第4話
そろそろ行かなきゃ。――そう思っても、千雪はそこから中々動くことができなかった。
ここは、ちょうど空いていた声楽用の教室。ピアノが置いてあるだけの、だだっ広い部屋。……彼女は帆波と別れた後、ほとんど衝動的にこの場所に駆け込んできたのだった。
今頃稽古場では、レビューの稽古が始まっているのだろう。それとも、自分がいないので心配かけているだろうか。どっちにしろ、千雪の劇団内での評価はもう絶望的だ。練習をすっぽかす新人などあり得ない。
(若木さん。もう、お目にかかれません)
心の中で呟くと、吹っ切れるどころか、一層悲しさが糸を引く。松葉と美花世の睦まじさを間近で見るのが辛くて逃げてきたけれど、今度は松葉に会えない苦しみと闘わなければならない。――今更ながら、自分の軽率な行動に腹が立ってきた。
せめて、若木松葉と一緒の舞台に立ちたかったが、それももう叶うまい。いっそ、人から後ろ指さされる前に、自分から劇団を出て行こうか。
後悔の涙で睫毛を濡らしつつ、自分の今後をあれこれ思案していると。
「千雪さん?」
甘く涼やかな美声で、自分の名を呼ばれた。――上級生の声だとわかったけれど、それだけに泣き顔を見せるのは憚られたので、顔を伏せて「はい」と返事する。
「よかった。やっぱりここだったのね」
美声の主は遠慮なく室内に入ってきて、千雪の傍のピアノにもたれた。何も話しかけないのは、千雪のことを怒っているからなのか、それとも単純に彼女が顔を上げるのを待っているだけなのか。顔を伏せた彼女に見えるのは、美声の主の足元だけだった。
と、ふいに、スゥと息を吸う小さな音がした。次の瞬間には、豊かなソプラノが、室内を震わした。
アンニー、可愛い花
小さい野すみれ
春の日、野末に咲きし
やさしの姿忘れじ
千雪はぎょっとして見上げずにはいられなかった。――すぐ傍に立っている歌い手が、あの睡蓮美花世だとわかると、さらにびっくりしてもう目を逸らすことができなくなった。
「――千雪さん、あなたとどうしても話したかったの」
歌い終えて(といっても千雪は、あれが何という曲か知らなかった)、こちらを向いた美花世は淡く微笑んでいて、どうも怒り出しそうには見えない。それよりも、改めて対面すると、その類まれな美貌に自分との差を感じてしまう。
(この人から若木さんを奪うなんて、絶対に無理)
こう思い知らされて、千雪の目から涙がはらはらと零れ落ちた。
千雪の泣く姿は、ルルの目にはかつての自分や、葉子のそれと重なって見えた。理由は違っても、どうしようもない思いに涙しているのは同じ。――彼女はやはり敵ではない。敵にするまい。
「千雪さん、あなたが練習に来られなかった理由、わかってるつもりよ。……若木松葉のことでしょう」
葉子の名を出すと、彼女は激しくしゃくり上げる。
「あなたが若木松葉のことをどう思っているのか、話してみてくれない?」
「……」
「私にそのことを話すのは、癪に障るだろうとは思う。でも、私がそれを理解しないことには、互いに歩み寄れないままだから」
――それでも相手は黙っていた。ルルはいつまでも返事を待つつもりで、相手を見据え続けた。
やがて、涙が止まって気も落ち着いたのか、千雪は小さな声で打ち明け始めた。
二年前の公演で若木松葉のファンになり、直後に話しかけられたことで憧憬の念を抱いたのだと。その人と親しくなりたい、同じ舞台に立ちたいという願いがあったから必死に勉強したのだと。
「けれど入団してみたら……睡蓮さんと仲が良いって知って……」
声を詰まらせる千雪。
「睡蓮さん……でも私、もう諦めました。睡蓮さんと若木さんがお似合いだって、十分わかりました」
「本当にそう思うの?」
答えは、返ってこない。
「千雪さん。私はあなたを傷つけたくない。嫌いになんてなれない。――それというのも、あなたって葉子……若木松葉に似ているんだもの」
「えっ」
千雪は予想外の発言に目を見開いた。ルルは更に続ける。
「そして、この私にも似ているのよ」
――二人は沈黙の中、向かい合って立ち尽くした。
沈黙を破ったのは、これから稽古に入るというチャイムの音だった。
「あ、もう時間。急がなきゃ」
美花世に促されるまま千雪は、どこかぼんやりとした心地でそこを後にした。
――稽古場には、既に来ていた演出家や振付の先生達、ずっと練習を続けていたらしい生徒達が、中々現れぬ二人を待っていた。
「すみません、遅れてしまって」
美花世の後について、千雪も「すみませんでした」と口ごもって頭を下げる。
「君らは何をしていたんだね。初日まで二週間もないんだ、ちっとも時間を無駄にできないんだぞ」
演出家の先生がきつい調子でなじるので、事の原因である千雪は顔を紅くした。それを隠すかのように、美花世が一歩前に出る。
「お待ち下さい、先生。私達、ちゃんとした理由があって遅れたんです」
凛として言い放った美花世に、皆の視線が引き寄せられる。
「何だね、睡蓮君、その理由ってのは」
「ええ。実は、この千草園葉さんに歌のレッスンをしておりました」
えーっといったどよめきが、皆の間を駆け巡る。千雪も例外ではなく、ヒュッと息を呑んで当の美花世の後ろ姿を見つめるばかり……。平然としているのは、発言の主ただ一人だけだ。
「あら、驚くにはあたらないでしょう。私、千草さんは声楽の素質があるな、と兼ねてから見込んでいたんです。それで昨日、レッスンを申し出たのを、すっかり忘れていて……随分この子を待たせちゃって、気まずい思いさせてしまいましたわ」
頬に手を当てて可憐に微笑む、花園のプリマドンナ。一同は目を丸くして、彼女と、彼女にみとめられた少女とを交互に見やっている。これが嘘だとは、誰も思いつかないらしい。
「……うーん、まあ、他ならぬ睡蓮君のことだ。レッスンをしていて遅れたなら、許してやろう。それで、その子はどのくらいの腕前を持っているのかね」
「先生や、皆さんに判断していただきましょう。――千雪さん、ほら」
美花世に手首を掴まれて、逃げようにも逃げられない千雪は、おずおずと前に歩み出る。――こんな大勢の前でひとりきり歌うなんて、自分にできるだろうか。それも、ぶっつけ本番ときている。
「あのう、睡蓮さん……」
「恥ずかしがらないで。今日教えたあの歌を歌ってごらんなさい」
彼女の澄んだ漆黒の瞳に見つめられると、何も文句が言えなくなってしまう。助けほしさに、無意識に目線を泳がせていると、若木松葉の祈るような眼差しとぶつかった。
(そうだ、若木さんが見ているんだ)
(下手でもいい。怖気づいて恥を晒すよりも、一生懸命にやって恥をかく方が、見苦しさはない)
憧れの人の期待を裏切ってはいけない。――昨日、松葉からもらったチョコレートの豊かな風味が舌の上をかすめたような気がした。
身体の力を抜き、静寂の中、息を吸い込む。
アンニー、可愛い花
小さい野すみれ
春の日野末に咲きし
やさしの姿忘れじ
張り詰めていた空気が緩んで、ゆらゆらと漂っては、溶け込んでいくのがわかる。周囲の人々の狐に摘ままれたような顔も。若木松葉の喜びに輝いていく顔も。
アンニー春の花
アンニー歌うたえば
百鳥も声合わせて
可愛い野すみれ、アンニー
声を震わせて歌い切ると――真先に松葉と美花世が大きな拍手をし、それにつられて次々と拍手の輪が広がっていった。先生達も皆にこにこして手を叩いているではないか。千雪は、我ながらひっくり返りそうだった。
「君、素晴らしかったよ! これほどまでとは恐れ入った」
演出家の先生ご満悦で、
「どうだい、君さえよければ、次の公演ではソロを歌ってもらおう」
とまで言う始末。そして美花世にもまた感心している。
「君の指導もたいしたものだな。今後もよろしく頼みたいね」
――それから本題の、来月のレビューの練習が始まった。いつもより和気あいあいとした雰囲気が稽古場中をずっと取り巻いていた。
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