第8話 閑話休題:マスターの話
「うーん。最終通告ですが……次に攻撃されたら、お客様ではなく『敵』と扱います。今なら昼間からの酔いのせいにできますよ」
「だから俺は飲んでねぇっての」
冷静そうに見えたが、残念だ。
「魔が差すニンゲンは、『魔』に鎖(さ)されるんですよね」
魔道士が唸った。
「おらぁ! 死ねェッ! 灼熱の炎(インフェルノ・エグゼ)!」
ボウっとマスターごと、カウンターが燃える。
「あ! こら! あーあーあー……もう! 全く! 木製のカウンターにそのような炎魔法を近づけるなんて、どのような心づもりなのでしょう」
焦げていないか心配そうに言うと、マスターは炎を手で払い除けた。
「は? 何だと? 効いていない!?」
マスターは攻撃魔法を発動した赤魔導士に向かって、人差し指を向けた。
「残忍な悪魔の嚥下(ブルータル・ディーモン・スワロー)」
これははっきりと詠唱するのがコツだ。
間違えると、ものすごく気性の荒いツバメが無数に出てきてしまう。
マスターの右手の人差し指の先から、おぞましい形をした黒い塊が出て来る。
「なっ! なんだこれは!?」
「サタンのサッちゃんです。久しぶりに私に会えたので喜んでいますね。他の者たちも元気にやっているでしょうか。さァ、どうぞよろしくお願い致します」
マスターの指の先端から、まるで油が滴るように、黒くて濃密な霧が現れ始めた。
初めは微かだが、あっという間に黒い霧が形を変え、絡み合いながら蠢動し始める。
一つの大きな生き物のようだ。
角が頭部に生え、尖った耳と裂けた口。
目は赤く、宝石のようにキラキラと輝いている。
「な、な、な、なっ」
「大きなお口がキュートですよね。魔界の森でスカウトしたかいがありました」
悪魔は指の先から完全に分離すると、空中でふわりと一回転した。
そして――。
「うわ!? あっ、ああああぁぁぁあっ! ああ、あ、あっ」
赤魔導士を頭の先からがぶりと食べてしまう。
「わぁ、サッちゃん、おなかすいていたんですかね。以前よりも、嚥下が速い気がします。それとも、気合い入れていいとこを見せてくれたのでしょうか。可愛い子ですね。おお、後にはチリ一つ残りませんか。さすがのサッちゃんです」
満足したように悪魔はマスターの爪をひと舐めすると、しゅるんと指先に潜り込んだ。
「それにしても驚きました。木製のカウンターの上で炎なんて! マナーの悪い冒険者は出禁ですね⋯…ああっ!」
マスターは一枚板のカウンターを確認して、小さく叫び声をあげた。
端の方が黒焦げになっている。
このカウンターは百万年に一本しか生えない、ヤクスギの樹で作った貴重な物なのに。
最近の若者は、火で木が燃えると習わないのだろうか?
言語道断だ。
マスターは深呼吸をして心を落ち着かせながら、ワイングラスを磨く。
夜からはカフェメニューを下げ、完全にバーになる。
グラスを十も磨いた頃か。
「ん……あれ? 赤魔導士さんは……?」
カウンターで寝ていた剣士が、むくっと起き上がった。
「別の場所に行かれたようですよ」
と、マスターは伝えた。
嘘は言っていない。
「えぇぇっ!? 俺の財布も、貴重品も、アイテムも、全部預けてたのに……!? 帰ってくるって言ってました!?」
「いいえ。もう帰ってこなさそうでしたよ」
と、マスターは事実を伝えた。
「うわぁ……どうしよ。すみません! 俺、無一文なんです! っていうか、荷物、全部なくなっちゃった」
「ふむ」
「う、残っているのはこの冒険者 バッチだけです」
「無銭飲食ですかあ。どうしましょう。これは初めてのケースですね」
「本当にごめんなさい!」
マスターは首をひねって考えた。
困った。
今度は中指のナッちゃんの出番だろうか。
悪には鉄槌をというのが、マスターの密かなポリシーなのだ。
「こっ、ここで! 働かせてください!」
おや。
「おやおやおや。働きたいと言われたのは初めてですねぇ」
「あっ、そうなんですか!? すみません、俺は剣もからっきしなんで、掃除くらいしかできないと思うんですけど」
「掃除?」
「ああ。はい、俺は五人兄弟だったもんで、人並みの簡単なことしかできないんですが」
「ほうほう」
「あっ。あと、料理はわりとできると思います。母ちゃんいなかったから、兄ちゃんと家のこと全部やってましたから……まあ、それも、たいしたものとかできなくて、庶民の家庭料理って感じですけど……」
「採・用!」
素晴らしい。
料理ができる人材が来てくれた。
マスターはにんまりと笑った。
「私は酒と飲料は作れても、料理はからっきしなんですよ」
「ええっ、そうなんですか! 意外です。マスターは何でもできそうな感じでしたから」
なかなか見どころのある青年だ。
「俺、ルーカスっていいます!」
「よろしくお願いしますね」
マスターは、新人従業員のルーカスに、ダイダイの実を絞った冷たい水を出してやった。
「うまい! 染み入りますッ。いい匂いしますね」
「ええ。リルの実がちょうど半分残っていたので」
「ありがとうございます~」
幸せそうなルーカスは、大柄な犬さながらの忠実さがありそうだ。
忠実な下僕は良い。
(さて、住み込みなのは当然として)
何年ほどかけて返済してもらおうか。
マスターは焦げた天板をそっと撫でた。
そして、ルーカスにヤクスギの樹の一枚板の値段を伝えるべく、ゆっくりと口を開いたのだった。
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