなるまい。榎本さん、分かった、引き受けよう」

 榎本は一度顔を上げて大巌坊を見ると、もう一度額を畳に擦りつけた。大巌坊はジャラリと錫杖の音を響かせながら立ち上がると、集会所の外に出た。

 ザアッと一陣の風が吹き抜けて、集会所の裏山の大きな柏の木の枝が揺れると、風に乗って飛び去ったかのように大巌坊の姿は消えていた。


 矢沢瞭の運転する黒のSUVは、青梅街道を新宿に向かって走っていた。青梅街道を走る車の数は少なく、SUVは前を走る車のテールランプを追って流れるように進んでいく。それもそのはずで、時刻はそろそろ日付が変わろうとしていた。

 助手席に座っている明日香早苗は、瞭に気を遣うこともなく、ぐっすりと眠り込んでいた。後部シートには大学生らしき女性が座り、こちらも高いびきで眠っている。 

 矢沢瞭はフリーのジャーナリストである。百八十センチの長身に筋肉質のすらりとした体形で、年齢は三十二歳になる。涼やかな目元には笑うと目尻に笑いじわが浮かび、出会った相手に人懐っこい印象を与える。高い鼻梁とほっそりとした顎のラインが端正な顔立ちを引き立てている。

 明日香早苗は特殊潜在能力研究所所長という仰々しい肩書を持っている。身長は百六十センチほどで、華奢な身体つきをしている。年齢は二十五歳になる。大きな鳶色の瞳に透明感のある色白の肌と、すっきりと通った鼻筋に少し受け口のぷっくりとした唇があどけなさを残している。

 特殊潜在能力研究所は、人類が持つ特殊潜在能力すなわち『超能力』を科学的に研究する民間の組織である。

 テレパシー(精神感応)、クレアボヤンス(透視)、プレコグニション(未来予知)、サイコメトリー(残留思念感応)などの『超感覚的知覚(ESP)』と、サイコキネシス(念動)やパイロキネシス(発火能力)などの『念動力(PK)』を合わせた、PSI(サイ)能力が、脳のどのような働きで発現するのかを研究すると共に、PSI能力の発芽が認められる人を集めて、その能力を高めるための訓練を行っている。

 今日は、西東京市にある東都大学で、学生が立ち上げた超能力サークルの活動視察と、同大学の教授で脳科学の権威である山上博士との意見交換をした帰りである。後部座席で眠っている大学生は、超能力サークルのメンバーのひとりで、意見交換後の懇親会で酔い潰れてしまい、自宅のある新宿まで送り届けているのだ。瞭は早苗から呼び出されて、酒も飲まずに、運転手としてこき使われていた。

 瞭は襲ってきた睡魔を振り払うかのように頭を振ると、大きくひとつ欠伸をした。SUVは中野区に入った。新宿はもう目と鼻の先だ。

 突然、瞭の頭の中を強い衝撃が走り抜けた。

 同時に、眠っていたはずの早苗も頭を上げた。衝撃を感得した早苗の大きな鳶色の瞳が揺れている。

「瞭、いまの念動波を感じた?」

「ああ、感じた。誰かが近くでサイコキネシスを使ったんだ、間違いない」

 瞭は慌ただしくSUVを路肩に止めると、ハザードランプを付けて車から降りた。助手席から早苗が降りてきて瞭に並んだ。

 ふたりのすぐ先に、JR中野駅に通じる中野通りがある。JRも地下鉄もそろそろ終電の時刻で、平日のこの時間に商業ビルや賃貸マンションが立ち並ぶこの一角を歩いている人影はなかった。

 早苗は眼を閉じて、しばらく意識を集中してから、何かを感得したように目を開けた。

「瞭、こっちだわ。急いで」

 早苗は中野通りに向かって駆け出した。瞭が慌てて後を追う。

 瞭と早苗は中野通りを五十メートルほど進み、そこから右手の細い路地に入った。小さな個人商店が軒を連ねるその路地は、街灯の明かりも届かず、ひっそりと闇に沈んでいる。路地に突然走り込んできたふたりに驚いたのか、暗闇の先で野良猫がニャアと鳴いた。

 早苗は一軒の店の前で立ち止まった。二階建ての住宅の一階部分を店舗として改装している。店舗のシャッターは下りていて、二階の住宅部分にも明かりが見えない。シャッターの前の置き看板には、『古美術骨董 春山庵』と店の名前が書かれている。

「瞭、ここで間違いないと思うわ」

「早苗ちゃん、明かりが見えない・・・住人はもう寝ているんじゃないかな。それとも不在か。それにしても、あんなに強い念動波を発するとは、いったい何があったんだろう」

 瞭は春山庵と隣の店舗の建物との間を覗き込みながら、首を捻っている。犬か猫しか入り込めそうにない細い隙間を覗き込んでいる瞭を見て、早苗はダメだとばかりに首を振った。

「私が思念波を送って探ってみるわ」

 早苗は目を閉じた。早苗が意識を集中すると、脳の前頭葉がポッと温かくなった。脳内のネオニューロンが活性化して、水面に落ちた水滴の波紋が同心円状に広がっていくように、早苗の発した思念波が周囲に広がっていく。

 早苗はテレパシーを操り、予知能力も備えた優秀な超能力者(テレパス)である。

「あっ!」

 早苗は小さな叫び声を上げると、両手で両耳を塞ぐようにして地面にうずくまった。

「早苗ちゃん、どうした!」

 早苗の横にしゃがんだ瞭が、早苗の肩を抱いた。早苗は弓型の美しい眉をひそめて唇を噛んでいる。

「私の思念波が強い力で打ち返されたの。激しい拒絶、まるで鞭で打たれたみたいだわ」

「早苗ちゃんの思念波を感得したのか。ということは、相手はテレパスか・・・」

 瞭と早苗の頭上から、ジャラリと錫杖の音が響いてきた。

 瞭と早苗は頭上を振り仰いだ。二階建ての春山庵の瓦屋根の上に黒い影が立っている。その影は瞭と早苗をジッと見つめていた。瞭の視線と黒い影の視線が絡み合った。

 身に袈裟と篠懸を纏い、括袴をはいている。闇の中に白手甲が浮かび上がる。左手には背丈を超えるほど長い錫杖を持っている。瞭は咄嗟に天狗を連想した。

 黒い影は身体の前で小さく印を結び、ウンウンと何やら呪文のような言葉を唱えると、パッと宙に飛び上がった。ザアッと旋風が舞い、黒い影は旋風と共に消えた。

「飛んだ!」

 瞭が思わず声を上げた。早苗は両目をこれでもかと見開いている。信じられないという顔だ。

「ねえ瞭、いまのは、まさか天狗・・・じゃないわよね?」

 早苗の声が震えている。

「狐狸妖怪の類じゃない、あれは確かに人間だよ。念動波を感じた・・・サイコキネシスだ。サイコキネシスで自らの身体を宙に浮かせたんだ。凄い能力だ」

 瞭はサイコキネシスを操る超能力者である。その瞭にしても、宙に浮かんだことはなかった、いや、試したことがないのだ。

「何者か分からないが、とにかくあいつは行ってしまった。ここにいても仕方がない。とにかく帰ろうか」

 瞭は早苗の肩を抱くと、春山庵に背を向けて歩きだした。

 あいつは春山庵で何をしていたのだろう。ふとそう思った瞭は後ろを振り返った。春山庵は既に路地の闇の中に沈んで見えなかった。


 瞭と早苗が空を飛翔する怪人を目撃した翌日。

 警視庁刑事部捜査三課の小野啓助巡査部長は、春山庵の入口前で立番をしている巡査に警察手帳をチラリと見せて、小さく敬礼をしてから春山庵の中に入った。春山庵の前の細い路地は、十メートルほどの範囲で規制線が張られていて、規制線の外では鈴なりになった野次馬が、口々に何かを喋りながら伸び上がるようにして春山庵を見ている。

 店内は八畳の広さで、中央に応接セットがあり、壁際に置かれたガラスの陳列ケースの中に、刀剣類や壺・皿や仏像・神像などが並べられている。ひと目見て安物ばかりだ。高価な商品は奥の部屋の金庫にしまってあるのだろう。

 店内は所轄の西中野警察署の捜査員で溢れかえっていた。鑑識の作業はひと段落着いたのだろう、シートを被せた担架が運び出されようとしている。

 小野巡査部長の姿を認めて、旧知の山口巡査部長が声を掛けてきた。小野も山口も、窃盗事件を担当する部署に勤務している刑事で、過去に何度も捜査協力をしたことがある。年齢も、小野が四十三歳、山口がふたつ下の四十一歳と近く、何かと馬が合うのだ。

「本庁の小野さんじゃないですか。どうしたんです?」

「ああ、山口さん、お久しぶり。いや、何ね、春山幸吉が殺されたって聞いたものだから、慌てて飛んできたんですよ」

 山口はホウという顔をした。

「小野さんは春山幸吉を追っていたんですか」

「全国の神社仏閣で仏像神像の盗難被害が相次いでいてね、警視庁にも照会が寄せられていたんだ。狙う物や手口から、犯人は春山幸吉らしいと目星をつけて、春山の顧客に、古い仏像神像を集める金持ちの好事家がいるところまで突き止めたんだが・・・あと一歩というところで春山が殺された。捜査の糸が切れちまったよ・・・」

 愚痴を口にする小野を見る山口は、何ともいえない表情をしている。小野はその表情に気付いた。

「うん? 山口さん、どうした。春山の死因に、何かおかしな点でもあるのか」

「おかしな点があるというより、おかしな点だらけなんですよ。おい、ちょっと待て、春山の遺体を本庁の小野巡査部長に見てもらおう」

 春山の遺体を運び出そうとしていた係員に声を掛けて呼び止めると、山口は小野を担架の傍まで引っ張っていった。そして山口は担架に被せられているシートをめくり上げた。

 苦悶を浮かべた表情で固まっている春山幸吉の顔は、全体が焼け爛れていた。開襟シャツの襟元から覗いている胸や、袖口の先の両手も、顔と同様に焼け爛れている。しかし、春山が身に着けている開襟シャツやズボンには焼けた跡がなかった。全身が焼け爛れた焼死体に、後から開襟シャツを着せてズボンをはかせたようにも見える。

「何だこりゃあ! 春山は焼死したのか・・・しかし着衣は燃えていない・・・。焼き殺してから服を着せた? なぜ、そんな手間の掛かることを?・・・」

「小野さん、それだけじゃないんだよ。春山の遺体を発見したのは、春山庵の従業員の近藤康夫。近藤が午前八時半すぎにシャッターを開けて店の中に入って、応接セットのソファーで座ったまま死んでいる春山を発見したんだ。見てのとおり、春山が座っていたソファーも床も、いや、店舗内のどこにも焼けた跡がないんだ。ということは、犯人は春山をどこか外で焼き殺した後、わざわざ開襟シャツを着せてズボンをはかせた上で、死体を店の中まで運び込んでソファーに座らせたことになる。こんなことをする意味があるか?」

 小野は顎を指でつまんで首を傾げている。小野がぽつりと言った。

「犯行現場の特定から始めなきゃならんということか。外傷は? 遺体に外傷の痕はあったのかい」

「これから司法解剖をして本格的に死因を調べるんですが、ザッと見た限りでは外傷らしき痕は見当たらなかったですね。死亡推定時刻の特定もこれからだ」

「なるほど、場合によっちゃあ、他殺ではなく春山は焼身自殺した可能性もある訳か。焼身自殺した春山の死体に、誰かが服を着せて、店内に運び込む。なぜそんなことを・・・ダメだ、さっぱり分からん」

 小野は額というには広すぎる禿げ上がった頭をペタペタと叩いた。山口は遺体にシートを被せると、担架を持っている係員に、もう運び出していいと顎をしゃくった。

 小野はふと何かに気づいたように、視線を山口に向けた。

「山口さん、さっき、春山の遺体を発見した従業員は、店の入口のシャッターを開けて店の中に入ったと言ったね。シャッターも店の入口のドアも、いずれも鍵が掛かっていたということかね。裏口のドアも?」

「ええ、近藤はシャッターも店の入口のドアも鍵が掛かっていたと供述しています。一階の店舗も二階の住居部分も、裏口のドアや窓には全て鍵が掛かっていました。鍵の束は春山のズボンにぶら下がっていました。まあ、シャッターも店の入口のドアも、予備の鍵は従業員の近藤が預かっていて、店舗への出入りに使っていますから、密室殺人という訳じゃありませんがね」

「それじゃあ、第一発見者である従業員の近藤が容疑者になるのか」

「鍵を複製すれば誰でも入れるんでしょうが、まあ、鍵を持っている近藤が第一に疑われるでしょうな。遺体を運び込んで鍵を掛けて、翌朝、知らん顔をして鍵を開けて、通報する・・・。うーん、どうもまどろっこしいな。鍵を掛ける必要はないのか。まあ、カギが掛かっていたというのは近藤の供述だけで、近藤が鍵を開けるところを第三者が見ている訳じゃないからなぁ」

「近藤が犯人だとすると、何のためにそんなことを」

 小野は釈然としない顔でそう言った。山口がガクリと項垂れた。

「そこなんですよ、そこ。何のためにそんなことを・・・すべてそこに行き着くんだよなぁ。とにかく、近藤は任意同行ということで署に引っ張っていかれましたよ。今頃、強行犯係の連中に締め上げられているんじゃないかな。そうそう、そういえばもうひとつ、鑑識が変なことを言っていたな」

「まだ何かあるのかい」

 さすがの小野もあきれ顔だ。山口は顔の前でパタパタと右手を振った。

「いや、こっちは大したことじゃないんです。店舗や住居部分の床に微量の藁屑が落ちていたそうです。藁なんて東京都内じゃ見かけないでしょう。風で飛んできたのかな」

「仏像や神像を運ぶときの緩衝材じゃないのか」

「いまどき藁なんて使いますかね。ひょっとして、犯人は草鞋を履いていたりして・・・ハハハ、馬鹿らしい」

 山口は自分の頭の中に浮かんだ考えを笑い飛ばした。

 ザワザワと人が動く気配がして小野が振り返ると、作業を終えた鑑識課員たちが引き上げるところだった。店舗の中には小野と山口しか残っていない。先程までの喧騒が嘘のように、店舗の中はシンと静まり返っている。

「そろそろ、私たちも引き上げますか」

 山口に促されて、小野はしぶしぶと頷いた。所轄署が引き上げるのに、合同捜査本部すら発足していない現状で、本庁の小野が残る理由がない。店舗の入口に向かって並んで歩きながら、小野は山口に言った。

「春山から盗品の仏像や神像を買った好事家に関する情報が欲しいんだ。従業員の近藤も盗品売買に一枚噛んでいるに違いないはずだ。山口さん、頼みがある。近藤に対する事情聴取の合間を見て、好事家に関する情報を近藤から聞き出してくれないかな」

 山口は横目でチラリと小野を見た。小野の顔には、無理は承知の上だと書いてある。食らいついたら放さない、すっぽんという小野のあだ名を思い出した山口は、苦笑を浮かべながら了解した。

「分かりました。強行犯係の事情聴取の合間に聞いてみますよ。私が嫌だと言ったら、小野さんは署の取調室に乗り込んでくるつもりでしょ。そうなったらひと悶着だ」

「すまん、恩に着る」

 わざとらしく両手を合わせた小野を見て、山口はアハハと笑った。


 まったく不思議な神像だと、御手洗達造は心の中でつぶやいた。古美術商の春山から買い取った神像は、達造の両手の中で磁力にも似た妖気を放っている。

 春山がへちま顔を歪ませて、もったいぶった手付きで取り出した神像に、達造はひと目で虜になった。二千万円だという春山の言い値を、達造は値切りもせず買い取った。言い値で売れるとは思っていなかったのだろう、春山の驚いたような顔が目に浮かぶ。

 御手洗達造は、東京、大阪、名古屋、札幌などの主要都市にホテルや貸しビルを百棟近くも所有し、更に、リゾート開発やゴルフ場経営など幅広い事業を展開していて、不動産王と呼ばれている。七十歳となったいまでは、事業を息子の浩一に任せて第一線からは退き、長野県の軽井沢にある広大な別荘に住んでいた。

 達造は美術品の蒐集家としても有名で、書画刀剣の類から彫刻や仏像神像まで幅広く蒐集している。当然に表のルートだけでなく、春山のような盗品を扱う裏のルートまで使い、金に糸目を付けずに買い漁っていた。

 まったく不思議な神像だと、達造はもう一度心の中でつぶやいた。和歌山県の熊野山中の祠に祀られていた神像だと春山は言ったが、見る限り日本の神ではない。中国や韓国やインドといったアジアの神ではなさそうだ。古代エジプトの神々とも違う。中南米のインカやマヤの神かも知れない。しかも相当に古いものだ。

 舐めるように神像を眺めていた達造の、垂れ下がった瞼に埋もれたような細い目が、神像の胸部に施されている摩耗した紋様に釘付けになった。何か仕掛けが施されているようだ。神像の胎内に何かが埋め込まれているのだろう。木製の神像にしては持ち重りがするし、重心が偏っているように感じられるのはそのためだ。達造の心臓がドクリドクリと早鐘のように鳴り出した。

 海賊の隠した宝の箱を見つけたトレジャーハンターのように、熱に浮かされたような目をして達造は神像の胸の部分を指で擦った。永い年月を経て摩耗した神像の表面に、微かだが色が周囲と異なる部分がある。何かを隠した穴を塞ぐようにして木を埋め込んでいるのだ。

 達造はカミソリの刃を使って、埋め込まれた木の蓋の周囲を慎重になぞった。木の蓋と神像本体の間の目に見えない隙間にカミソリの刃が吸い込まれた。

「おっ!」

 突然、神像がブルリと震えたような気がして、達造は思わず声を上げた。

 神像の胸の中心部分にある、縦横三センチ四方の木の蓋の部分にシワリと亀裂が入ったかと思うと、内部からの圧力に耐えきれずに木の蓋の部分が縦にふたつに割れ、観音開きの扉のように外側に向けてパカリと開いた。

 思わず神像を落としそうになった達造は、慌てて両腕でしっかりと神像を抱えた。神像の中に封じ込められていたものが、外に出たがっているようだと達造は思った。パンドラの箱という言葉がチラリと達造の脳裏をよぎった。いやいや、あれは単なるギリシャ神話に過ぎない。目の前にある神像は現実だ、古代の隠された秘宝が現れるのだ。達造の心の中には畏怖も恐怖心もなく、未知のものを手にした蒐集家の興奮と好奇心が渦巻いている。

 達造は神像の胸に空いた穴を覗き込んだ。四角い穴の中に黄色い布に包まれた小さな物が押し込まれている。達造は手袋を嵌めた指を四角い穴に差し込んで、小さな物を取り出すと、ソファーの前の大理石の大きなテーブルの上に置いた。

 達造はゆっくりと息を吐くと、額にネットリと滲んだ脂汗を拭った。両手の指を二、三度開いたり閉じたりして緊張をほぐすと、黄色い布をゆっくりと開いた。

 直径二センチほどの円形をしたブローチのような物がふたつ、ピッチリと貼り合わされていて、ふたつが離れないように針金のような細い金属で縛られていた。ブローチのような物は深緑の翡翠で造られていて、神像の顔に似た異形の顔が彫り込まれている。ふたつを縛る細い金属は純金のようだ。

「おおお・・・」

 目の前に現れた宝石の美しさに達造は感嘆の息を漏らした。二千万円どころではない、とてつもない掘り出し物だ。腹の底から笑いがこみ上げてきた。それと同時に、ふたつのブローチのような物の間に何が挟まれているのだろうという好奇心が猛然と湧き上がってきた。

 それを確かめるためには、純金の針金を切断しなければならない。どうする? 一瞬迷った後、達造は心を決めた。真に大切なものは翡翠でも純金でもない、この中に挟まれている物こそが、すべてに勝る価値ある物のはずだ。そう、目の前の物は単なる容器に過ぎない。

 達造は工具箱からニッパーを取り出すと、純金の針金をパチリと切断した。

 達造は震える指で翡翠のブローチのような物をふたつに開いた。

 内側には鏡が貼り付けてあった。翡翠のブローチのような物の正体は円形の鏡で、ふたつの鏡が、鏡面を向かい合わせにして縛り付けてあったのだ。魔を封じ込める、合わせ鏡の呪術なのだろう。

 気が抜けたような顔をした達造が、鏡のひとつを手に取って、鏡を覗き込んだ。

 鏡には達造の顔が映っていない。

 鏡の中から、達造とは似ても似つかぬ男が達造を見ていた。頭髪は一本もなく、落ち込んだ眼窩と胡坐をかいたように横に広がった鼻、頬は恐ろしいほどコケていて、鼻から下は髭で覆われている。落ち込んだ眼窩の底から炯炯と光る赤い目が、達造を捕えた。

 達造の魂は、鏡の中の魔人に取り込まれた。


 ザアッと一陣の風が吹き抜けて、御手洗達造の住む別荘の広大な庭に植えられているミズナラの木々の枝を揺らした。

 深夜の空には立待月が昇っていた。満月を二日過ぎて、月の光は徐々に力を失い始めている。月明かりの中に大巌坊がのっそりと立っていた。

 大巌坊は別荘の母屋に続く砂利道をゆっくりと歩き始めた。ジャラリと錫杖の音が響いたが、砂利を踏む大巌坊の足音は聞こえない。

 母屋の入口のドアが見えたとき、微かな獣の臭いが大巌坊の鼻に届いた。グヴヴヴと押し殺したような唸り声が、大巌坊の周囲から聞こえてきた。ガサリと音がして砂利道の脇の植え込みの中から三頭のドーベルマンが姿を現した。警備用に放し飼いにされているのだろう、体高八十センチ、体重五十キロはあろうかという巨大なドーベルマンだった。

 三頭のドーベルマンは大巌坊の周囲をグルグルと回りながら、鋭い牙を剝き出して、威嚇するように唸っている。これ以上先に進めば容赦なく飛びかかってくるだろう。

 大巌坊は少しも恐れる様子を見せず、身体の前で小さく印を結び、「ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン」と呪文を唱えると、右手の人差し指と中指を突き出して、ヤッヤッヤッと三頭のドーベルマンに向かって気を発した。唸り声を上げていた三頭のドーベルマンは、キュウと小さく声を上げると、地面に身体を伏せて動かなくなった。

 母屋の入口のドアの前に立った大巌坊は、左手に持った錫杖の石突をドアに向けて、ヤッと気を発した。金属製の自動ドアが音もなく開いた。大巌坊はジャラリと錫杖の音を響かせると、母屋の中に入った。

 二十畳の居間の中央に大きな一枚板の大理石のテーブルが置かれていて、その周囲をコの字に取り囲むように革張りのソファーが並べられている。北側の壁には人の背丈ほどもある大きな暖炉が設えてあって、六月だというのに暖炉の中では薪がチラチラと炎を上げている。東側の壁にはバーカウンターがあり、西側の壁には天井まであるガラスケースの中に、壺や皿や刀剣類が並べられている。南側は天井まであるガラス戸で、閉められたカーテンを開けると、その先には手入れされた中庭の風景が広がっているのだろう。床には、くるぶしまで埋まりそうな分厚い絨毯が敷き詰められている。

 御手洗達造は革張りのソファーに身体を預けて、考え事でもしているかのように、身じろぎもせずに前を向いていた。いや、達造は手に持った円形の鏡をジッと見つめているのだ。達造の前の大理石のテーブルの上には、胸部にポカリと穴が空いた異形の神像が置かれている。その横に、もうひとつの円形の鏡が伏せられた状態で置かれている。

 ジャラリと錫杖の音が響いた。

 大理石のテーブルを挟んで、達造の正面に大巌坊が立っていた。

 大巌坊が目の前に立っても、達造は身動きひとつせず、手に持った円形の鏡をジッと見つめている。

 大巌坊は口を開こうとして、達造が発する禍々しい妖気に気付いた。大巌坊は一度丹田にグッと気を込めてから、言葉を吐いた。修行で鍛えた太く張りのある声が居間の中に響いた。

「御手洗達造。那智勝浦の牛鬼集落にある封魔の祠より春山幸吉が盗み出した神像を返してもらう。春山幸吉には神罰が下り、身体より炎を発して焼け死んだ。御手洗達造、お前にも同様の神罰が下される。覚悟せよ」

 大巌坊はおもむろに大理石のテーブルの上に置かれている神像を手に取った。そして、神像の胸に空いた穴を見て息を呑んだ。

「お前は神像に封じられていた魔を解き放ったのか! 何ということをしたのだ」

 ソファーに身体を預けたまま、手に持った円形の鏡をジッと見つめていた達造は、毒蛇が鎌首を持ち上げるようにグウッと顔を上げると、大巌坊を見た。達造の両目から瞳が消えていて、ぽっかりと空いた空洞のような両目の穴は、一面が血塗られたように真っ赤に染まっている。そして、その真っ赤な両目から邪悪な思念波がほとばしるように流れ出た。その思念波は、二匹の絡み合う毒蛇のように大巌坊に飛び掛かった。

「ヌッ!」

 大巌坊は咄嗟に三メートルほど後方に跳び下がると、身体を囲むように、錫杖の石突で素早く床に円を描き、防御のための結界を張った。そして錫杖を前に突き出すようにして構えた。

 絡み合う毒蛇のような思念波は、結界の周りをグルグルと回っている。大巌坊はヤッと気合いを掛けて、毒蛇のような思念波に向けて錫杖を振り下ろした。ジャラリという錫杖の音が響いた。毒蛇のような思念波は真っ二つに引き裂かれて、スウッと消えた。

 大巌坊は胸の前で小さく印を結び、「ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン」と呪文を唱えると、右手の人差し指と中指を突き出した。

「ヤァーッ!」

 大巌坊は雷鳴のような声と共に気を発した。

 ソファーに身体を預けたままの達造の身体が小刻みに震え始めたかと思うと、達造の頭部がメラリと炎に包まれた。はだけたガウンから覗く胸も、袖から伸びる両腕も炎に包まれている。しかし、達造の身に着けているガウンやパジャマは燃えていない。足元のスリッパも、その下の絨毯も燃えていない。達造の身体だけが炎を発していた。

 大巌坊の会得した験力のひとつ、火焔の術である。

 この場に、もし瞭か早苗がいれば、念動力(PK)の一種であるパイロキネシス(発火能力)だと指摘するだろう。大巌坊は厳しい修行により念動力を発現した超能力者なのだ。

 全身を炎で焼かれた達造は、しばらく痙攣するように身を捩っていたが、直ぐにソファーに座ったまま動かなくなった。達造は悲鳴どころか呻き声すら上げなかった。真っ赤だった両目も炎で焼かれて、黒いふたつの穴が空いているだけだ。

 大巌坊は床に描いた結界から出ると、達造の死体に慎重に近づいた。不思議なことに、先程達造が発していた禍々しい妖気は消えている。神像に封じられていた魔も火焔の術によって浄化されたのだろうと、大巌坊は安堵した。

 達造の死体が何かを握っている。大巌坊の目が吸い寄せられた。大巌坊は達造の手から円形の鏡を取り上げると、何気なく鏡を覗き込んだ。

 鏡には大巌坊の顔が映っていない。

 鏡の中から、魔人が大巌坊を見ていた。大巌坊は咄嗟に鏡から目を逸らそうとした。しかし、大巌坊の両目は鏡から離れない。魔人の落ち込んだ眼窩の底から炯炯と光る赤い目が、大巌坊を捕えた。

 鏡の中から、魔人の痩せさらばえた腕がヌウッと伸びてきて大巌坊の首を掴むと、大巌坊を鏡の中に引きずり込んだ。

 大巌坊の魂は、鏡の中の魔人に取り込まれた。


 西中野警察署の山口巡査部長が北陸新幹線の軽井沢駅の改札を出ると、制服姿の警察官が近寄ってきて、山口に声を掛けた。西中野警察署から軽井沢警察署に、山口の到着時刻と顔写真があらかじめ連絡されていたのだろう。

「西中野警察署の山口巡査部長ですね。ご苦労さまです。自分は軽井沢駅前派出所の真田巡査です。車を用意していますので、軽井沢警察署までご案内します」

 警察学校を卒業してまだ間もないような初々しい真田巡査の緊張した態度に、山口は好感をもった。山口は真田にニコリと笑い返した。

「やあ、これはどうも、恐縮です。お忙しいのに手間を掛けさせて申し訳ない」

「お気になさらず、さあ、どうぞ。こちらです」

 山口が持っていた小さな鞄をひったくるようにして手にすると、真田は山口を先導するように歩きだした。まだ時期が少し早いのだろう、北陸新幹線としなの鉄道の線路の上を跨ぐように設けられたコンコースには、観光客の姿はまばらにしか見えない。

 七月に入り、季節は初夏をとおり越して既に夏本番を迎えたかのように、連日猛暑日が続いていた。うだるような暑さの東京とは違い、避暑地の軽井沢は涼しく、空気もカラリと乾燥している。駅舎の北口を出ると、山口を出迎えるかのように涼風がサアッと吹き抜けた。

「ああ、いい風だ。東京の蒸し風呂のような暑さに比べると、こっちは天国だね」

 思わず口に出た言葉に、真田が振り返った。

「東京からこられた方は皆さんそうおっしゃいますね。ここに住んでいる者には分かりませんが。まあ、得てしてそういうものなんでしょう。そういえば、先週、東京からこられた警視庁の方も、同じようなことをおっしゃってましたよ」

「先週? それは警視庁の小野巡査部長のことかい」

 聞き返した山口の語気が険しくなったが、真田はそれに気付かずに、のんびりとした口調で答えた。

「あ、ご存じなんですか。そうです、小野巡査部長ですよ。実は、小野巡査部長も自分がお出迎えしたんです。というか、他県からこられる方のお迎えは、駅前派出所の自分の担当なんですけどね、ハハハ」

 駅前のロータリーの脇に設けられている駅前派出所の駐車場に止めてある、軽自動車のパトカーの助手席に座った山口は、鼻歌交じりでパトカーを発進させた真田に尋ねた。

「小野巡査部長は、とある事件の関係者への聞込み調査のために軽井沢にきたはずだが、関係者宅にも真田巡査が案内したのかい」

「最初はその予定だったんですが、間が悪いことに、コンビニ強盗未遂事件とひき逃げ事件が重なりましてね。何せ小さな警察署なもんで人手が足らなくて。自分も交通整理要員に駆り出されて、小野巡査部長のご案内まで手が回らなかったんです。小野巡査部長は、署に迷惑を掛けられないとおっしゃって、確かレンタカーで現地に向かわれたはずですよ」

「レンタカーで・・・」

 山口は眉間にしわを寄せ、腕を組んで考え込んだ。

「小野巡査部長がどうかされたんですか」

 山口は一瞬躊躇してから、秘密を打ち明けるように低い声で言った。

「小野巡査部長は行方不明なんだ。先週、軽井沢の関係者宅への聞込み調査に向かったきり、姿を消した。スマートフォンもバッテリー切れなのか、電波が届かないのか、理由は分からないが繋がらない」

 真田は驚いたように目を見開いた。


 春山幸吉の遺体は司法解剖に付された。司法解剖の結果、遺体に外傷はなく、体内から致死性の薬物等を摂取した痕跡も発見されなかった。肺の中に水はなく溺死は否定され、肺胞の壊死鬱血等の症状もないため、窒息死や致死性のガス吸引による死亡も否定された。

 下された死因は焼死。不思議なことに、通常の焼死の場合に見られる、喉や肺の粘膜の火傷の症状が見られなかった。このため監察医は、何らかの理由により死亡してから遺体が焼かれた可能性も否定できないとしている。

 更に、監察医は人体自然発火現象にも言及している。西暦千九百五十一年アメリカのフロリダ州で起こったメアリー・リーサー事例、西暦千九百八十八年イギリスのサウサンプトンで起こったアルフレッド・アシュトン事例など、人間が自然に発火したと判断される事例は、世界中で古くから発生している。遺体の周囲に火の気のない状況から、春山幸吉も人体自然発火現象である可能性を監察医は指摘している。

 死亡推定時刻は、胃の内容物の状況から、六月〇日午後十時から翌日の午前二時の間とされている。

 このため、殺人事件なのか、自殺なのか、死体損壊事件なのか、死体遺棄事件なのかすら判断がつかないまま(人体自然発火現象であれば、単なる自然現象にすぎず事件性すら失くなってしまう)、西中野警察署に捜査本部が置かれた。

 周囲の聞き込み調査が虱潰しに行われているが、いまのところ有用な目撃情報なし。また、犯行現場あるいは死体損壊現場となる、春山幸吉を焼いた場所も特定できていない。

 このため、唯一の手掛かりであるはずの、遺体の第一発見者・春山庵の従業員の近藤康夫に対する任意の事情聴取が、強行犯係によって連日行われていた。

 山口は強行犯係の係長に一言仁義を切ってから、近藤と面接した。春山の殺害に関しては一貫して否認している近藤だったが、古美術品の窃盗・闇売買に関しては素直に関与を認めた。そして、近藤の口から春山の顧客である金持ちの好事家の名前と住所を聞き出した。その好事家のひとりが、軽井沢の別荘に住む御手洗達造だった。

 山口から春山の顧客の名前と住所の連絡を受けた小野は、古美術品の窃盗・闇売買事件の聞込み調査として、先週、軽井沢の御手洗達造宅を訪ねたはずだ。そして、小野は連絡を絶ち、行方不明となった。

 今回、山口が軽井沢を訪れたのは、春山幸吉の死亡にかかる事件の捜査の一環として、春山の顧客に関する情報収集を兼ねた聞込み調査のためだ。山口が小野の行方不明を知ったのは、軽井沢への出張の直前に、小野の上司である警視庁刑事部捜査三課長の宮間から連絡を受けたからである。


 真田の案内で所轄の軽井沢警察署に顔を出し、署幹部への挨拶と捜査協力の要請を済ませた山口は、再び真田の運転するパトカーで千元谷集落にある御手洗達造の別荘に向かった。

 しなの鉄道中軽井沢駅前から国道百四十六号線に入り、中軽井沢の市街地を抜けて山道に入ると、左手は浅間山の山容が広がっている。山道を一キロメートルほど進み、右手に現れた脇道に入る。脇道はミズナラやカラマツの自然林の中をクネクネと縫うように延びていた。頭上を覆うように茂っている葉のために太陽光が遮られていて脇道は薄暗く、標高が上がっていることも加わって、空気はヒンヤリと冷たい。

 車の窓から流れ込んでくる風は涼しいをとおり越して寒いくらいで、山口はブルリと身体を震わせてから、窓を閉めた。

「何だか、凄い山の中に入ってきたようだけど、こんな所に集落があるのかい」

 真田は林の中の細い道を、山口が心配するようなスピードでパトカーを走らせている。軽自動車の細いタイヤが、カーブを曲がる度に悲鳴のような音を上げて、その度に山口は両足を踏ん張った。山口の両掌はじっとりと汗が滲んでいる。

「任せて下さい、こっちは地元警察ですよ。これで迷っていたら、商売あがったりだ。この道を二キロメートルほど進んだ先が千元谷集落です。まあ、集落といっても、古くからの住民が住む集落ではなく、山中の開けた場所に別荘がかたまって建てられてできた新しい集落ですけどね」

 真田は初対面の緊張がほぐれてきたのか、駅に迎えにきたときに比べて口調が砕けてきた。これが本来の真田なのだろう。

「へえ、別荘だけで構成される集落ってことか。それじゃあ、集落の住人同士の交流なんて少ないのかな」

「避暑地の別荘ということもあって一軒一軒の家の敷地は途方もなく広く、それが集落内にポツリポツリと点在しているんです。広い庭に植えられた木々によって遮られているので、隣の家なんか見えやしませんしね。まあ、資産家や政治家や有名人がお忍びで避暑にくる場所でしょうから、隣の家との交流など不要なんでしょう。隣の家の人に興味なんかないんですよ。ああ、千元谷集落の入口が見えてきた」

 ミズナラやカラマツの自然林が途切れて、明るく平坦な場所に出た。道の脇に道路標識のような看板が立っていて『千元谷』とだけ書かれている。その先に道は真っ直ぐに延びていて、所々で左右の別荘地に入る脇道がある。脇道にも看板が立っているが、個人の名前はなく、住居表示と思われる数字が並んでいるだけである。確かに、これでは隣に誰が住んでいるのかなど分からないだろう。

「えーっと、訪ねるのは御手洗達造さんの別荘ですね。御手洗・・・御手洗・・・あった、七〇三番地か。ああ、あそこだ」

 真田は警察署で管理している居住者名簿で御手洗達造の別荘の地番を確認すると、七〇三という数字が書かれた看板が立っている脇道にパトカーを乗り入れた。

 脇道を二百メートル進むと、道の両脇に一メートルほどの高さの門柱が立っていた。門扉は付いていない。敷地の周囲は林に囲まれていて塀などないため、ここだけ門扉を付ける意味がないのだ。道は緩やかに左にカーブしながら木造平屋建ての大きな母屋の玄関前まで続いていた。

 L字型をした母屋の脇に渡り廊下で繋がったコンクリート造りの頑丈な倉庫が建っている。美術品を保管している倉庫なのだろう。中庭は芝生が植えられていて、所々に島のように奇怪な岩が配置されている。その岩々の間に楓や桜や百日紅が植えられている。

 玄関前の車寄せにパトカーを止めると、山口と真田は玄関の前に並んで立った。

 母屋の入口は金属製の自動ドアで、ドアの横の壁にあるインターホンの脇に大理石の表札が掛かっていて、御手洗という字が彫り込まれていた。御手洗達造の別荘に間違いない。

 山口がインターホンのボタンを押した。しばらく待っても、返答がない。山口は二度三度とインターホンのボタンを押したが、返答はなかった。

「留守なんじゃないですか。そもそもここは避暑地の別荘だから、まだこっちにはきていないとか。東京にいたりして」

 真田の声に山口は首を横に振った。

「息子の御手洗浩一に確認したところ、達造は軽井沢の別荘に引きこもったままで、東京には出てこないそうだ。足が悪いため出歩くこともままならなくて、買い物にも出ない。食事の世話と掃除のために、一日に一度お手伝いさんがくるそうで、必要なものはそのお手伝いさんが買ってくるそうだ。車に乗って外出することは、たまにあるらしいが・・・」

 山口が玄関脇の大きなガレージを覗くと、黒のベンツが止まっていた。

「車はここに止まっている。やはり、達造は中に居るはずなんだが」

「警察官がきたのを見て、居留守を使っているのかな。けしからん。きっと、やましいことがあるんですよ」

 若い真田は正義感に駆られているのだろう、鼻の穴が広がっている。老練な山口はそれを見て苦笑した。俺も若い頃はこうだったと思っているのだ。いまでは、滅多なことでは正義感を振りかざしたりしない。

「やましいことねぇ・・・。よし、中庭の方に回ってみるか。真田巡査は反対側から回って、母屋の裏口を見てくれ」

「了解しました」

 山口と真田は玄関前で左右に分かれると、達造の姿を求めて歩きだした。

 玄関前の車寄せから延びる砂利道の私道は、車を回転させることができるようにロータリーになっていた。そのロータリーの脇に沿ってコンクリートブロックが積まれて、塀のような植え込みになっていた。植え込みには山口の胸の高さほどもある躑躅が隙間なく並び、緑の葉を茂らせている。花の盛りの五月には、辺りは一面毒々しいほどの紫色の躑躅の花に埋め尽くされるのだろう。

 植え込みに沿って二十メートルほど歩くと、竹を組んだ小さな枝折戸があった。

 枝折戸を開けて中に入ると、そこは芝生の植えられた中庭になっていて、濡れたように黒い玄武岩の平たい踏み石が敷かれていた。小山のように大きな奇岩が所々に配置されている。奇岩の間を縫うように踏み石は敷かれていて、その先に母屋が見えた。

 母屋の床は地面から五十センチほど高く、中庭に面した部分はウッドデッキが付いていて、階段で中庭に下りることができるようになっている。踏み石はその階段まで延びていた。中庭に面した母屋の壁は、大きなガラス戸になっていて、いまは天井から床まで垂れている白いカーテンに遮られて室内は見えなかった。

 中庭を見回しても人影はなかった。

 山口は階段を上り、ウッドデッキに立つと、ガラス戸に手を掛けた。カギが掛かっているだろうと思いつつ、試しに手に力を込めると、ガラス戸は音もなくスウッと開いた。風が室内に流れ込み、薄いカーテンがフワリと揺れた。

 不法侵入だと騒がれるかなと、山口は一瞬思ったが、そのときはそのときだと腹を括った。軽井沢まできて、何もなしにノコノコと東京へは帰れない。

 山口は室内に向かって声を掛けた。

「どなたかいらっしゃいませんか。私は東京の西中野警察署の山口巡査部長と申します。御手洗達造さんにお話を伺いたくてお訪ねしました。どなたか・・・」

 山口はそこで言葉を呑んだ。鼻が曲がるような腐臭を嗅いだ気がしたのだ。山口はゴクリと生唾を呑み込んでから、視界を遮っている白いカーテンをかき分けた。

 二十畳の居間の中央に大きな一枚板の大理石のテーブルが置かれていて、その周囲をコの字に取り囲むように革張りのソファーが並べられている。

 正面のソファーの上に、パジャマを着てガウンを羽織った達造が座っていた。達造は背中をソファーに預け、頭をのけ反らせるようにして上を向いたまま微動だにしない。

 山口は土足であることも忘れて、居間の中に駆け込んだ。嘔吐を催すような腐臭が山口を包んだ。山口はポケットからハンカチを取り出して鼻と口を覆い、正面のソファーに近づいた。

 達造の頭部やガウンからはだけて見える胸や両手は焼け爛れて真っ黒に変色していて、しかも、至る所に蛆虫が貼り付いてヌメヌメと動いている。

「ウグッ!」

 山口は大声で叫びそうになった衝動を何とか抑えた。途端に胃が痙攣して、身を捩るような激しい嘔吐感がこみ上げてきた。とても我慢できない。山口は咄嗟に達造に背を向けると、ウッドデッキに走り出そうとした。

 いつの間にか、山口の背後に大巌坊が立っていた。

 走り出そうとした山口を、大巌坊は右手を上げて制した。修行で鍛えた太く張りのある声が居間の中に響いた。

「何用かな。断りもなしに入ってくるなど、ただごとではない。お前の姓名を申せ」

「な・・・な・・・何を言っているんだ、あんた・・・。あれが見えないのか、人が死んでいるんだぞ!」

 気が動転している山口は、現在の異常な状況が理解できていない。頭上に頭巾を乗せ、身に袈裟と篠懸を纏い、括袴をはいている大巌坊の姿にまで思いが至らないのだ。

「ああ、あれか。あの男は神罰を受けたのだ。自業自得よ、気にすることはない」

「神罰? あんた、何を・・・まさか、あんたが殺したのか」

 山口の頭に昇っていた血がスウッと引いた。殺人犯と殺人現場で向かい合っているのだ。警察官の本能がムクリと頭をもたげた。殺人犯であれば逮捕しなければならない。殺人犯? あの遺体は死後少なくとも数日は経過している。殺してから殺害現場に数日間も留まっている殺人犯などいない。何かの事情で殺人現場に舞い戻ってきたのかも知れない。

「私は西中野警察署の山口巡査部長だ。殺人の容疑で現行犯・・・ではないのか。とにかく、重要参考人として、あなたの身柄を確保する。軽井沢警察署の巡査も同行しているんだ、大人しくするように。あなたの氏名は?」

 山口は少し腰を落として、注意深く身構えながら大巌坊を見た。山口は柔道四段の猛者だ。身長百六十五センチの小柄な大巌坊が仮に暴れたとしても、組み伏せる自信があった。

 大巌坊は左手に持った錫杖をドンと床に突いた。ジャラリと錫杖の音が響いた。

 山口がビクリと肩を震わせた。

「な、何だ、抵抗する気か。私は柔道四段、そっちがその気なら、痛い目に・・・」

 大巌坊の右手がスウッと上がり、山口の喉を掴んだ。山口は声を失った。なぜか身体を動かすことができない。大巌坊の両目から瞳が消えて、ぽっかりと空いた空洞のような両目の穴は、一面が血塗られたように真っ赤に染まっている。

「儂の名前は大巌坊。熊野で修行をする修験者だった。そしていまは、鏡の中の魔人ギギアハウ様の僕だ。山口といったな。お前の魂をもらう。お前は鏡の世界を永遠にさまようのだ」

 大巌坊は右手で山口の喉を掴んだまま、床の上を滑るように前へ進んだ。山口の身体は糸の切れた操り人形のように力を失って、後ろを向いたまま、大巌坊に引きずられている。山口の両目は恐怖のために、まなじりが切れそうなほど見開かれている。

 白いカーテンをかき分けるようにして、真田巡査がウッドデッキから居間に飛び込んできた。山口の「抵抗する気か」という言葉を耳にして、非常事態だと察したのだ。

「山口さん! どうしました! あっ・・・おい、動くな、動くと撃つぞ!」

 真田は、山口が喉を掴まれて引きずられている姿を見て、腰の拳銃を抜いた。射撃訓練は受けているのだが、現場で拳銃を構えたのは初めてなのだろう、真田の構えた拳銃の銃口がブルブルと震えている。

 大巌坊は振り返って真田を見ると、左手に持った錫杖の石突を真田に向けて、ヤッと気を発した。真田は拳銃を構えたまま、後方に五メートルも吹き飛ばされ、カーテンを引き千切りながら、ウッドデッキに背中から叩きつけられた。

 大巌坊が進む先の北側の壁には、高さが二メートルはあろうかという、大きな鏡が立て掛けられていた。それだけではない、居間の壁には至る所に大小形の違う鏡がびっしりと掛けられていた。北側の壁の大きな暖炉の上や脇にも鏡が置かれている。東側の壁のバーカウンターの上にも、所狭しと鏡が置かれている。西側の壁のガラスケースの中にあった壺や皿や刀剣類は無造作に床の上に放り出されていて、その代わりに、無数の鏡がガラスケースの中に陳列されている。居間の中だけではない、廊下も食堂も寝室も・・・全ての部屋が鏡で埋め尽くされていた。

 大巌坊は歩みを止めることなく大きな鏡に向かった。大巌坊の身体は水面に沈むかのように、大きな鏡の中に溶け入った。鏡面から山口の首を掴んでいる右手だけが突き出ている。その右手もゆっくりと鏡面の中に沈み、それに続いて山口の身体が背中から鏡面の中に沈んだ。鏡面は一瞬撓んだようにぼやけて波紋が広がり、直ぐに元に戻った。

 再び居間の中に駆け込んできた真田の目の前で、山口の身体が大きな鏡の中に引き込まれた。鏡面に沈む直前の山口の驚愕した顔が真田の脳裏に焼き付いた。

「そんな、そんな馬鹿な・・・山口さんが鏡の中に引き込まれた。そんな、そんな・・・」

 真田はヨロヨロとした足取りで、山口が引きまれた大きな鏡の前に進んだ。真田の目の前にある鏡は、真田の呆然とした顔と、背後の居間の風景を映していた。背後の居間の風景の中にも、そこに置かれている無数の鏡が映っている。

 真田は気付いた。

 目の前の鏡面に映っている真田の背後の鏡の中に、山口がいた。

 山口は何かを叫んでいるのか口をパクパクと開き、ガラス戸を叩くかのように、内側から鏡面を叩いている。山口の両目は瞳を失って真っ赤だった。

「ウアアア!」

 真田は腹の底から絞り出すような悲鳴を上げて、大きな鏡に背を向けて走り去った。

 翌日。浅間山の山中をフラフラとさまよっていた真田が捜索隊により保護された。真田は、何を尋ねられても「鏡が、鏡が」と繰り返すだけで、それ以外は何も答えられなかった。その後、医師の診察を受け、何らかの強い衝撃を受けて、精神に異常をきたしたものと診断された。

 捜索隊は、千元谷集落の御手洗達造の別荘で、達造の焼死体を発見した。司法解剖の結果、達造の遺体の状況は、東京都中野区で発見された春山幸吉の焼死体と同様の特徴があることが判明した。

 食事の世話と掃除のために、一日に一度、達造の別荘に通っていたお手伝いの米山美代子が行方不明となっていて、家族から捜索願が出されていることが判明した。二週間にわたる捜索隊の懸命の捜索によっても、米山美代子の所在は判明しなかった。警視庁の小野巡査部長と西中野警察署の山口巡査部長の行方も依然として不明のままである。


一か月後

 千元谷集落に向かって延びている林の中の細い道を、小さなリュックサックを背負った矢沢瞭が歩いていた。グレーのポロシャツにジーンズ、足元はスニーカーといういつもの軽装である。瞭が乗ってきた黒のSUVは中軽井沢のコインパーキングに止め、そこから山道を歩いてきたのだ。午前九時に東京を車で出発して、軽井沢まで関越自動車道と上信越自動車道を使って約二時間半。時刻は午後二時を回ったところである。

 八月初旬の夏本番を迎えたミズナラやカラマツの自然林の中は、耳を聾するような蝉の鳴き声で埋め尽くされていた。その洪水のような鳴き声に聴覚が麻痺してしまうと、水底に沈んでいるような不思議な静寂に包まれる。不思議なことに、スニーカーが踏んだ足元の小枝が折れるピシリという音や、目の前を横切る熊蜂のブウンという羽音が聞き分けられた。頭上を木々の葉で覆われた林の中は薄暗く、むせ返るような緑の匂いがしみ込んだ空気はヒンヤリと冷たい。

 自然林の中に掘られた隧道のような道を進むと、突然自然林が途切れて明るく平坦な場所に出た。道の脇に道路標識のような看板が立っていて『千元谷』とだけ書かれている。

 看板の脇にパトカーが止まっていて、瞭の姿を認めるとふたりの巡査がパトカーから降りてきた。ひとりは四十代で小太り、もうひとりは二十代で痩せている。小太りの巡査が瞭に声を掛けた。

「どちらに行かれますか?」

「ああ、この先の千元谷集落へ」

「ご用件は?」

「用件? あのう・・・観光といいますか、仕事といいますか・・・」

 瞭が言葉を濁すと、小太りの巡査がジロリと瞭を睨んだ。瞭はムッとした顔で小太りの巡査に食って掛かった。

「用件がなければこの先へは進めないんですか? 規制線でも張られているんですか? 立入禁止ならそう言ってくださいよ」

「いやいや、気を悪くせんでください。とおりいっぺんの確認ですから。あなたは、一月ほど前にこの千元谷集落で起こった死亡事件はご存じ? はあ。それではこの千元谷集落で、行方不明者が続出していることも?」

「ええ、知っています」

 瞭が憮然とした顔で答えると、小太りの巡査と痩せた巡査は顔を見合わせて、やはりと小さく頷いた。

「事件を知った興味本位の観光客が、あ、あなたのことじゃありませんよ・・・そのう・・・観光客が行方不明になり、その後、ユーチューバーっていうんですか、そういった輩が行方不明になり、更に、テレビの取材班の中のひとりが取材中に行方不明になり・・・とにかく、警察官が定期的に巡回しているんですが、それでも行方不明者が後を絶たないんですわ。まあ、立入禁止区域ではないので、千元谷集落に入ることを止めやしませんが、とにかく注意していただきたいと、そういうお願いです」

 瞭は顔色を改めた。

「なるほど、よく分かりました。さっきは、つい声を荒げてしまって申し訳ありません。僕は矢沢瞭といいます。とある雑誌社から依頼を受けて、行方不明事件の取材にきたんです。ジャーナリストの端くれとでもいいましょうか・・・ハハハ、これは僕の名刺です。もし、僕が行方不明になったら、ここへ連絡をしてください」

 瞭はジーンズの尻のポケットに入れてある財布から名刺を取り出すと、裏面に雑誌『現代社会』の編集長朝倉幸三の電話番号を書いて、小太りの巡査に渡した。

 昨日の午後、瞭は呼び出しを受けて、日本橋にある耕文社ビル四階の応接室で、朝倉幸三と面談した。内容は千元谷集落で発生している行方不明事件の調査と記事の執筆依頼である。瞭と朝倉は、過去に何度も執筆依頼を受けた旧知の間柄だった。

瞭は朝倉から行方不明事件に関する説明を受けた。

 御手洗達造の死亡事件も、その後の行方不明事件も、警察が情報統制をしていて詳細が伝わってこない。軽井沢警察の発表によると、御手洗達造は焼死で、事件事故の両面から捜査が進められているらしいが、その後の進展状況は不明。御手洗宅のお手伝い米山美代子が、達造の死亡事件と前後して行方不明になっていて、達造の死亡事件との関連も視野に捜査が進められているらしい。こちらもその後の進展状況は不明。別の事件に関する捜査中に御手洗宅に向かった警察官二名が行方不明になったという新聞記事が流れたが、軽井沢警察は事実関係を否認している。観光客やユーチューバーが行方不明になっているという情報がSNSで拡散されたが、軽井沢警察は事実関係を確認中としている。

 テレビ、新聞、週刊誌、SNS、ユーチューブで様々な憶測情報が飛び交い、事件の全体像すら判然としていない中で、現代版ハーメルンの笛吹き男という名称が面白おかしく喧伝されていた。

 朝倉は口には出さなかったが、言葉の端々から推測すると、どうやら耕文社所属の社会部の記者が千元谷集落で取材中に行方不明になっているようだ。朝倉が当面の取材費だと言って瞭に手渡した封筒の分厚さと、朝倉の真剣な顔が瞭の頭の中に蘇ってきた。

 瞭はふたりの巡査に向かって軽く右手を上げて挨拶すると、千元谷集落に向かって真っ直ぐに延びる道を歩き始めた。痩せた巡査は、これで見納めだという顔で瞭の背中をしばらく眺めていたが、やがて諦めたように首を振るとパトカーの中に戻った。危険を承知で飛び込んでいくもの好きには困ったもんだと思っているのだ。

 瞭は朝倉が用意してくれた千元谷集落の地図を広げた。地図には住居表示に加えて居住者の名前が手書きで追加されていた。まず向かうのは、最初に死亡事件のあった御手洗達造の別荘だ。七〇三番地とある。

 一キロメートルほど歩くと別荘地に入る脇道があり、七〇三とだけ書かれた看板が立っている。御手洗達造の別荘へ通じる道に間違いない。

 脇道を二百メートル進むと、道の両脇に一メートルほどの高さの門柱が立っていた。瞭は門柱の前で立ち止まり、リュックサックからペットボトルを取り出してゴクリと一口水を飲んだ。いくら避暑地の軽井沢とはいえ、夏本番の真昼間に歩けば、さすがに汗が噴き出してくる。

 ハンドタオルで額の汗を拭い、もう一口水を飲もうとしたとき、瞭の髪の毛がザワリと逆立った。無数の触手のようなものが瞭の脳内に侵入しようとして、瞭が無意識に発現した防御の念動波がそれを遮ったのだ。触手が触れた後頭部がピリピリと痺れている。

 ・・・テレパスだ・・・

 瞭は咄嗟に思った。近くにいるテレパスが瞭の意識を探ろうとして、瞭に向けて思念波を発したに違いない。

 瞭は何気ない風を装って、ゆっくりと振り返った。

 いつの間に追いついてきたのか、瞭の二十メートルほど後ろに白人男性が立っていた。身長は瞭より少し高い百八十五センチ、ヒョロリとした体形で手足が長い。赤い髪の毛は縮れていて、額が驚くほど広い。年齢は三十代半ばだろう。I♡NYとプリントされた薄汚れたTシャツにジーンズをはいて、瞭のものよりも一回り大きなリュックサックをこれ見よがしに背負っている。見た目は典型的なバックパッカーだ。

男はスタスタと歩いて瞭の前まで進むと、日に焼けて痛々しいほどピンク色に変わった頬に笑みを浮かべて、「こんにちは」と流暢な日本語で瞭に声を掛けた。

「やあ、こんにちは」

 瞭も笑顔で挨拶を返した。男の落ち窪んだ眼窩の底のブラウンの瞳に一瞬浮かんだ警戒の色を瞭は見逃さなかった。やはり、この男が先程思念波を発したテレパスだろう。そして自分が発した思念波を瞭が遮ったことに驚き、警戒しているのだ。

「私の名前はハドソン・スミスといいます。生まれはアメリカのカリフォルニア州のサンノゼ。ご覧のとおりのバックパッカーで、世界中を旅しているんですよ」

「世界中を・・・それは羨ましい」

 瞭が相槌を打つと、ハドソンは小さく頷いてから続けた。

「日本へは二週間前にきました。大阪、京都、奈良を回って、東京まできたついでに、SNSで話題になっている千元谷集落の行方不明事件の現場を見てやろうと、立ち寄ったんです」

 ハドソンはそう言うと、次はお前の番だとばかりに瞭の目を覗きこんだ。

「僕は矢沢瞭。ご覧の通りの日本人で、職業はしがないフリーのジャーナリストです。ここにきたのは仕事でね、千元谷集落の行方不明事件を記事にしようと調査にきたんですよ」

「へえ、ジャーナリストですか」

 ハドソンは大げさな身振りで驚いた。いつも年齢より若く見られる瞭のことを、大学生とでも思っていたのだろう。

「瞭、あなたの調査に同行させてください。興味本位でここまできたものの、ひとりではどうも不安で・・・。ね、お願いしますよ」

 瞭が「いいよ」と頷くと、ハドソンはわざとらしいガッツポーズの後、瞭に握手を求めてきた。

 感覚神経が集中している掌を密着させることで、感覚神経を経由して先程よりも強力な思念波を送るつもりだろうと瞭は考えた。それに対抗するために、瞭の前頭葉のネオニューロンが活性化して、前頭葉がポッと温かくなった。

 瞭とハドソンはガッチリと握手をした。瞭とハドソンが互いの瞳を探り合う。落ち窪んだ眼窩の底のブラウンの瞳が揺れた。ハドソンが発した思念波が、またしても遮られたのだ。ハドソンは瞭が超能力者だと気付いたはずだ。

 瞭とハドソンは互いにぎこちない笑みを浮かべて、並んで門柱の間を抜けた。瞭たちの足元の道は、緩やかに左にカーブしながら木造平屋建ての大きな母屋の玄関前まで続いている。

 瞭は周囲に油断なく気を配りながら母屋に向かってゆっくりと歩いた。道に敷かれた砂利が、歩く度にザラリザラリと音を立てた。肌を刺すような陽光に焼かれた砂利の発する熱気がユラリと立ち昇る。短い命を燃やし尽くすかのように鳴く蝉の、狂ったような合唱が背後から追いかけてくる。

 瞭の視線の先で鈍く銀色に輝くのは逃げ水だ。その逃げ水の中に誰かが立ってこちらを見ている気がして、瞭は視線を上げた。逃げ水は消えて、そこには誰もいない。

 瞭は横を歩くハドソンにチラリと目を向けた。ハドソンの顔から、先程までの取って付けた様な笑顔が消えている。身体中に鋭い棘を纏ったハリネズミのような、刺々しい気が瞭に伝わってくる。緊張しているのだ。ハドソンは単なるバックパッカーではあるまいと瞭は思った。ここにきたのは単なる興味本位ではなく、瞭と同様に何かを探しているのだ。

 瞭とハドソンは母屋の玄関前に立った。誰かの悪戯だろう、金属製の自動ドアには黒のスプレーで文字とも絵とも判読できない落書きが書かれている。インターホン脇の御手洗という表札を確認すると、瞭は中庭に通じる枝折戸に向かった。御手洗邸の建物や庭の配置、部屋の間取り図などは、準備調査によってあらかじめ瞭の頭の中に入っている。

 生垣に設えられていた枝折戸は無残に壊されていて、枝折戸の残骸の竹が周囲に散らばっていた。興味本位の観光客やユーチューバーが、中庭に入るために壊したのだろう。

 中庭から母屋のウッドデッキに上る階段の手前に、立入禁止の規制線が張られていたようだが、引き抜かれた支柱や引き千切られた黄色いテープが中庭で泥にまみれている。L字型をした母屋の、中庭に面した大きな窓も割られていて、人が入れるほどの大きな穴が空いている。大きな穴から風が吹き込む度に、窓に吊り下げられている白いカーテンがユラユラと揺れている。

 何とも、幽霊屋敷のようだと瞭は思った。

 目の前の母屋の居間で御手洗達造が焼死した。瞭が知り得た限りでは、事件か事故かの結論は出ていないらしい。それと前後して、お手伝いの米山美代子が行方不明になった。御手洗達造の焼死事件との関係が強く疑われるものの、こちらも結論は出ていない。

 テレビや週刊誌やSNSなどによると、観光客やユーチューバーが数人、千元谷集落で行方不明になっている。耕文社所属の社会部の記者も千元谷集落で取材中に行方不明になっている。おそらく彼らは御手洗邸を訪れたのだろう。

 行方不明者は御手洗邸を訪れて、ここで行方不明になったのか、御手洗邸を出た後に集落のどこかで行方不明になったのか、答えは出ていない。行方不明イコール殺されていると考えていいのか、どこかに拉致されているのか、それすら分からない。それどころか、熊などの動物に襲われた可能性や、隠れた地割れに転落した可能性や、洞窟に迷い込んだ可能性など、そもそも事件ではなく事故の可能性も残されている。謎だらけだ。

 瞭は目の前の割れた窓の穴を見ながら、ボンヤリとそんなことを考えていた。

 ふと瞭は、身体の周囲に波紋のような思念波が広がっていくのを感じた。同心円状の波紋の中心は、隣に立っているハドソンだ。

 ハドソンは両目を閉じて意識を集中している。落ち窪んだ眼窩の底の閉じられたまぶたがピクピクと痙攣している。思念波で建物内の様子を覗っているのだ。

 一分ほどしてハドソンが目を開けると、瞭の周りに広がっていた思念波の波紋が消えた。

「ハドソン、何か分かったかい」

「建物の中には誰もいないようだ。瞭、中に入ってみよう」

 もはやハドソンは、自分がテレパスであることを瞭に隠そうともしない。

 ハドソンは白いカーテンをかき分けて、割れた窓の穴から建物の中に入った。瞭がそれに続いた。

 居間の中は惨憺たる有様だった。足元の絨毯には土足の跡が無数に付いていて、空き缶やペットボトル、ハンバーガの包み紙や食べ終えた弁当の容器などが転がっている。バーカウンターの上には酒の空き瓶やグラスが乱雑に並び、ガラスのショーケースは割られて、中に陳列されていたはずのものは姿が見えない。壁に掛けられていた絵は、持ち去られるかスプレーで落書きがされている。興味本位の観光客やユーチューバー以外に、古美術品狙いの空き巣にも入られているようだ。

 先程から感じていた異様な圧迫感の正体に気付いた瞭は、思わず息を呑んだ。

鏡、鏡、鏡・・・、右を見ても左を見ても、視線の先には鏡がある。おびただしい数の鏡が居間の壁を埋め尽くすように掛けられていた。瞭の目は北の壁に立て掛けられている、高さが二メートルはあろうかという大きな鏡に釘付けになった。

 ・・・何かがいる・・・

 瞭が危険を察知すると、額の内側がチリチリと音を立て始めた。前頭葉のネオニューロンが活性化して前頭葉がポッと温かくなった。それが前頭葉全体に広がり、更に側頭葉、頭頂葉、後頭葉へと広がっていく。

 ハドソンは北の壁に立て掛けられている大きな鏡に無造作に近寄っている。

「ハドソン、気を付けろ。何か・・・変だ・・・」

 瞭の声に、分かっていると右手を上げて答えると、ハドソンは大きな鏡の前に立った。

「ふむ、何の変哲もない鏡のようだが」

 ハドソンは鏡面に手を伸ばした。

 ハドソンの指が鏡面に触れる直前、鏡面から突き出された錫杖の石突が、ハドソンの鳩尾を突いた。

「グウッ!」

 ハドソンは空気が漏れたような声を上げて、三メートルも後方に吹き飛ばされた。背中から床に倒れ込んだハドソンは、仰向けのまま口から泡を吹き白目を剝いている。

「ハドソン!」瞭が叫んだ。

 大きな鏡の鏡面が撓み、大巌坊がジャラリと錫杖の音を響かせながら鏡面から出てきた。

 大巌坊は坊主頭に頭巾を乗せ、身に袈裟と篠懸を纏い、括袴をはいて、白手甲・脚絆をつけ、足元は草鞋を履いている。左手には背丈を超えるほど長い錫杖を持っている。大巌坊の両目から瞳が消えて、ぽっかりと空いた空洞のような両目の穴は、一面が血塗られたように真っ赤に染まっている。

 ・・・天狗? いや、修験者だ・・・どこかで見た・・・中野だ! あのときの、空を飛翔した怪人なのか?・・・

 大巌坊の姿を見た瞭の脳裏に、春山幸吉が殺された夜、早苗と一緒に目撃した怪人の姿が蘇った。

 大巌坊はズシリズシリと足元を踏み固めるように大股でハドソンに近づくと、左手の錫杖を振り上げた。スッと息を吸って丹田に力を込めると、大巌坊は錫杖の石突をハドソンの頭部に向かって振り下ろした。

「やめろ!」

 瞭は叫びながら左手を身体の前に突き出し、左掌を広げた。瞭の左掌には、昔、アメリカで遭遇した事件で、銃弾が貫通した際にできた五百円玉ほどの大きさの王冠のような形をした傷痕がある。瞭の脳内が一瞬で沸騰した。

 瞭の左掌から、念動波が目に見えない雷光のようにほとばしった。

 ハドソンの頭部に向かって振り下ろされた錫杖は、大巌坊の左手からもぎ取られて、大巌坊の背後にある大きな鏡に向かって飛んだ。ガシャンと音が響いて錫杖が大きな鏡にぶつかったが、大きな鏡にはヒビひとつ入っていない。錫杖は床に落ちると、ジャラリと音を立てて転がった。

 大巌坊は、錫杖がもぎ取られた左手を不思議そうに見てから、真っ赤な両目を瞭に向けた。そして、身体の前で小さく印を結び、「ノウマクサンマンダ バサラダン センダンマカロンシャダソハタヤ ウンタラタカンマン」と呪文を唱えると、右手の人差し指と中指を瞭に向かって突き出して、ヤッと気を発した。

 鉄砲水のような衝撃波が瞭を襲った。

 瞭は左手を前に突き出した姿勢のまま、衝撃波の中に立っている。瞭の身体の前にはユラユラと揺れる巨大なコンタクトレンズ状の光の膜があり、その膜が盾となって衝撃波を防いでいた。

 鉄砲水のような衝撃波が去ると同時に、コンタクトレンズ状の光の膜が消えた。

 左手を前に突き出した姿勢のまま何ごともなく立っている瞭を見て、大巌坊は、口の端を歪めて小さく笑った。

「お前は・・・はて? 修験者には見えぬが、確かに験力を操るようだな。儂は大巌坊。熊野の修験者だ、いや、修験者だったと改めよう。いまは、鏡の世界におられるギギアハウ様の僕。そして、ギギアハウ様に捧げる生贄を狩る者、狩猟者だ。お前は何者か」

 修行で鍛えた太く張りのある大巌坊の声が居間の中に響いた。そう言いながら、大巌坊は左掌を広げると後ろに向けた。大きな鏡の前の床に転がっていた錫杖が、見えない力によってフワリと宙に浮き、大巌坊の左掌に吸い寄せられるように宙を飛んだ。大巌坊は顔を瞭に向けたまま左掌で錫杖を掴むと、床の上に石突をトンと突いた。ジャラリと錫杖の音が響いた。

「大巌坊? ギギアハウ様に捧げる生贄?・・・行方不明者は生贄にされたのか・・・信じられない。僕は矢沢瞭、しがないジャーナリストですよ」

 瞭は油断なく大巌坊に目を向けたまま答えた。大巌坊を牽制するかのように、瞭の左手は大巌坊に向けて突き出されている。

 大巌坊は、胸の前で小さく印を結び、「ノウマクサンマンダ バサラダンカン」と呪文を唱えると、右手の人差し指と中指を天に向けてクルクルと円を描くように回し、ヤッと気を発した。

 瞭の右側にある大理石のテーブルの上に置かれている、直径三十センチの円形の鏡の鏡面がヌタリと撓み、そこから身体をくねらせるようにして大きな黒いドーベルマンが出てきた。瞭の左側にあるガラスのショーケースの中に立て掛けられている鏡台の鏡面からもドーベルマンが出てきた。瞭の背後から、最後の一頭のドーベルマンが上げるグヴヴヴという唸り声が聞こえている。瞭の鼻腔に生臭い獣の臭いが流れてきた。

 三頭のドーベルマンは瞭を取り囲むと、長い鼻の上にしわを寄せて、瞭に向かって鋭い牙を剝き出して威嚇している。三頭のドーベルマンの両目も血のように赤い。三頭は前脚を少し屈めて体勢を低くしたまま、ジリジリと瞭に近づいている。一斉に飛び掛かるつもりだろう。グヴヴヴという唸り声が大きくなった。

 ・・・クソッ、囲まれた。三頭同時に倒せるか・・・

 瞭は必死になって考えている。ひとつの方法が瞭の脳裏に浮かんだ。

 ムウウと声を上げて、床の上に倒れていたハドソンが上体を起こした。意識が戻ったのだ。ハドソンは鳩尾に手を当てて顔を歪めている。そして、目の前にノッソリと立っている大巌坊と、瞭を取り囲んで唸り声を上げている三頭のドーベルマンを見て驚愕の声を上げた。

「瞭、これはいったい」

 大巌坊はチラリとハドソンを見ると、錫杖の石突をハドソンの胸に突きつけた。動くなという意味だ。

「ハドソン、危険だ。手を出すな!」

 瞭はそう叫ぶと、ジーンズのポケットに左手を突っ込んで、素早く硬貨を掴み出した。左掌の上に乗っているのは五百円玉一枚、百円玉三枚、十円玉二枚。

 瞭の額の内側がチリチリと音を立て始めたかと思うと、脳内全体が一瞬で沸騰し、脳内に仮想空間がユラユラと浮かび始めた。

 仮想空間の中で、三頭のドーベルマンは硬貨に頭部を撃ち抜かれている。

 瞭は念動力によって、目の前の現実空間と仮想空間を置き換えようとしている。

 瞭の網膜上で現実空間が輪郭を失って色を失い、代わりに仮想空間が輪郭を持ち始める。そして、仮想空間が現実空間を覆うように広がっていく。

 大巌坊もハドソンも三頭のドーベルマンも微動だにしない。瞭すら身体を動かすことができない。瞭の腕時計の秒針も動かない。時間が止まっているのだ。それは、瞭のサイコキネシスが発現される直前のモラトリアム状態である。

 瞭の身体から発せられた猛烈な念動波が次元を振動させた。仮想空間が現実空間を覆いつくし、現実空間が消えた。いや、仮想空間が現実空間に置き換わったのだ。

 時間が動き始めた。

 瞭の左掌の上の六枚の硬貨がフワリと浮き上がり、掌の上十センチでユラユラと揺れている。

 三頭のドーベルマンはゴッと大きな唸り声を上げながら、瞭に向かって一斉に飛び掛かった。

「瞭、危ない!」

 ハドソンの悲鳴のような声が上がる。

 瞭の左掌の上で浮かんでいた六枚の硬貨は、三方に分かれて流星のように宙を飛び、三頭のドーベルマンの頭部を銃弾のように撃ち抜いた。

 三頭のドーベルマンはもんどり打って床に倒れた。撃ち抜かれた頭部はザクロのように割れていて、血と脳漿が床に流れ出している。小さく痙攣していたドーベルマンは直ぐに動かなくなった。

 ドーベルマンの頭部を撃ち抜いた六枚の硬貨は、糸に引かれるように方向を変えて、再び瞭の左掌の上に集まると、力尽きたようにグチャリと掌の上に落ちた。瞭は血に染まった六枚の硬貨を左掌で握りしめた。

 フッと息を吐いた瞭の視界が歪んだ。途端に瞭は激しい頭痛に襲われて、思わず床に片膝を突いた。久しぶりに強力なサイコキネシスを使ったため、脳内のネオニューロンが悲鳴を上げているのだ。瞭は両手で頭を抱えて必死に痛みに耐えている。

 瞭のサイコキネシスの発現を見たハドソンは、落ち窪んだ眼窩の底の両目をこれでもかと見開き、声を失っていた。

 大巌坊は、血のように赤い両目をひたと瞭に向けたまま口を真一文字に結び、ズシリズシリと足元を踏み固めるように大股で瞭に向かって歩いた。そして、瞭の前に立つと左手の錫杖を振り上げた。動けない瞭に止めを刺すつもりだ。

 大巌坊の気は目の前の瞭に集中し、ハドソンに向けた背中が一瞬無防備になった。

 パン! パン! 乾いた銃声が二発響いた。

 一発目の銃弾は大巌坊の左肩を掠め、二発目の銃弾は大巌坊の右わき腹に命中した。大巌坊の身体がビクリと揺れ、纏っている篠懸に赤い血の染みがジワリと広がった。

 大巌坊の背後で、ハドソンが拳銃を構えていた。銃口から薄っすらと煙が上がっている。リュックサックの底に忍ばせていた拳銃で、大巌坊を撃ったのだ。

「ヌウッ!」

 大巌坊は振り向きざまに、左手の錫杖をハドソンに向かって投げつけた。

 矢のように宙を走った錫杖が、ハドソンの胸の真ん中を貫いた。ハドソンの背中から錫杖の石突部分が三十センチも突き出ている。

「ガッ・・・」ハドソンの口から声が漏れた。声と共に吐き出された血がハドソンの顎を濡らしている。

「ハドソン!」

「瞭、逃げろ! 逃げるんだ!」

 ハドソンは自分の胸に突き立っている錫杖を見た。これでは助からない。そう思ったハドソンは、最後の力を振り絞って思念波を発した。

《カミラ、マイルズ、やられた。サイコキネシスを操る恐ろしい超能力者だ。鏡、鏡の世界に・・・》

 ハドソンの思念波はそこで途絶えた。

 ハドソンに走り寄った大巌坊は、ハドソンの首を掴んだ。ハドソンの身体が糸の切れた操り人形のようにダラリと力を失った。大巌坊はハドソンの首を掴んだまま、北の壁に立て掛けられている大きな鏡に向かって走った。

 大きな鏡の鏡面がヌタリと撓んだ。

 大巌坊はハドソンと共に大きな鏡の鏡面の中に消えた。

 静かになった居間の中に瞭だけが残された。瞭は割れんばかりに痛む頭を左手で押さえながら立ち上がると、大きな鏡の前に落ちているハドソンのリュックサックを拾い上げ、ヨロヨロとした足取りで居間から中庭に出た。左掌についたドーベルマンの血が、瞭の顔面の左半分を赤黒く染めている。

 中庭は、何ごともなかったかのように陽光が照り付け、薫風が木々の枝を揺らして吹き抜けていく。失った聴覚が戻ったかのように、蝉の鳴き声が聞こえてきた。

 いまの状態では、これ以上大巌坊とは戦えない。仕切り直しだ。そう思った瞭は、重たい足を引きずりながら御手洗邸を後にした。


 明日香早苗は、千葉県鴨川市清澄山中の特殊潜在能力研究所の所長室で、研修カリキュラムの検討をしていた。所長室は十畳の広さの洋室で、窓際に事務机と椅子、壁際に簡素な応接セットが置かれているだけの、殺風景な部屋だ。壁に取り付けられている年代物の空調機が、カタカタと音を立てながら生温い空気を吐き出している。

 特殊潜在能力研究所の研修生は現在男性ひとり、女性三人の計四名。いずれも十代で、名前は秋山悠太、斎藤加奈、春木美咲、近藤理沙。

 彼らはいずれも小さい頃からテレパスの能力を発芽させていて、自分を取り巻く友人や大人たちの心の奥が読めた。そのために、周囲から気味悪がられたり、いじめを受けたり、親から虐待を受けたりして、心に深く傷を負ってしまっていた。その結果、自分の殻に閉じこもってしまったり、自分の能力を呪って自暴自棄になったり、他人に対して暴力を振るったりしてしまい、いわゆる問題児として扱われていた。

 早苗はテレパスとして彼らに接触し、テレパシーにより相互に意思疎通を図ることで彼らの心を開き、自分がテレパスであることを自覚させた。そして、特殊潜在能力研究所の研修生として彼らを迎え入れ、テレパスとしての能力の向上とその力をコントロールする方法を教えていた。

 研修資料に目を通していた早苗は、突然、脳が揺さぶられるような強い思念波を感得した。

《カミラ、マイルズ、やられた。サイコキネシスを操る恐ろしい超能力者だ。鏡、鏡の世界に・・・》

 早苗は思わず手に持っていた資料を落とし、両手で頭を抱えた。非常に荒々しい思念波で、ザラザラとした感覚が早苗の脳に残った。よほど緊急の場面で、咄嗟に発したのだろうと早苗は思った。

 ・・・カミラとマイルズに向けて発せられた思念波ね。発したのはどこから?・・・

 早苗は椅子に背中を預けると、胸の前で手を組み、両目を閉じた。スウッと息を吸って精神を集中する。早苗の額の内側がほんのりと温かくなった。

 早苗は、波のように広がった思念波の波動を遡るように、思念波の触手を伸ばした。いま早苗が操っているのは、水面に広がる波紋のような全方位的な思念波ではなく、一方向に触手のように伸びる極めて指向性の高い思念波である。

 微かに残る思念波の残響を、早苗の思念波の触手が遡っていく。思念波の触手の先に目が付いているかのように、思念波の伸びる先の風景が早苗の脳裏に映像として浮かび上がっている。それは早苗の持つ超能力のひとつ、クレアボヤンス(透視・千里眼)である。

 大空を飛翔する鷹の目から地上を見ているような風景が早苗の脳裏に広がっている。高度が徐々に下がって地上の風景が手に取るように見えてきた。

 ・・・緑の山々・・・文字が読める、千元谷・・・あれは・・・瞭! 瞭がなぜこんな所に?・・・大きな別荘・・・渦? いや暗い穴かな?・・・誰かがいる・・・

 思念波の触手が突然切れて、早苗の脳内に映し出されていた風景が消えた。

 早苗は椅子に背中を預けたまま目を開けた。早苗の意思に関わりなくクレアボヤンスが終わることなど、これまで一度もなかった。何かおかしい。早苗の無意識が異変を感知して身構えているようだ。落雷の前の帯電した空気の中に浸っているように、早苗の身体中の毛が逆立った。

 ・・・何かがくる!・・・

 早苗の防御本能が、咄嗟に早苗を思念波の繭で包んだ。

 早苗の視界がグニャリと歪んだ、いや、違う、早苗の存在している次元そのものが歪んだのだ。

 次元を歪めるほどのエネルギーの奔流が、凄まじい衝撃波となって未来から過去に向けて駆け抜けた。

 千々に割れたガラスの破片のような未来の光景が、早苗を掠めるようにして、過去に向かって飛び去った。思念波の繭に包まれた早苗の意識が激しく揺さぶられる。早苗の意識がスウッと遠退いた。

「キャアア!」

 早苗は自分が上げた悲鳴で目を開けた。早苗の額は脂汗でネットリと光っている。椅子から身体を起こそうとしたが、手足に力が入らない。早苗の脳には明確な映像が焼き付いていた。

 ・・・閃光と炎、瓦礫の中に倒れる人たち・・・大きな黒い渦が人々を吸い込んでいる・・・歪んでいる、空間が歪んでいる・・・あれは、魔人?・・・ああ、吸い込まれる、全てのものが吸い込まれる・・・これは、予知だ。魔人によって人類の厄災が引き起こされる!・・・

 早苗はブルリと身体を震わせると、両手を巻き付けるようにして自分の身体を抱いた。目を開けると、貧血でも起こしたかのように、天井がグルグルと回る。

《瞭、人類の厄災を予知したの。お願い、できるだけ早く研究所にきて》

 早苗は瞭に向かって思念波を発した。

 廊下をバタバタと走る音がして、所長室のドアが乱暴に開かれた。

「明日香所長! 大変です! 研修生たちが、突然頭が痛いと言い出して・・・斎藤加奈は倒れて、意識がないんです」

 所長室に飛び込んできた事務員の天野は、真っ青な顔をして肩で息をしている。

 テレパスの能力を発芽している研修生たちは、先程の衝撃波を無防備に感得してしまったのだ。特に能力が強い斎藤加奈は大きなショックを受けたに違いないと早苗は思った。

「分かりました、すぐいきます」

 早苗はふらつく頭を二、三度振ってから、ゆっくりと椅子から立ち上った。


 アメリカ合衆国バージニア州ラングレーにあるアメリカ中央情報局(CIA)内に、これまでとは全く異なる手法で情報収集を行うことを目的とした特殊情報収集室が設置された。CIAでも限られた者しかこの組織の存在を知らない。設置されてからまだ二月しか経っておらず、現在は本格的な運用に向けた試験運用の状態である。

 極秘情報の収集は、一般的には、工作員による諜報活動やコンピュータへのハッキングなどさまざまな方法で行われている。

 特殊情報収集室では、人工的に造られたテレパスを使って、各種情報収集と情報操作を行う。具体的には、テレパスである工作員が極秘情報を知る対象者と直接又は間接的に接触し、対象者の脳内から、テレパシーにより直接重要情報を抜き取るのである。また、首脳会談や国際会議の場で、相手国の出席者の発言内容や発言の真意をテレパシーにより読み取り、あるいは、相手国の出席者の深層意識にテレパシーで働き掛けて、自国に有利な結論に導くのである。

 将来的には、テレパシーによる敵国首脳の洗脳や敵国兵士の戦意喪失・反逆感情の醸成、サイコキネシスによる敵国首脳の暗殺や軍事施設の破壊など、超能力兵器としての運用も視野に入れている。

 軍需産業の分野で世界有数の巨大企業であるマクラネル社では、秘かに人工的な超能力者の製造について研究が進められていた。戦後にGHQが接収した旧日本陸軍特殊兵器研究所の資料の中から発見された、特殊潜在能力開発室における超能力の研究資料を基に、超能力の発生源とされるネオニューロンとそれを増強させるネオニューロン増殖強化剤の開発に成功したのだ。

 マクラネル社の研究施設の中で、半ば人体実験的に人造超能力者の開発が進められていた。外科的施術により前頭葉にネオニューロンを移植し、ドーパミンの変種から造り出したネオニューロン増殖強化剤の投与により、人工的に超能力者を造り出すのだ。しかし、人類の脳がまだ進化の途上にあるためだろう、多くの被験者は脳に重篤な損傷を受けて廃人となった。テレパスとして能力を発芽させた被験者は、いまのところ、ハドソン・スミス、カミラ・ウィルソン、マイルズ・ミラーの三名しかいない。

 特殊情報収集室は上級情報分析官のリチャード・フォードを室長として、ハドソン、カミラ、マイルズの三名の人造超能力者により構成されている。

 急造の、しかも、存在が極秘の組織だからだろう、特殊情報収集室はCIAの建物の地下三階の、元留置施設だった部屋が充てられていた。天井も壁も床もコンクリートがむき出しで、当然に窓もない。三十平方メートルの広さの室内にはパソコンが置かれた机と椅子が三セット、休憩用のソファーと壁に掛けられた三十インチの液晶モニターしかない。室長のリチャードは情報分析官チームのトップを兼任していて、特殊情報収集室には机もなく、顔を出すのは週に二回程度である。

 人造超能力者による情報収集・情報操作という画期的な任務を負う組織にしてはお粗末な待遇だが、おそらく、CIAの幹部の間では、超能力という胡散臭い能力を使った情報収集など期待も信用もしていないのかも知れない。


 特殊情報収集室の工作員のひとりであるハドソン・スミスは二週間前に日本へ渡り、一月後に予定されている日米首脳会談に関する極秘情報の収集に当たっていた。

 カミラ・ウィルソンとマイルズ・ミラーは、ハドソンのバックアップという名目で、室内待機を命じられていた。今日は午前中に能力向上訓練を行い、午後は薄暗い執務室でハドソンから送られてきた中間報告書に目を通していた。

 カミラは身長百七十センチ、華奢な身体つきをした女性で、年齢は二十六歳。ブロンドの髪にブルーの目を持ち、ツンと上を向いた鼻が勝気な印象を与える。

 マイルズは身長百九十センチ、ホッキョクグマのようなずんぐりとした体形をした男性で、年齢は二十八歳。綺麗に剃り上げたスキンヘッドと赤ら顔、藪にらみの眼と団子鼻。鼻の頭が赤いのは酒の飲みすぎだ。

 カミラは、紙コップの珈琲を啜りながら、机の上のパソコンのモニターを指差した。インスタントの珈琲は香りも味もしない黒い液体だが、カミラは平気な顔をしている。

「ねえ、マイルズ。ハドソンからの中間報告書の三十八頁を見た?」

 椅子に身体を預け、両足を机の上に置いてコクリコクリと舟を漕いでいたマイルズは、グズリと鼻を鳴らしてから、片目を開けてカミラを見た。マイルズの机の上のパソコンのモニターは、とっくの昔にロック画面に切り替わっていた。中間報告書に興味がないのが一目瞭然だ。微かに酒臭いのは、二日酔いか、あるいは朝から隠れて酒を飲んだのかも知れない。

「えっと、まだそこまで進んでないんだ。何だい、面白いことでも見つけたのかい」

 カミラはフウと息を吐いて、こりゃダメだと首を振った。マイルズにやる気がないのは、いつものことだ。

「日米首脳会談に関する調査報告の最後に、東京都中野区と長野県軽井沢町で発生した死亡事件に関する調査報告が付け加えてあるのよ。二件の死因は焼死、但し、遺体の状況や現場の状況は不可解な点ばかりで、事件か事故かの結論も付いていないようなの。面白いことに、検視資料の中で人体自然発火現象の可能性が指摘されているのよ」

 マイルズは机の上から両足を下ろすと、興味深げに身を乗り出した。

「人体自然発火現象? そりゃあ何だい」

「メアリー・リーサー事例とかは知らないかしら。遺体の状況から、人間の身体が自然に発火したとしか思えないような事例をいうのよ。原因は解明されていないけど、仮説としては、体内のアルコールが燃料となって発火したとか、人体の脂肪分が燃料となってろうそくのように燃えたとか、プラズマの一種の球電によるものだとか、特異体質により造られた可燃物質が発火したとか・・・いろいろあるわね。

そしてハドソンは、二件の焼死体の共通点から、これは人体自然発火現象ではなく、パイロキネシス(発火能力)による殺人ではないかと推察しているわ」

「パイロキネシス? 超能力者による殺人事件だとハドソンは考えているのかい」

「その可能性が高いと結論付けているわ。そしてハドソンは、焼死事件後に軽井沢町で発生している一連の行方不明事件も、その超能力者が関与していると考えているみたいね。これから調査に向かうと、ハドソンは報告書を締め括っているわ」

 カミラはパソコンのモニターに視線を戻すと、額に手を当てて考え込んだ。マイルズはムウと呻いたまま天を仰いだ。

 ふたりとも、超能力などは小説や漫画や映画の世界の絵空事と思っていた。しかし、自分が人造超能力者としてテレパシー能力を得てから、世界が変わった。超能力は確かに存在する。超能力者による殺人事件を一笑に付して否定することなど、もうできない。それが意味することは何か。密室における完全犯罪? 念動波で相手の心臓を止めることができれば、そもそも密室にする必要すらない。たとえそれが衆人環視の中で行われても、いまの刑法では殺人を犯した超能力者を裁くことはできない。何しろ手すら触れていないのだから。

 それだけではない、超能力兵器という全く新しい戦争兵器が誕生する可能性があるのだ。軍需産業企業であるマクラネル社が人造超能力者の開発を手掛けている究極の目的は、超能力兵器の開発である。マクラネル社は、超能力という未知の分野で世界の覇者になろうとしているのだ。

 突然、カミラとマイルズは鈍器で頭を殴られたような衝撃を感じた。カミラが思わずオウと声を上げた。ふたりはハドソンが発した荒々しい思念波を感得したのだ。危機的な状況下で必死に力を振り絞ったのだろう。思念波の棘が脳に突き刺さるようだ。

 ふたりの脳内に言葉が浮かんだ。

《カミラ、マイルズ、やられた。サイコキネシスを操る恐ろしい超能力者だ。鏡、鏡の世界に・・・》 

 ふたりは思わず顔を見合わせた。マイルズの眉間に深いしわが刻まれている。

「ねえ、カミラ。いま、感じたかい? ハドソンからの思念波だったと思ったが」

 カミラは頭に浮かんだハドソンからのメッセージを卓上のメモ用紙に書いている。

「ええ、マイルズ。確かに、ハドソンからの思念波だわ。やられたって・・・まさか」

「分からない。但し、普通の状態でないのは確かだ、思念波がやけに荒かった。とにかく、こちらから思念波を送ってみよう」

 カミラとマイルズは向かい合って互いに両手を握ると、目を閉じた。

《ハドソン、何があったんだ、答えてくれ。ハドソン、ハドソン・・・》

 ふたりは五分間ほど思念波を送り続けたが、ハドソンからの思念波は返ってこなかった。

 ハドソンのスマートフォンは、バッテリー切れか電波が届かない所にいるというアナウンスが繰り返されるだけで応答がない。

 ジリジリとした焦燥感に耐え切れず、室長のリチャードに一報を入れようと、カミラが内線電話の受話器を手にした。そのとき、特殊情報収集室の入口のドアが開いて、苦虫を嚙み潰したような顔のリチャードが部屋に入ってきた。機嫌が悪いのではない、リチャードはいつもこんな顔をしているのだ。

「ああ、室長。よかった、いま連絡を入れようとしていたところなんです」

「連絡? 私に? 何があったんだ」

 リチャードは空席のハドソンの席にドサリと座ると、足を組んでふたりの顔を交互に見渡した。銀縁眼鏡の奥のブルーの瞳は凍り付くように冷たい。カミラがそう感じるのは、リチャードの心の奥底に仕舞い込まれている超能力者に対する嫌悪感を、テレパスであるカミラが無意識のうちに感得しているからなのかも知れない。

 カミラがハドソンから受け取った思念波について説明すると、リチャードはしばらく目を閉じて頭の整理をしてから、おもむろに口を開いた。

「なるほど、ハドソンがサイコキネシスを操る超能力者に襲われた可能性があるということか。ハドソンとはその後連絡がつかないんだな? 襲われた場所は分かるか?」

 カミラは首を横に振った。

「ハドソンの思念波を感得しただけですから、場所までは特定できません。ただ、中間報告書では、長野県軽井沢町で発生している一連の行方不明事件に超能力者が関与している可能性を指摘していますから、ハドソンはその確認のために軽井沢町に向かったと思われます」

 リチャードはカミラが書いたメモに目を落とした。

「最後の部分の『鏡の世界』とはどういう意味だ?」

「分かりません。錯乱した状態で、脳に浮かんだ取りとめのない言葉が送られてきた可能性もあります」

 リチャードはチラリとカミラに視線を送ってから、腕を組んで眉間にしわを寄せた。

「とにかくハドソンの安否確認が急務だ。試験運用の期間中に工作員が行方不明になったとあっては、今後の組織の存亡にかかわる。それと、ハドソンが伝えてきたサイコキネシスを操る超能力者も気になる。マクラネル社の研究施設では、まだサイコキネシス能力の発現は確認されていないからな。これは深刻な問題だ。我が国の人造超能力者の能力を凌駕する超能力者の存在は、超能力兵器で世界の覇権を握るという我が国の目論見を根底から崩すもので看過できない。いまのうちに目を摘んでおく必要があるな」

 カミラは心の中で、我が国の目論見ではなくてマクラネル社の目論見でしょと思ったが、当然顔には出さない。室長のリチャードが、マクラネル社から多額の賄賂を受け取っていることなど、テレパスであるカミラはとっくに承知しているのだ。

 カミラの心の中など知る由もないリチャードは、椅子から立ち上ると厳格な顔をしてふたりに命令した。

「カミラ、マイルズ、至急日本に飛んでくれ。テレパシーを駆使してハドソンの安否を確認するんだ。その過程で超能力者の存在を確認した場合には、その能力を検証しろ。存在を確認した超能力者への対応は、君たちに同行する特殊工作部隊に指示するから、君たちは関与する必要はない。相手が超能力者だとすると、どんな反応があるか分からん。心してかかれ」

 リチャードは冷たく言い放つと、足早に部屋から出て行った。

 カミラとマイルズは小さくため息を吐いた。リチャードがあえて口にしなかった『確認後の対応』とやらが、『必要に応じて、確認した超能力者を殺害又は拉致』することだと分かっているのだ。

 カミラとマイルズがマクラネル社の人体実験に応募して人造超能力者になったのは、もちろん金のためだ。

 カミラはアメリカ中西部ネブラスカ州の片田舎にある貧しいトウモロコシ農家に生まれた。奨学金を受けて地元の大学を卒業し、地方銀行に就職してひとり暮らしを始めた矢先に、実家のトウモロコシ畑が干ばつと病害虫の発生で全滅した。多額の借金の返済のために実家も農地も競売に掛けられることになったが、実家は元よりカミラにも蓄えはなかった。カミラは競売を中止するための金が欲しかった。カミラは迷わずマクラネル社の人体実験に応募したのだ。

 マイルズはニューヨークの下町、ローワー・イースト・サイドにある小さな雑貨店のひとり息子だ。小さい頃から手癖が悪く、自動車泥棒で捕まってハイスクールを退学となり、その後は転々と職を変えながら、親のすねをかじっていた。酒場での喧嘩で相手に重傷を負わせ、目玉が飛び出るほど高額の損害賠償を請求されて、やむなくマクラネル社の人体実験に応募したのだ。

 今更綺麗ごとを言っても仕方がない。超能力者を巡る大きな渦の中に自ら飛び込んだのだ、後は流れに身を任せるしかない。

 カミラとマイルズは割り切ったような顔に戻ると、日本へ向かう準備に取り掛かった。


 東京都千代田区霞が関の内閣府に設置されている内閣危機管理室で、危機管理官の佐田伸介はファイルに綴じられた分厚い資料を読んでいた。彫りの深い映画俳優のように整った佐田の顔の眉間には深いしわが刻まれている。佐田の執務室は二十平方メートルの広さの個室で、窓際の大きな事務机のほかに、部屋の中央には打合せ用の応接セットが置かれている。窓の外には議員会館の建物の間から、国会議事堂の中央塔が重厚な姿を見せていて、すこし視線を上げると、その先には皇居の木々が夏の日差しを受けて黒々と輝いている。

 入口のドアをコツコツとノックしてから、危機管理対策班の羽賀隆一が顔を出した。

「羽賀です。お呼びですか?」

 佐田はオウと頷くと、読んでいたファイルを持って立ち上がり、羽賀に応接セットに座るよう促した。

 応接セットで羽賀と向かい合うように座った佐田は、いきなり話を切り出した。

「アメリカ中央情報局の工作員がひとり、長野県軽井沢の千元谷集落で行方不明になったそうだ」

「CIAの工作員? 千元谷集落といえば、ここのところ行方不明者が多発している地域ですよね、何でまたそんな所に・・・まさか、行方不明の工作員を捜索しろなんて話じゃないでしょうね。それなら陸上自衛隊にでも要請すればいいんじゃないですか。人海戦術でアッという間に片付けてくれますよ」

 羽賀はおどけた口調で返したが、佐田はムスリとした表情で羽賀の顔を見ている。ざっくばらんな性格で、いつもなら目尻にしわを寄せて冗談のひとつも返してくる佐田にしては様子がおかしい。羽賀はのっぺりとした顔についた糸のように細い目を心持ち開いて表情を改めた。

「何か裏があるんですか」

 佐田はソファーに背中を預けると、縁なし眼鏡の下からすくい上げるような目で羽賀を見た。こいつはただごとではないと、羽賀の背中に緊張が走った。

「CIAにいる私の知り合いから、極秘に情報提供があった。行方不明になった工作員ハドソン・スミスは、特殊情報収集室に所属する超能力者だそうだ」

「はあ? 超能力?・・・」

 羽賀の声が思わず裏返った。羽賀の脳裏にグニャリと曲がったスプーンの姿が浮かんだ。腹の底からムクリと笑いがこみ上げてきたが、佐田のただならぬ表情を見て、羽賀は口を真一文字に結んだ。

「ハドソンはテレパスで、テレパシーを使って要人の頭の中から極秘情報を盗み出すそうだ。そのハドソンを捜索するために、特殊情報収集室からふたりの工作員が来日する。そいつらもテレパスだ。名前は、カミラ・ウィルソンとマイルズ・ミラー」

 まったく予期せぬ展開に、羽賀は相槌を打つこともできない。羽賀の持つ常識の範疇を超えているのだ。

「行方不明になったハドソンは、二週間ほど前から日本に入り、一月後の日米首脳会談に関する情報収集に当たっていた。その後、一連の行方不明事件に興味を持ったのか、軽井沢に向かって行方不明になったらしい。ミイラ取りがミイラになったという訳だ。興味深いのは、行方不明になったハドソンは『超能力者に襲われた』と言い残したらしいんだ、テレパシーを使ってな」

「はあ・・・」

 羽賀は空気の抜けたような声を出した。もはや、何を言われても頷くだけだ。

 佐田はここからが本題だと言わんばかりに、ソファーから身体を起こし、羽賀に向かってグイッと身を乗り出した。

「今度来日するカミラとマイルズの真の任務は、一義的には行方不明になったハドソンの捜索だが、それだけではない。ハドソンを襲ったとされる超能力者の存在を確認してその能力を特定することだ。問題は、カミラとマイルズに特殊工作部隊が同行することだ。特殊工作部隊は軍需産業の大手マクラネル社の雇った傭兵らしい。人数は確認中だ」

「傭兵の特殊工作部隊を?」

「特殊工作部隊の任務は、カミラとマイルズが確認した日本人超能力者の殺害又は拉致だ」

「なぜ日本の超能力者を?」

「マクラネル社が手掛けているのは超能力を使った兵器開発、すなわち超能力兵器の開発だ。どこまで本気なのかは分からんがな。超能力に関するノウハウはもちろん超能力者も、アメリカいやマクラネル社が独占したいんだ。アメリカ以外で芽生えた超能力者の芽を、事前に摘むことが目的なんだろう。この日本国内で、しかも日本国民に対して、そんな暴挙を許す訳にはいかない。そこで我々内閣危機管理室の出番だ。羽賀、お前のチームは、入国するカミラとマイルズ並びに特殊工作部隊の行動を監視し、日本国民に危難が及びそうな場合には、やつらの暴挙を阻止しろ。必要に応じて火器の使用を認める。詳しい情報はこの資料にまとめてある」

 佐田は手に持っていたファイルをテーブルの上にドサリと置いた。

 突拍子もない話だが、要は外国から日本に潜入したテロリストを監視し、日本国民に対するテロ行為を阻止、テロリストをせん滅することと何ら変わりはない。超能力者などというから分かりにくいのだ。羽賀の目の前に座っている佐田自身も、超能力など信じていないに違いない。

 羽賀は任せてくれとばかりに、佐田の目を見て頷いた。

(第一話おわり)


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