真紅のマニキュア

志乃原七海

第1話『深紅のオンエア 1985』



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# 小説『深紅のオンエア 1985』


## 第1話 深紅の爪痕


### 1.六本木の路地裏


1985年(昭和60年)、10月。

小雨が煙る東京・六本木。バブル景気の足音が近づく街は、深夜になってもネオンの熱に浮かれていた。

肩パッドの入った派手なスーツ、ワンレン・ボディコンの女たち、路上でタクシー券を振り回すサラリーマン。


その喧騒から一本入った、湿った路地裏。

大手商社のOL、美奈子(22)は、ヒールの音を響かせて歩いていた。

「もう、タクシー全然捕まらないんだから」

彼女は苛立ちながら、ふと自分の指先を見た。流行りの真っ赤なマニキュア。昨日、ネイルサロンで仕上げたばかりの自慢の爪だ。


背後で、水たまりを踏む音がした。

「え?」

振り返ろうとした瞬間だった。


**ガォン!!**


鈍く、重い衝撃が後頭部を襲った。

痛みを感じる暇もなく、美奈子の視界が暗転し、濡れたアスファルトに叩きつけられる。

「あ……ぐ……」

意識は飛ばなかった。いや、犯人が手加減したのだ。

薄れゆく意識の中で、作業着姿の男が彼女の腕を掴み、仰向けにするのがわかった。


「綺麗な赤だねぇ……」

男は、うっとりとした声で囁いた。その手には、建設用の鉄ハンマーと、先端の尖ったマイナスドライバーが握られていた。


「や、やめ……」

「嘘の色だ。剥がしてあげるよ」


男は、美奈子の左手をアスファルトに押し付けると、震える人差し指の爪の間に、冷たいドライバーの先をねじ込んだ。

「ヒッ!?」

「動かないで。生爪ごといくから」


**バリッ。ベリベリッ……。**


「ぎゃああああああああああッ!!」


路地裏に、若い女性の絶叫が響き渡る。

男は、指先から溢れ出る鮮血と、剥がされたマニキュア付きの爪を、まるで宝石のようにポケットにしまった。

「あと9本……泣いていいよ。その声、録音してるから」


昭和の終わりの闇夜に、恐怖の連続通り魔「リッパー(剥ぎ取り魔)」が産声を上げた瞬間だった。


### 2.鉄の女


東京朝日放送(TAB)、報道局ニュースセンター。

タバコの紫煙が充満し、黒電話のベルと怒号が飛び交う、男たちの戦場。


「警察発表まだかよ! 夕刊に間に合わねえぞ!」

「目撃情報はゼロだ! 幽霊かよ!」


そのフロアの奥、ひときわ整然としたデスクに、ニュースキャスターの**壬生(みぶ)さゆり(28)**は座っていた。

夜の看板番組『ニュース・プライム』の放送開始まで、あと1時間。

彼女は原稿に朱入れをしながら、ため息をついた。


「また、被害者が……」

原稿には、昨夜の六本木の事件の詳細が記されていた。これで被害者は4人目。

警察の捜査は完全に後手に回っている。防犯カメラもDNA鑑定も一般的ではないこの時代、流しの犯行を特定するのは困難を極めた。


「さゆりちゃん、今日のトップもやっぱり『リッパー』で行くのか?」

報道局長の権藤が、煙草をくわえながら近づいてきた。

さゆりは顔を上げ、冷ややかな視線を返す。

「当然です。女性ばかりを狙い、爪を剥ぐ。これは単なる傷害事件じゃない。女性の尊厳に対するテロリズムです」


「テロねぇ……。お前さん、相変わらず硬いな。視聴者はもっとこう、扇情的な絵を求めてるんだが」

「私は見世物屋じゃありません」


さゆりは言い放つと、自分の手元に視線を落とした。

彼女の指先には、マニキュアはおろか、透明なトップコートさえ塗られていない。爪は深爪に近いほど短く切り揃えられている。

華やかな女子アナブームの中にあって、彼女のその「飾り気のない手」は、異質であり、彼女の孤高の象徴でもあった。


### 2.5 歪んだ喝采


その頃、都心から少し離れた安アパートの一室。

四畳半の部屋には、脱ぎ散らかされた作業着とカップ麺の容器が散乱していた。

部屋の主、**自称リッパーこと、高橋佑樹(24)**は、床に置かれた古い小さなブラウン管テレビを、まるで我が子のように抱え込むようにしながら叫んだ。


「くそ! 何やってやがる!」


画面には、当たり障りのない経済ニュースが流れている。

自分の起こした事件。世間を震撼させるはずの「リッパー」の凶行が、まるで存在しないかのように扱われている。


「早く報道しろよ! 俺がやったんだぞ!」


ガリガリと汚れた爪を噛み、舌打ちを一つ。

承認されない焦燥感が、どす黒い怒りとなって腹の底から湧き上がってくる。

このままでは、ただの通り魔で終わってしまう。俺は、そんなちっぽけな存在じゃない。


「こうなったら朝日放送へ電話してやる」


高橋は立ち上がると、部屋の隅に置かれた黒電話に手を伸ばした。

受話器を掴み、震える指でダイヤルを回す。狙いは、あの女のいる局だ。


何度かかけるが、事務的な声に「犯人だ」と告げても、いたずらだと無視され一方的に切られるだけだった。


「クソ! バカにしやがる!」


高橋は受話器を叩きつけた。

無視される。見下される。ガキのいたずらだと思われている。

全身の血が沸騰するような屈辱。


彼は、押入れの奥から埃をかぶった箱を取り出した。中には、秋葉原で買ったボイスチェンジャー。

これを使えば、誰も俺を無視できない。

そして、要求する相手は一人しかいない。

テレビの中で、いつも涼しい顔で、嘘のない目でこちらを見つめている、あの女。


「壬生さゆり……お前なら、わかるだろ……」


ニヤリと歪んだ笑みを浮かべ、高橋は再びダイヤルに指をかけた。

今度は、誰も電話を切れない。


### 3.悪魔からの着信


午後8時。

生放送の準備でフロアが最も殺気立つ時間帯。

代表電話を受けていた若いADの顔色が、一瞬で蒼白になった。


「デ、デスク!! 3番です! 回線3番!」

「なんだうるせえな! いたずら電話なら切れ!」

「違います! 声が……変声機を使ってます! 『リッパー』だと名乗ってます!」


フロアの空気が凍りついた。

タイプライターを打つ音が止まり、全員の視線が点滅するランプに集中する。


権藤局長が受話器を奪おうとするが、ADは震えながら叫んだ。

「だ、ダメです! 犯人はこう言ってます!」


**『警察にも、男にも用はない』**

**『壬生さゆりを出せ。彼女以外なら、電話を切って、今夜また一人“剥ぐ”』**


「……私?」

さゆりが立ち上がる。

「バカな、危険すぎる! 逆探知班を呼べ!」と叫ぶ権藤。

しかし、さゆりは迷わなかった。ハイヒールの音を響かせ、ADの元へと歩み寄る。

「代わります」


彼女は受話器を受け取ると、深呼吸を一つして、耳に当てた。

いつものテレビ用の声ではない。低く、腹の座った地声で告げる。


「……お待たせ。壬生さゆりよ」


### 4.取引


受話器の向こうから、ザラついたノイズ混じりの笑い声が聞こえた。

『やっと……やっと繋がったね、さゆりさん』

機械で加工された不気味な声。しかし、その口調はひどく落ち着いていて、まるで旧友に話しかけるようだった。


「単刀直入に聞くわ。あなたの望みは何?」

さゆりは手元のメモ帳にペンを走らせる。《若い男?》《落ち着いている》


『警察は無能だね。僕を見つけられない』

「自慢話なら切るわよ」

『待ってよ。……疲れたんだ』


犯人の声色が、ふっと変わった。

『逃げるのにも、隠れるのにも、疲れた。……終わらせたいんだ』


さゆりのペンの手が止まる。

「どういう意味?」


**『自首してやるよ』**


フロアのスタッフたちが、さゆりのメモを見てどよめく。

犯人は続けた。

『ただし、条件がある。普通の自首じゃつまらない。

明日の夜の『ニュース・プライム』。生放送のスタジオに僕を呼んでくれ』


「テレビに出たいというの? ふざけないで」

『ふざけてないさ。僕はただ、話をしたいだけだ。

……聞き手は、あんたじゃなきゃダメだ』


「なぜ私なの?」


一瞬の沈黙の後、犯人は奇妙なことを言った。

『あんただけが……嘘をついていないからだ』


ツーツーツー……。

犯人は一方的に電話を切った。

逆探知は失敗。通話時間はわずか40秒。


「……さゆり、あいつは何て言った?」

権藤の問いに、さゆりは受話器をゆっくりと置いた。

彼女の手のひらには、じっとりと冷や汗が滲んでいた。


「自首するそうです。……明日の生放送中に」


1985年の東京。

メディアと警察、そして一人の狂気を巻き込んだ、前代未聞の「劇場型犯罪」の幕が上がろうとしていた。


(第2話へ続く)

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