第4話

私は、生まれて初めて、浜辺を歩いた。

青く澄んだ美しい海と、どこまで続く砂浜。


沖の方では、大きな船が停泊していた。

海鳥が、エサを求めて上空を飛び回っている。


「何か…足元が変な感じだな」

さくさくした砂を踏むと、靴が滑って転びそうになる。

「靴は脱げばいいよ」

エドワードは、そう言うと、自分の靴をさっさと脱いでしまった。


貴婦人たるもの、人前で靴など脱げはしない、と始めは思っていたのだが…。

「…ああ、もう、靴の中に砂が入って気持ち悪いっ」

と、途中で靴を脱ぎ捨てた。

「…おお、これはなかなかいい気持ちだ…」

素足で浜辺を歩く2人に、穏やかな波が打ち寄せて来る。


「わっ…冷たいっ」

海水の冷たさに、思わず声を上げた。

「はははっ、エリーも海に入ったら?」

エドワードは、ズボンを膝までまくり上げて、ざぶざぶと海の中に入って行った。

「私はドレスを着ているんだぞ。海になんか入れるか」


そっぽを向いた私に、塩辛い水が飛んできた。

「わっ、こら、何をするっ」

「せっかく海に来たのに、見るだけだなんてもったいないじゃないか。それっ」

エドワードは、笑いながら水をかけて来る。


「やめろ、エディっ」

従兄の攻撃から逃げようとした時、つるりと足が滑り、私は見事に尻餅をついてしまった。

「…痛たた…」

ドレスは既に砂まみれである。

「あっはっはっは!…大丈夫?エリー」

エドワードは笑いすぎて、目に涙を浮かべていた。


私は、砂まみれのドレスで立ち上がった。

「…もう、こうなったら、どこまで汚しても同じだな」

と言って、ざぶざぶと海に入って来た。

「おお、伯爵令嬢ともあろうお方が、大胆な真似をする」

「君だって子爵じゃないか。さっきの仕返しだ、それっ!」

海水をすくって、エドワードにかける。


私達は、子供の頃に戻ったかのように、海の中ではしゃぎまくった。

それを、浜辺にいる子爵の側近と、サラが呆れた顔で眺めている。


私のドレスも、エドワードの服も、びしょびしょになってしまった。

「なかなかやりますな、シェルバーン伯爵令嬢殿」

「そっちこそ、ブライトン子爵ともあろうお方が、ひどい有様ですよ」

私達は、顔を見合わせると、ぷっと吹き出した後、大きな声で笑いだした。


ホテルに戻った後、サラに叱られた。

「もう、お嬢様ったら、子供みたいな真似はお辞めください。このドレス、もう着られないかもしれませんよ」

サラとは長い付き合いなので、主人に対しても遠慮がない。


「すまない、初めて海を見て、つい舞い上がってしまったんだ」

「お嬢様、そう言えば、付添い人はお付けにならなくてもよろしいんですか?」

「今更手遅れじゃないのか?もうブライトン子爵と2人で外出してしまったぞ」

「そうですけど…シェルバーンから離れているとはいっても、ここは貴族も訪れる保養地です。誰の目に留まるか分かりませんよ」


サラは少し心配症なのかもしれない。

「分かった、考えておくよ」

それっきり、その事は忘れてしまった。


サラは、本気でお嬢様の事を心配していたのだ。


シェルバーン伯爵令嬢は、婚約破棄されて以来、一種の開き直り状態になったらしく、昔では考えられない無茶をするようになった。

今回の、ブライトンの長期滞在も、その一つである。

(…伯爵様も、奥様も、お嬢様を止めて下さればいいのに…)

あの2人は、むしろ娘をそそのかしている感じすら覚える。


あの事件で、エリザベスの社交界の立場が、失墜した事は分かる。

まともな男性なら、彼女との結婚は、最早考えないもしないだろう。

しかし、それだからと言って、何をやってもいい、という訳ではないだろうに。


(…お嬢様は、真面目な方だから、今まで我慢していた反動が来たのかしら…?)

思えばお嬢様が、タウンゼント伯爵と婚約していた時は、毎日がお通夜のようであった。

エリザベスが、ストレスで食欲がなくなり、みるみる痩せていく姿を見て、サラの胸は痛んだものだった。


しかし、婚約が破棄された後のエリザベスは、今、まさに生まれ変わったかのように生き生きとしている。

従兄のブライトン子爵が、エリザベスにいい影響を与えているのは、間違いのない事であった。


お嬢様は、ここに来て本当に良かった。

サラは、その点は、子爵に深く感謝している。

ただ問題は、あの2人が、ただの友人同士である事だった。

(子爵も独身の若い男性だし、お嬢様は美人だし。ひょっとしたら、子爵はお嬢様に気があるのかと思ったんだけど…)

今のところ、2人にその気は全くなさそうである。

(まあ、ここに来て、まだ3日だし。慌てる事もないわよね…)


エリザベスは、侍女にそんな心配をされているとは露ほども知らない。

「ああ、髪にまで砂が入ってしまった。サラ、お湯の支度をしてくれ」

この男性のような口の利き方が、お嬢様が、美人なのに色気のない理由かもしれない。

サラは、ため息を漏らしつつも「はい、ただいま」と返事をした。





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