第5話:魔族姫、はじめてのアルバイト

 アイリスが転入してきたことで、俺の高校生活は初日から大波乱だった。 昼休みにはクラスメイトたちが俺の席に押し寄せてきて「柏木、転入生の柏木さんとどういう関係なんだ!?」と質問攻め。 放課後には、校舎裏でアイリスに抱きつかれていたところを数人の生徒に見られてしまい、翌日には「柏木と転入生、もう付き合ってるらしいぞ」というデマが光速で広まっていた。アイリスは俺の妹だって設定はどこに行った!?  俺の記憶では、高校一年生の頃は空気のような存在だったはずなのに。


 そんな喧騒の日常の中、次の問題はリリィだった。


「カズヤ! 私、お小遣いが欲しい!」 ある日の夕食後、ソファでくつろいでいた俺に、リリィがキラキラした目で訴えかけてきた。 「え? お小遣い? なんで?」 「だって! みんなスマホゲームとか、可愛い服とか、美味しいスイーツとか、いっぱい買ってるじゃない! 私もあれが欲しい! これが欲しい!」


 リリィは、この世界に来てから、テレビやインターネットを通して、日本の「物欲」という文化にすっかり魅了されてしまったらしい。 異世界では魔王の娘という立場だったそうだが、ここではただの美少女。当然、自分の収入源はない。


「リリィ。この世界の貨幣経済は、あなたの言う『お小遣い』という概念では成り立ちません」 冷静にシルヴィが諭す。 シルヴィは、この世界の経済や情報網への適応が驚くほど早かった。 今は株やFXで資金を運用し、とんでもない額を稼ぎ出しているらしい。 「あなたもアルバイトでもして、自分で稼いではいかがですか?」


「アルバイト……?」リリィが首を傾げる。 「ええ。この世界では、働くことで報酬を得るのが一般的です」 「ふむ……魔王の娘たる私が、働くと?」 リリィは腕を組み、難しい顔で考え込んでいる。


「カズヤ、私、アルバイトする!」 翌日、リリィは目を輝かせて俺に報告してきた。 「え、マジか!? どこで?」 「メイド喫茶、だって!」 「メイド喫茶ぁ!?」


 よりによってメイド喫茶か。 シルヴィがネットで見つけた求人情報らしい。リリィの可愛さなら、たしかに即戦力だろう。 俺は心配だったが、シルヴィが「現代社会の学習のためにも必要です」と強硬に主張するので、渋々承諾した。


 そして、リリィの初出勤の日。 俺は居ても立っても居られず、学校帰りにこっそりそのメイド喫茶を覗きに行った。 メイド服に身を包んだリリィは、想像を遥かに超える破壊力だった。 フリルとリボンがたっぷりあしらわれた真っ黒なワンピースに、頭にはレースのカチューシャ。 「おかえりなさいませ、ご主人様♡」 その声は、店の外にまで響き渡り、通りすがりの通行人まで振り返るほどの魅了オーラを放っていた。


 ……これは、ヤバい。 店の外には、既に長蛇の列ができている。リリィ目当てだろう。


 その日の夜、メイド喫茶の店長から、俺のスマホに震える声で電話がかかってきた。 「柏木さん! リリィちゃんを、今すぐ迎えに来てください! お願いします!」 「え、何かあったんですか!?」 俺は慌てて店に駆けつけた。


 店の中は、異様な雰囲気に包まれていた。 客は皆、目を虚ろにして、口元には意味不明な笑みを浮かべている。 そして、店の隅で店長が、涙目でガタガタと震えている。


「リリィ、お前何やったんだよ!?」 俺が聞くと、メイド服姿のリリィは、不満そうに腕を組んだ。 「だってぇ、このご主人様、私のオムライスに文句をつけたのよ! 『ケチャップで描いた絵が下手だ』って!」 リリィが指さす先には、泡を吹いて倒れている客が一人。


「だから私が、『は? 私の絵に文句つけるなんて、死にたいんですか?』って言ったら、この人、急に顔色変えて土下座しだしたの!」 「……お、おい、まさか魅了の魔眼とか使ってないだろうな?」 俺が尋ねると、リリィは悪びれる様子もなく、「だってカズヤ、働いてお金稼げって言ったじゃない」と答える。


「それに、このおじさんね! 私に触ろうとしたのよ! だから私が『その指、いらない?』って言ったら、真っ青になって震えだしたの!」 リリィが指さすのは、やはり泡を吹いて倒れている別の客。 俺は頭を抱えた。 魅了の魔眼で客を骨抜きにし、闇の魔力で脅迫して店を地獄絵図にしたのか、この魔族姫は!


「リリィ! 今すぐ謝れ!」 「えー! だって私が悪くないもん!」 リリィはそう言うと、怒りで頭の角が少し大きくなったように見えた。 その瞬間、店内の電気がパチパチと点滅し始め、BGMのスピーカーから不穏なノイズが流れる。


「ひぃっ……!!」 店長は完全に恐怖で支配され、ソファの下に隠れている。


 俺は仕方なく、リリィの頭をポンと撫でた。 「ほらほら、そんな怒るなって。お前が頑張ってくれたのは分かってるから。な?」


 俺が優しく言うと、リリィはふてくされた顔のまま、少しだけ角の大きさが元に戻った。 「……カズヤに撫でられると、なんか怒りが収まるの、ずるい」 そう言って、リリィは俺の腕に頬をすり寄せてくる。 全く、このあたりは魔王の娘とは思えないほど純粋だ。


「よし、あとは俺に任せろ。店長さんも、大変でしたね」 俺は店長に深々と頭を下げた。 そして、魅了されて虚ろな顔をしている客たち一人ひとりに声をかけ、なぜか全員に「すみませんでした!」と土下座させながら店から出て行かせた。 なぜ俺が土下座させただけで、相手が土下座するのかは分からないが、第2話のひったくり犯の一件といい、この体は何かがおかしい。


 店を出て、夜風に当たる。 リリィは俺の腕にしがみつき、上目遣いで俺を見上げてくる。 「カズヤ。私、もっとお金欲しい。でも、アルバイトはもう嫌い」 「だろうな」


「じゃあ、カズヤが私のお金、稼いでくれるの?」 その質問に、俺は思わず吹き出してしまった。 「無理だろ。俺、普通の高校生なんだぞ?」


 だが、リリィは信じられないくらい真剣な顔で俺を見つめていた。 その瞳には、子供が親にねだるような、純粋な期待が宿っている。


 俺は、ため息をついた。 「……とりあえず、お前の服とか、欲しいものは俺が出してやるよ。だから、もうアルバイトはするな」


 俺の言葉に、リリィの顔がパッと輝いた。 「やったー! カズヤ、やっぱり大好き!」 そう言って、リリィは俺の首に抱きつき、頭の角が俺の頬に当たって少し痛い。


 俺は、空っぽの記憶の中の「自分」が、果たしてこんなにも多くのものを背負っていたのか、とぼんやり考えた。 記憶を失っても、俺は彼女たちにとっての「何か」なのだ。 その責任を、俺はまだ、どう受け止めればいいのか分からなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る