楽園の監獄
沢 一人
第1話 異変の予兆
プロローグ:
2020年2月20 日、深夜〜21日AM
神奈川県・総合病院
薄緑色の「感染制御医(Infection Control Doctor)」の腕章が、神崎拓海が羽織る白衣の袖で微かに光っていた。
時刻は午前2時を過ぎたばかり。夜勤の担当ではないが、彼は緊急の対策会議に呼ばれていた。
窓の外は、凍えるような2月の冷たい雨が降っていた。
しかし、病院内にはそれとは違う、張り詰めた、熱狂にも似た緊張感が満ちている。
神崎が会議室へ向かう途中、ロッカー室の脇を通った。
中から水音が聞こえ、すぐにシャワールームのドアが開いた。
タオルで髪を乱暴に拭いながら出てきたのは、救命救急の主任医師である五十嵐だった。
彼の顔は睡眠不足とストレスで青ざめ、目には怒りと諦めが混じったような疲労の色が浮かんでいた。
「神崎か。ご苦労さん」五十嵐は乾いた笑いを漏らした。
「俺が、あの船の対応をする役になったらしい。くじ引きみたいなもんだ。誰もやりたくないってか?」
彼の言う「あの船」とは、横浜沖に停泊中の豪華客船『オリエンタル・ドリーム号』のことだ。
船内で突如発生した謎の肺炎の集団感染。その初期の患者を受け入れる病院の一つに、彼らの総合病院が指定されたのだ。
【東京の状況と院内感染の恐怖】
神崎の疲労は、単に『オリエンタル・ドリーム号』への対応準備からくるものではなかった。
数日前、東京の主要な大学病院から届いた報告が、医療関係者の間に深い戦慄をもたらしていた。
救命救急で受け入れた患者からウイルスが検出された後、同じ病棟の看護師や医師が次々と発症。
すでに院内感染が広まり、一部の病棟が閉鎖に追い込まれるという深刻な事態となっていたのだ。
「東京の状況を見ろ」神崎は会議で何度も繰り返した。
「一度、院内に持ち込まれたら終わりだ。通常診療を維持したまま、感染症病棟と救急体制が崩壊する。
我々が今、どれだけ完璧な水際対策をしても、やりすぎることはない。」
彼は、頭の中でこの恐怖の時系列を反芻した。
医療の最前線にいる者として、これは単なる感染症ではない。
それは、人類が築き上げてきた衛生と医学の城壁を、根元から揺るがす危機だった。
【社会の時系列と恐怖】
世間では、まだ事態の深刻さが正しく理解されていなかった。
国民的コメディアンや有名タレントが次々と体調不良で活動休止を発表し、その病状が連日トップニュースを飾っていた。
楽観的な報道が多かったが、彼らが呼吸不全で次々と倒れていくという情報が、やがて人々の不安を煽り始めた。
そして、先週の金曜日、その一人が帰らぬ人となったという速報が流れた。
報道は一時騒然となり、人々はようやく気付いたのだ。
「ワクチンは無い。特効薬も無い。今の医学では手立ての無い、恐ろしいウイルスだ。」
【病院の防御線】
彼らの病院は、すでに水際作戦を開始していた。
病院のメインエントランスには、警備員が常駐し、来院者全員に非接触型の体温チェックを義務付けていた。
マスクを着用していない者は、問答無用で敷地内への立ち入りを拒否される。
「チェックで引っかかったら?」
五十嵐が訊いたとき、神崎は厳しい目で答えた。
「すべて特別外来棟へ回します。本館には絶対に立ち入れない。入り口は一つ、動線は完全に分離されています」
臨床検査室もまた、戦場と化していた。
通常検査室から完全に分離された、特別の個室がPCR検査のために充てられた。
ガラスの向こう、陽圧に保たれた部屋の中で、ベテランの臨床検査技師が一人、厳重な防具で身を包んでいた。
N95マスク、フェイスシールド、二重の手袋、全身を覆うタイベック(防護服)。
検体は、感染リスクを最小限に抑えるため、ビニールで三重に厳重に包まれ、漏れを徹底的に防いでいる。
搬送する技師と受け取る技師の間で、内線電話を通じて「今、行きます」「受け取ります」という最小限の会話が交わされる。
それは、儀式的なほどに慎重な、孤独な作業だった。
神崎は、その厳戒な様子を見ながら、あるニュースを聞いた。
「オリエンタル・ドリーム号、陽性ではない乗客の下船を開始。一晩で約500人が解放へ。」
まだウイルスの全容が掴めない中、船から乗客が街へと放たれる。
そのニュースは、神崎の胸に重い警鐘のように響いた。
その数時間後だった。
隔離された特別外来から緊急コールが入る。臨床検査室のベテラン技師からの連絡だった。
「神崎先生…陽性検体です。当院から、初めてです」
神崎は目を閉じた。
これで、もう後戻りはできない。
彼らの病院も、この国も、ついにこの「見えない戦争」の最前線に取り込まれたのだ。
誰もが、目の前の状況に心底から怯えていた。
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