第6話:賢者の涙と月夜の秘密
リリィのメイド喫茶でのアルバイト騒動以来、俺は彼女に「バイト禁止令」を出した。 代わりに、シルヴィが稼いだ膨大な資金の中から、リリィの欲しいものを買い与えるという形で解決した。 ……俺は一介の高校生なので、そんな大金、一生かかっても稼げないが。
そんな日々が続き、俺は少しずつ、この奇妙な共同生活に慣れ始めていた。 アイリスは相変わらず学校で騒動を起こしかけ、リリィはテレビアニメに夢中になっている。 そして、シルヴィは、まるで完璧な主婦のように家事をこなし、時には俺の勉強まで見てくれる。 彼女たちの能力は、異世界で「勇者の仲間」だったというだけあって、どれも常識離れしている。 シルヴィの分析力と判断力は常に的確で、このマンションの家賃や生活費を稼ぎ、全ての雑務を完璧にこなしている。
ある日の深夜。 喉が渇いて目が覚めた俺は、ベッドから起き上がり、リビングへと向かった。 リビングの明かりは消えていたが、ベランダの窓から差し込む月明かりが、室内をほのかに照らしていた。
ふと、ベランダに人影があることに気づく。
「……シルヴィ?」
そこには、パジャマ姿のシルヴィが、一人、月を見上げて立っていた。 長い銀髪が夜風に揺れ、その横顔は、いつも見せる冷静な表情とは違い、どこか儚げに見えた。
俺が声をかけると、彼女はハッと振り返った。 その頬には、一筋の涙が伝っていた。
「カズヤ……どうして、ここに?」 彼女は慌てたように涙を拭うが、その表情は痛々しいほどに悲しみに染まっていた。
「喉が渇いて目が覚めたんだ。お前こそ、こんな時間に何してるんだよ」 俺が心配して尋ねると、シルヴィは窓の外の月をもう一度見上げた。
「……満月は、異世界とこちらの世界を繋ぐ魔力が最も高まる時。故郷を、思い出すのです」 彼女の言葉は、いつも以上に寂しげに響いた。
「故郷……寂しいのか?」 俺は、ベランダに出て、彼女の隣に並んだ。 夜風がひんやりと肌を撫でる。
「ええ。とても」 シルヴィは静かに頷いた。 「私たちは、カズヤと共にこの世界へ渡ることを選びました。それは、後悔していません。ですが……カズヤの記憶が、失われてしまったことにだけは、いまだ慣れません」
彼女の声は、震えていた。 いつもは完璧で、感情を表に出さないシルヴィが、こんなにも感情的になっている姿を見たのは初めてだった。
「ごめんな……俺、何があったのか、全然覚えてなくて」 俺が言うと、シルヴィは首を横に振った。 「あなたのせいではありません。これは、あなたが、あなた自身で望んだこと……」
また、その言葉だ。 『俺が望んだ記憶喪失』。
「……本当に、俺が望んだのか? そんな大切な記憶を、全部忘れることを?」 俺は、夜空の月を見上げながら尋ねた。 「俺は、お前たちとの約束とか、思い出とか、全部忘れちまうような、そんな人間だったのか?」
シルヴィは、俺の隣で、また深く、悲しげなため息をついた。 「……あなたと、私たち。とても深い絆で結ばれていました。それは、この世界に転移する際に、私たち全員が、魂に刻んだ誓いです」
彼女は、そっと自分の胸に手を当てた。 「その誓いは、カズヤの中にも、魂の奥底に刻まれているはずです。例え、記憶がなくても……」
「でも、俺は何も思い出せない」 俺がそう言うと、シルヴィはまた俺の方を向いた。 その紫色の瞳は、月の光を受けて、どこか神秘的に、そしてとても切なげに輝いていた。
「……思い出さない方が、カズヤにとっては、幸せだったのかもしれません」
彼女の言葉に、俺はハッとした。 まるで、俺の記憶喪失の裏に、何か深い悲しみや、重い過去が隠されているかのような響きだった。
「……おい、どういう意味だよ。何か隠してるだろ」 俺は問い詰めるように言った。 シルヴィは、その問いに答えず、ただ静かに首を横に振った。
「今はまだ……。きっと、いつか、カズヤ自身が、全てを思い出す時が来るでしょう。その時まで、私たちは、あなたを支え続けます」
彼女の表情は、どこか諦めにも似た、静かな決意に満ちていた。 そして、俺の手を、そっと掴んだ。 その手は、冷たかったが、確かに俺を強く掴んでいた。
シルヴィの言葉は、俺の記憶の空白に、新たな疑問の影を落とした。 俺は、なぜ記憶を失うことを望んだのか。 そして、その忘れた記憶の先に、俺にとって、思い出さない方が幸せな「何か」が、一体何があるというのか。
この奇妙な共同生活は、ただのドタバタラブコメではない。 俺の失われた記憶の奥には、きっと、彼女たちと共に乗り越えてきた、過酷な物語が隠されている。 そして、その物語が、再び俺たちの日常を揺るがす日が、そう遠くないことを、俺は無意識に感じ始めていた。
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