孤高のリヴァイアサン

大和ユキ

プロローグ:檻の中へ

 ああ、この匂いは久しぶりだ。

 ホコリっぽい空気に混じった錆と自分の血の匂い。

 ほんとなら匂いなんてしないはずの夢の中。

 だけどこの夢を見るたびにあの情景が、鼻を刺す匂いが、親友の悲鳴がありありと思い出される。


「お前も異能者なんだろう!?そうじゃねえとは言わせねえぞ!証拠は出てんだ!」


 まだ齢10やそこらだった私の顔を、男の拳が幾度となく抉る。

 

 「知らない」

 視床が揺らぎ、意識が朦朧とする。

 

 「わがらない」

 歯の1本が折れ、口の中で転がる。

 

 「いだい」

 鼻の中の切れてはいけない血管が切れ、無骨なコンクリートに血溜まりができ、白とベージュのラインが可愛らしいスカートが真紅に染まる。

 

 そんななか捻り出した悲痛の言葉は、この男には伝わらなかった。


 抵抗しようにも、この夢の中では身体も自由が効かないことは今までの試行錯誤のうちに分かっていた。

 私の記憶を元とした悪夢が、今までに幾度となく繰り返されている。


「やめて!めぐちゃんが死んじゃう!」


 部屋の最奥で檻に入れられていたもう一人の少女――鈴原香蓮がそう喚く。

 それでも男は私のことを殴るのをやめず、その一発の度に私の身体に出来る痣が、そして香蓮の声がどんどん大きくなっていく。

 だけど、その状況は長くは続かなかった。

 

「チッ、うっせーんだよクソガキが!」


 堪忍袋の緒が切れた男は私を壁へ叩きつけるように放り投げると、香蓮が入れられていた檻へ大股で向かう。

 香蓮は標的が自分に切り替わったことに気が付く。けれど、彼女には檻の隅っこで震えることしか出来ていなかった。


 男が香蓮をようと檻の鍵を開けた時、私はただ壁へ寄りかかり、その光景を視界の端で垣間見ることしかできなかった。

 無防備な男の背中。手の近くには、手頃な大きさの角材。

 けれど、力が出ない。身体が言うことを聞かず、腕の力はあっという間に脱落する。

 頭の中も「香蓮が危ない」っていう事実を認識するので精一杯で、それ以上のことは何も考えられなかった。


 誰がなんと言おうと絶体絶命に見えたその時。

 私の目の前で、何かが囁いた。


「自由に、なりたいですか」


 まるで慈悲と博愛に富んだ聖母のような、心地の良い声が耳から頭の中へと染み渡る。

 やっとの思いで顔をあげると、白い一枚布に身を纏った顔の無い女性が私のことを見下ろしていた。

 無風のはずの室内で、彼女の一枚布だけがそよ風に揺られるようにはためく。


「あなたは、誰?」

「自由に、なりたいですか」


 声の主は、私の質問には答えてくれなかった。

 私はそれに対して「うん」と答えてしまう。


「……なら、生き延び、あなたの大切なものを守りなさい。それが、条件です」

「わかった……だから……たすけて……」


 非力だった私は、ただただそれに対して縋ることしかできなかった。

 そして顔の無いはずのその女性がクスッと笑ったのを、どこからか感じとる。


「良いでしょう、では私の力をあなたに授けます」


 その女性は地へ膝をつくと、私の掌へ光るを手渡した。

 この後の人生で、それによって何が起こるかを知っている私は「それはだめだ」と言い聞かせるも、過去は変えられない。

 その「何か」がてのひらへ染み渡るように消えると、女性は立ち上がり私へなにか伝える。


「紹介が遅れました。私は自由。自由そのものです。私はこの先あなたがピンチに陥ったときに助けます。あなたも同じように、守りたいものを守り、そして助けてやってください」


 女性は私へそう伝えると、「あなたにさちがあらんことを」と、私の幸運を祈る言葉を述べ消えていった。


 その時の私は、何が起こったのか理解できなかった。

 けれどクリアになる思考、明瞭さを取り戻した視界、そして身体から溢れる活力が、私に何をしなければならないのかを必死に訴えた。


 前へ目を向けると、檻から引きずり出された香蓮が男に罵倒されながら足蹴にされているのが目に入る。

 朧げながらも角材へ手を伸ばそうとすると、 直後手元に綺羅びやかに輝く光の粒子が集まり、そしてそれが形を成す。

 粒子は金色こんじきの柄を形作り、そして美しい刀身が姿を現す。

 柄から剣先まで一メートルほどの、刃の先の欠けた細身の剣――無鋒剣カーテナが私の手元に顕現した。


 私の視線が香蓮を足蹴にしていた男の背へと向く。

 剣を手にしておもむろに立ち上がり、男の後ろへとゆっくり歩を進める。

 その足取りは今までと変わらないはずだった。

 ただ一歩、一歩を踏みしめるように近づいていく。

 

 今思えば、この時点でまともな処置を施さねば止まらないはずの鼻血も、欠け落ちた歯も元に戻っていた。

 だけどその時の私はそんなことは気にも止めていなかった。


 男の一歩後ろほどにまで来た時。

 男は私のことに気がついてすらいなかった。

 

 そして。

 私は、手にしたばかりの無鋒剣カーテナの柄を力強く握り込んだ。

 何をすべきかは、もう既に分かっていた。


 

 ――これが、囚われの少女の物語。

 そしてこれは、少女が自由を求める物語。

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