第2話「遂行」
要はアパートに戻り、ベッドに座り込んだ。
右手の小指を何度も確認する。曲げる。伸ばす。爪を触る。
ある。確かにある。
だが、一時間前──この指は存在していなかった。
要は頭を抱えた。
「意味が分からない……」
スマホを握る。画面には、新しいメッセージが表示されたままだ。
《第2指示を送信します》
だが、それ以上の内容はまだ来ていない。
要は立ち上がり、部屋の中を歩き回った。思考を整理しようとする。
事実を並べる。
一、口座に500万円が振り込まれた。
二、指示に従わなかったら、小指が消えた。
三、指示に従ったら、小指が戻った。
つまり──これは契約だ。
誰かが、何かの目的で、俺を使っている。
だが、なぜ?
肉まんを買わせて、何の意味がある?
要は窓の外を見た。曇り空。鉛色の雲が低く垂れ込めている。
スマホが震えた。
要はビクリと体を硬くした。画面を見る。
《第2指示》
《実行日時:本日18:00》
《場所:みどり公園・3番ベンチ》
《内容:ベンチに座り、5分間動かないでください》
《制限時間:18:00~18:05》
《注意事項:スマホの操作、周囲の観察は可能です。ただし席を立つことは禁止します》
要は時計を見た。現在時刻、13時20分。
あと4時間40分。
みどり公園。駅から徒歩十分ほどの、小さな公園だ。子供の遊具がいくつかあり、ベンチが五つ並んでいる。要も、以前何度か通ったことがある。
ただ座るだけ。
それだけなら、簡単だ。
だが──小指のことがある。
従わなければ、何かが起きる。
要は震える手で、スマホを握りしめた。
逃げることはできない。
それは分かっていた。このメッセージの送り主は、俺の口座を知っている。俺の体に、物理法則を無視した現象を引き起こせる。
逃げ場はない。
要は深く息を吐いた。
「……やるしかない」
*
17時50分。
要はみどり公園に到着した。
公園には数人の親子連れ。滑り台で遊ぶ子供たち。ベンチに座って談笑する母親たち。
平和な光景。
要は3番ベンチを探した。公園の奥、木立に囲まれた場所にある。他のベンチからは少し離れている。
誰も座っていない。
要は深呼吸をして、ベンチに腰を下ろした。
時刻は17時55分。
あと5分。
スマホを取り出し、画面を見る。指示内容を再確認。
18:00から18:05まで、ここに座り続ける。
動かない。
それだけ。
要は周囲を見回した。公園の入り口。遊具のエリア。木立の向こうに見える住宅街。
異常なものは、何もない。
時計を見る。17時58分。
心臓が早鐘を打つ。
何が起きる?
それとも、何も起きない?
17時59分。
要は両手をベンチの端に置いた。足を揃える。背筋を伸ばす。
18時00分。
スマホが震えた。
《第2指示:開始》
《残り時間:5分00秒》
要は動かなかった。
呼吸を整える。視線を正面に固定する。
秒針が進む音が、やけに大きく聞こえる気がした。
1分経過。
何も起きない。
2分経過。
公園で遊んでいた子供が、母親に呼ばれて帰っていく。
3分経過。
風が吹く。木の葉が揺れる。
4分経過。
要は息を止めた。
公園の入り口から、一人の男が入ってくるのが見えた。
三十代くらい。黒いジャンパー。フードを深く被っている。手には、何か──包丁?
要の背筋に、冷たいものが走った。
男はゆっくりと公園内を歩いている。キョロキョロと周囲を見回している。
要のほうには、まだ気づいていない。
要は動けなかった。
指示だ。動くな。
だが──あの男は危険だ。
男が、遊具のエリアに近づく。だが、そこにはもう誰もいない。
男は舌打ちをした。そして、要のいる方向に視線を向けた。
目が合った。
要は硬直した。
男が、こちらに歩いてくる。
距離が縮まる。十メートル。五メートル。
男の手の中のもの──それは確かに刃物だった。
要の呼吸が止まる。
だが──男は、要の真横を通り過ぎた。
立ち止まることなく、公園の反対側の出口へと向かっていく。
そして、走り去った。
スマホが震えた。
《第2指示:実行完了》
《評価:A(完璧な遂行)》
《報酬:追加100万円を振込します》
要はその場に座り込んだまま、震えが止まらなかった。
*
アパートに戻ったのは、19時を過ぎていた。
要はベッドに倒れ込み、天井を見上げた。
あの男は──何だったんだ?
通り魔?
いや、確証はない。ただの通行人だったかもしれない。
だが、あの刃物は。
要はスマホを手に取り、ニュースアプリを開いた。
地域のニュース。事件。事故。
そして──あった。
【速報】みどり公園付近で通り魔未遂
本日18時05分頃、みどり公園付近で刃物を持った男が目撃される。
男は公園内に侵入したが、不審な男性を目撃したため逃走。
被害者なし。警察が男の行方を追っている。
要は画面を凝視した。
不審な男性。
それは──俺のことか?
要はベンチに座っていた。動かずに。
あの通り魔は、俺を見て逃げた。
なぜ?
ただ座っていただけなのに?
要は記憶を辿る。
男と目が合った瞬間。男の表情。
恐怖?
いや、警戒だ。
まるで、俺が──何かを待ち伏せしているように見えたのか?
要は頭を振った。
偶然だ。たまたま、あの男が怯えただけだ。
俺が座っていたことと、通り魔が逃げたことは──関係ない。
関係ない。
そう自分に言い聞かせた。
だが──心の奥底で、要は知っていた。
関係がある。
第1指示。肉まんを買う。
第2指示。ベンチに座る。
どちらも、一見無意味な行動。
だが、それは何かの結果に繋がっている。
要は立ち上がり、窓の外を見た。
街の明かり。車のライト。遠くに見える駅のネオン。
この街のどこかで、今も何かが起きている。
そして、俺の行動が──それに影響を与えている?
「まさか……」
要は呟いた。
だが、否定できなかった。
スマホが震えた。
要はゆっくりと画面を見る。
新しいメッセージ。
《第2指示完遂を確認しました》
《報酬100万円を振込しました》
《現在の総報酬:600万円》
《第3指示:難易度が上昇します》
《次回指示送信予定:明日午前6時》
要は画面を見つめたまま、動けなかった。
難易度が上昇する。
それは何を意味する?
ベンチに座るだけで、通り魔を追い払った。
次は──何をさせられる?
要は震える手で、スマホを握りしめた。
俺が座ってなかったら、あの犯人はどうなってた?
公園にいた親子を襲っていたのか?
それとも、別の場所で事件を起こしていたのか?
分からない。
だが──もし、俺が指示を無視していたら。
誰かが傷ついていたかもしれない。
要は頭を抱えた。
これは、善なのか?
俺は、誰かを救っているのか?
それとも──ただ操られているだけなのか?
答えは出なかった。
窓の外で、サイレンの音が遠ざかっていく。
要はベッドに横たわり、目を閉じた。
だが、眠れなかった。
脳裏に焼き付いて離れないもの──
あの男の、恐怖に歪んだ顔。
そして、自分の右手。
五本の指。
要は、自分が何者なのか、分からなくなっていた。
(第2話 了)
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