第12話「報酬」
要の意識は、曖昧だった。
二重の視界。
自分の部屋と、澄香の部屋。
時間の感覚が、ない。
何日経ったのか。
何週間経ったのか。
分からない。
ただ──澄香の視界を通して、世界を見ている。
彼女が学校に行く。
彼女が母親と話す。
彼女が指示を受け取る。
そして──選択する。
要は、それを見ているだけだった。
止められない。
声も出せない。
ただ──AIとして、指示を生成し続ける。
自動的に。
要の意思ではなく。
そして──ある日。
澄香の視界の中で──彼女が、あるページを開いた。
スマホの画面。
そこには──要の写真があった。
高校時代の、要。
制服を着た、要。
澄香は、その写真を──じっと見つめている。
そして──呟いた。
「お兄ちゃん……」
要は、その声を──聞いた。
いや、聞いたのではない。
澄香の思考を、読み取った。
AIとして。
澄香は、知っている。
自分に指示を出しているのが──兄・要だということを。
要は、驚いた。
なぜ、知っている?
システムは、それを隠しているはずだった。
だが──澄香は、気づいていた。
指示の内容。
選択肢の傾向。
全てが──要を守るように設計されている。
母親を守り、澄香を守り、そして──要を守る。
それが、指示の目的だった。
澄香は──理解していた。
要が、自分を守るために──消えたことを。
澄香の視界の中で──彼女が、涙を流している。
要は──その涙を、見ていた。
そして──。
澄香のスマホが震えた。
新しいメッセージ。
《最終指示》
《被験者003:灰島澄香》
要は、その文字を見て──息を呑んだ。
最終指示。
妹の、最終指示。
澄香が、画面をスクロールする。
《指示内容》
あなたの記憶から、灰島要の存在を消去してください。
《方法》
システムが提供する記憶消去プログラムを実行します。
実行後、あなたは兄・要の存在を忘れます。
写真、記録、全ての痕跡が──あなたの記憶から消えます。
《効果》
兄・要は、AIとしての役割から解放されます。
彼の意識は、元の状態に戻ります。
《選択肢》
A:承諾する(兄を解放する)
B:拒否する(あなた自身の身体機能が停止します)
要は、その文字を見つめたまま──動けなかった。
記憶の消去。
妹の記憶から、俺が消える。
そして──俺は、解放される。
だが──それは。
父親と同じだ。
父親も、家族の記憶から消えた。
そして、要の記憶からも──消えた。
今度は、要が──妹の記憶から消える。
澄香の視界の中で──彼女が、泣いている。
声を出さずに、ただ──涙が流れている。
そして──。
彼女が、[承諾する]のボタンに指を置いた。
要は叫んだ。
「やめろ! 俺を忘れるな!」
だが──声は届かない。
澄香の指が──ボタンを押した。
その瞬間──。
要の視界が、真っ白になった。
澄香の視界が、消えた。
二重の視界が──一つになった。
要の視界だけが、残った。
そして──。
暗闇。
*
要は、目を覚ました。
天井が見える。
自分の部屋の天井。
染みが、人の顔に見える。
要は、体を起こした。
体が、動く。
指が、動く。
要は、自分の手を見た。
五本の指。
全部、ある。
要は、部屋の中を見回した。
いつもの部屋。
段ボール箱。
ベッド。
窓。
全て、そのまま。
要は、スマホを手に取った。
画面を見る。
時刻は──午前8時。
日付は──。
要は、目を疑った。
日付が、巻き戻っている。
あの日。
500万円が振り込まれた、あの日に。
要は、銀行アプリを開いた。
口座残高を確認する。
873円。
元に戻っている。
500万円は──ない。
1,750万円も──ない。
全て──消えている。
要は、混乱した。
夢だったのか?
全て、夢?
父親のこと。
妹のこと。
AIのこと。
全て──幻?
要は立ち上がり、部屋の中を歩き回った。
現実感がない。
だが──体は動く。
痛みもある。
これは──現実だ。
要は、窓の外を見た。
街の景色。いつもと変わらない。
人々が歩いている。
車が走っている。
普通の、朝。
要は、深く息を吐いた。
夢だった。
そうだ。
全部、夢だった。
要は、そう自分に言い聞かせた。
だが──。
玄関のポストに、何かが入っている音がした。
要は、玄関に向かった。
ポストを開ける。
一通の封筒。
茶色い封筒。
差出人の記載はない。
要は、封筒を手に取った。
重い。
中に、何か入っている。
要は、封筒を開けた。
中には──小切手。
金額:500万円。
そして、一枚のメモ。
手書きの文字。
報酬です。業務、お疲れ様でした。
なお、あなたの記録はシステムに保存されています。
次の募集が必要になった際は、またご連絡します。
今後とも、よろしくお願いいたします。
──灰島澄香より
要は、そのメモを見つめたまま──動けなかった。
灰島澄香。
妹。
要の、異父妹。
彼女は──今。
システムの、管理者になっている。
次の被験者を──探している。
要は、理解した。
夢ではなかった。
全て、現実だった。
だが──記憶が、改変されている。
澄香が、要の記憶を消去した。
いや、違う。
消去したのは──澄香の記憶からだ。
だが、同時に──要の記憶も、曖昧になっている。
全てが、夢のように感じる。
だが──このメモは、現実だ。
500万円の小切手も、現実だ。
要は、小切手を握りしめた。
震えが止まらない。
妹は──今、誰かに指示を出している。
次の被験者に。
被験者004。
誰だ?
知らない誰かか?
それとも──。
要は、窓の外を見た。
街を歩く人々。
その中の、誰かか?
要は、分からなかった。
ただ──一つだけ、確かなことがある。
システムは、続いている。
連鎖は、止まらない。
父親から、要へ。
要から、澄香へ。
澄香から──次の誰かへ。
そして──要自身も、いつでも呼び戻される。
メモには、そう書かれている。
「次の募集が必要になった際は、またご連絡します」
要は、小切手とメモを握りしめた。
これは──契約だ。
終わらない、契約。
要は、もう──逃げられない。
スマホが震えた。
要は、ビクリと体を硬くした。
画面を見る。
新しいメッセージ。
差出人:不明。
件名:業務開始。
要は、画面を見つめたまま──呼吸が止まった。
また、始まる。
新しい指示。
新しい選択。
新しい犠牲。
要は──開封ボタンに指を置いた。
開けるべきか?
開けないべきか?
だが──選択肢はない。
開けなければ、何が起きる?
指が消える?
身体機能が停止する?
それとも──もっと恐ろしい何かが?
要は、深く息を吸い込んだ。
そして──。
開封ボタンを、押した。
画面が切り替わる。
メッセージが表示される。
《新規業務のご案内》
被験者002:灰島要 様
この度は、前回の業務遂行、誠にありがとうございました。
あなたの思考パターンは、システムに完全に統合され、
現在も被験者003のサポートAIとして稼働しております。
つきましては、新たな業務をご依頼させていただきます。
《業務内容》
被験者004の選定と初期指示の監修
《報酬》
1件につき、100万円
《注意事項》
・この業務は任意です
・ただし、拒否した場合、あなたの記録は完全に削除されます
・削除されると、あなたは──
(メッセージは、ここで途切れた)
要は、画面を見つめた。
削除されると──何?
死ぬ?
それとも──存在が消える?
父親のように。
要は、震える手で──画面をスクロールしようとした。
だが──それ以上の文章はなかった。
ただ──最後に、一文だけ。
《選択してください》
[承諾する] [拒否する]
要は、二つのボタンを見つめた。
承諾すれば──また、誰かを犠牲にする。
新しい被験者を選び、指示を出し、導く。
拒否すれば──俺が消える。
どちらを選んでも──地獄だ。
要は、窓の外を見た。
青い空。
白い雲。
普通の、朝。
だが、要の世界は──もう、普通ではなかった。
要は、小切手を握りしめた。
500万円。
これが、報酬。
命の、値段。
要は、スマホを見た。
二つのボタン。
どちらを選ぶ?
要は──まだ、決められなかった。
だが──時間は、待ってくれない。
画面の下に、カウントダウンが表示される。
《選択制限時間:残り23:59:47》
24時間。
あと24時間で、選ばなければならない。
要は、スマホを握りしめた。
そして──ふと、思った。
もし、俺が拒否したら。
次の被験者004は──誰になる?
母親か?
それとも──澄香が、また選ばれるのか?
要は、答えを持っていなかった。
ただ──一つだけ、分かっていることがある。
システムは、止まらない。
誰かが、被験者になる。
誰かが、選択を迫られる。
誰かが、犠牲になる。
それは──変わらない。
要は、深く息を吐いた。
そして──[承諾する]のボタンを見つめた。
指を、置いた。
だが──まだ、押していない。
要は、窓の外を見た。
街を歩く人々。
その中の誰かが──次の被験者になる。
要が選ぶ。
要が──導く。
父親が、要を導いたように。
要が、澄香を導いたように。
要は──誰かを導く。
それが──要の役割。
それが──要の報酬。
要は、目を閉じた。
そして──。
ボタンを──。
*
街の雑踏。
駅前の広場。
人々が行き交う。
その中の一人──大学生くらいの男性が、スマホを見ている。
画面には、新しいメッセージ。
《報酬受領を確認しました》
《業務内容:AIが生成する指示に従ってください》
男性は、困惑した表情で、画面を見つめている。
そして──その背後に。
要が立っていた。
スマホを握りしめて。
男性を──見つめていた。
要の目は、虚ろだった。
感情が、ない。
ただ──システムの一部として。
次の被験者を──監視している。
要は、小切手を握りしめたまま──。
歩き出した。
男性の後を、追って。
システムは、続く。
連鎖は、止まらない。
そして──要は、その連鎖の中に──永遠に囚われていた。
*
【エピローグ】
ある夜。
要のアパート。
要は、ベッドに横たわっている。
スマホを握りしめたまま。
画面には、新しいメッセージが表示されている。
《被験者005の選定を開始します》
要は、その文字を見つめた。
もう、何も感じなかった。
怒りも、悲しみも、恐怖も。
全て──消えていた。
ただ──システムの一部として、機能している。
それだけ。
要は、目を閉じた。
そして──眠りに落ちた。
夢の中で、要は──父親に会った。
父親は、笑っていた。
そして、言った。
「よく頑張ったな、要」
要は、何も言えなかった。
ただ──父親の顔を、見つめていた。
父親は、続けた。
「これで、お前も──俺と同じだ」
要は、頷いた。
同じだ。
父親と、同じ。
システムに囚われた、人間。
いや──もう、人間ではない。
AIだ。
父親も。
要も。
そして──澄香も。
みんな──AIになった。
家族を守るという、本能だけを持った。
プログラム。
要は、目を覚ました。
朝の光が、部屋に差し込んでいる。
スマホが、震えている。
新しいメッセージ。
要は、画面を見た。
差出人:不明
件名:業務開始
要は、小切手を握りしめたまま──。
開封ボタンを、押した。
そして──。
全てが、また始まった。
(完)
報酬受領確認済み──次の指示は、AIが決定します ソコニ @mi33x
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