ヤマジョ漢乙女政戦
雅ルミ
第1話 男性差別の通学電車
電車の窓から見える河川の水面には、桜色の絨毯が敷かれていた。
つり革を掴む右腕の肩まわりが窮屈だ。仕立てられたばかりのブレザージャケットは当選一回目の議員のような初々しさと硬さがある。これが柔らかく、着心地よくなる頃には、僕はどんな高校生になっているだろうか。
ふと、優先席に座る男性が目に入った。スーツも本人もくたびれている、四十代後半から五十代に見える中年男性。脇には松葉杖、膝の上には何十年と苦楽を共にしてきたであろうくたくたになった革のビジネスバッグ。そして手元には文庫本、食い入るように読んでいる。
『男でも会社で成り上がる10の方法』
彼が読んでいる文庫本のタイトルだ。なんかネットニュースで話題になってるのを見たことある気がする。今のご時世、社会で男が成り上がるなんて難しいことだ。だからこそ、ああいう本が売れるんだろうな。……がんばれ、おじさん。
「おい、オッサン!」
ちょうど僕が眺めていたスーツのおじさんの近くに居た女性──見た目年齢はそう若くない──が、おじさんに敵意むき出しの怒声を投げかけた。
「はっ、はい! 何か……?」
おじさんの声は怯えていた。
「今、触りましたよね? 痴漢ですよね?」
痴漢、というワードが電車の車内に響き渡ると、途端に乗客たちがざわつき始めた。
「まさか! 触ってないですよ!」
おじさんは慌てて否定するも、車内の空気はとっくに女性に味方していて、道端のホームレスを横目で見るような冷たい視線がいくつもそちらへ向けられている。なんだか、胸が苦しい。
「これだから男は……」
騒ぎ立てている女性の言葉ではない、車内のどこかから聞こえた呟きだ。
「確かに触られたのよ! そもそも! 男が優先席座るとかどういうご身分? こっちはね、残業続きで疲れてんの!」
「私も昨日は残業で、あまり眠れておらず……」
「どうせお茶汲みでしょ? 男は黙って女性に席を譲れ!」
どういうこと? 痴漢の話はどこに行ったの?
確かに社会の中心は女性だけど、それと席に座るかどうかは別問題でしょ。
「私は脚を怪我していまして……」
「言い訳するな!」
理不尽に激昂している女性が、ついに手を出した。
「うわぁ!」と声をあげて床へ引きずりおろされるおじさん。空いた席にはキャンキャン喚いていたクソババアが満足げな表情でドスンと座った。
……気分が悪い。
あんな理不尽許せない。
「おい」
と、僕が立っている場所の真正面の席から、年若い青年の低く鋭い声が聞こえた。
「口を挟むつもりか?」
そいつは、僕が着ているものと同じブレザージャケットを着た、イケメンだけど目つきの悪い、如何にも理知的な印象のメガネ男子だった。イケメンに喋りかけられるなんて嫌な朝だ、劣等感を覚えてしまうから。
「やめとき、割を食うんはこっちやで」
隣の席からも関西弁の合いの手が。そいつも僕らと同じブレザーを……短ランみたく改造して着用している。髪はツンツンに逆立ち、まるで野生の獣のような荒々しさを感じさせる。不良も喋りかけないでほしい、怖いから。
「でも、あんなの理不尽だよ」
「男が出て行っても却って立場が悪くなる。次の駅で駅員を呼べば良い」
「その校章、ヤマジョやろ。政治家の卵が面倒ごとに首突っ込んでどないすんねん」
ツンツン男が僕の左の胸元をコツンと突く。
「何よそのきったないおにぎり! 朝から気分悪いわ!」
「これは、娘が作ってくれたおにぎりで……」
優先席でのヘイトスピーチは続いていた。席から引きずり降ろされ転んだおじさんのバッグから、アルミホイル包みのおにぎりが転がり落ちている。
そして。
「既婚子持ち…………男のくせに!」
────クソババアが、おにぎりを踏み潰した。
「ちょっとあなた!」
思わず叫んでしまった。
我慢の限界だった。
女だから偉いのか?
男は怪我をしていても優先席に座ることすら許されない?
それに人の食べ物を踏み潰す?
そんなの、男だの女だの以前に人としての倫理に問題があるだろ。
「よせバカ!」
メガネの焦った声が背後から聞こえたけど、今はそれどころじゃない。
「一部始終を見てましたけど、あなた何様のつもりなんですか!?」
「何よあんた」
「おじさんは痴漢なんてしてません、ずっと本を読んでました! それに優先席はあなたのような朝から元気いっぱいのクソ野郎ではなく、おじさんのような怪我をしている人のための席だ!」
「き、きみ……」
「このおにぎり、いただいても良いですか?」
「はい?」
おじさんが素っ頓狂な声を漏らした。
「実は僕、寝坊しちゃって朝ごはん食べられてなくて」
「いやでも踏まれて……」
とは言うけど、アルミホイルで包装されていたおかげで中身は汚れていない。むしろ平べったくなったおかげで衆目に大口開く恥ずかしい姿を晒さずに済むじゃないか。
おじさんが許可を出すよりも早く、僕は包装をほどきおにぎりを一口かじった。絶妙な塩味が口の中に広がる。もう一口、今度はより大きな体積をかじりとった。すると中からピンクのたらこが顔を覗かせた。ただの塩むすびでも空腹の僕にはご馳走なのに、たらこまで出てきたらこれが最後の晩餐でも悔いが残らない、そんな幸福感が口の中を埋め尽くした。嫌なものを見たけれど、少しだけ良い朝になった気がする。
「あ、ああっ、アンタ変よ! 気持ち悪いわ!」
クソババアは僕を見て、何故だか席を立ちどこかへ消えた。ふむ、これは好都合。
「どうぞ、掴まってください。席も空きましたよ」
「あぁ、ありがとう」
「娘さんのおにぎり、美味しかったです! ……あっ、ごめんなさい! おじさんのお昼ごはんが無くなっちゃった!」
なんてことだ! 寝坊した僕が悪いのに、人のごはんを奪っちゃった!
ど、どうしよう……お昼は購買か食堂で済ませるつもりで、食べ物なんて持ってきてないのに!
「大丈夫ですよ。もうひとつ持ってきていますから」
「なんだ、よかったぁ……」
「すまないね、迷惑をかけた」
「迷惑なんてそんな! おかげで朝ごはんにありつけましたし!」
気を遣っての言葉じゃない、心からそう思った。
「……床に落ちて踏み潰されたものは、食べない方が良いね」
「すみません、お腹が空いていたものでつい……」
「君、高校生?」
「はい! と言っても、今日が入学式なんですけど」
「その校章……あの?」
おじさんもまた、僕のブレザーの胸元に縫いつけられた校章をまじまじと見つめる。
「大和女子高等学校です!」
「……男の子、だよね?」
「はい! そのつもりです!」
「そ、そうか。いや、すまない。そういう……ジェンダー文化には慣れていなくてね」
「ちゃんと男ですよ?」
「そうだね、君の魂はまさしく日本男児そのものだ!」
「いえそういう「心は男」とかではなくてですね!?」
「そうだ、名前を聞かせてくれるかな?」
「
「美鶴さんか、綺麗な……カッコいい名前だね」
「なんか配慮されてる!? 身も心も普通に男ですからね!?」
おじさんの生温かい穏やかな視線がこそばゆい。
恨むぞ父さん、どうしてもっと男らしい名前を付けてくれなかったんだ!
「美鶴嬢、降りるぞ」
「美鶴ちゃん、ついたで」
さっきのメガネとツンツンが、やけに馴れ馴れしく声をかけてきた。ああ、そっか。あの二人も僕と同じヤマジョの生徒ってことだもんね。降りる駅も同じってことか。
「ではおじさん、僕はこれで!」
サラリーマンのおじさんに会釈をし、急いで電車を降りた。
それにしてもあの男子生徒二人、完全に僕を女の子扱いしてたよな。
もしクラスメイトだったなら、蹴りの一発でも入れさせてもらおっと。
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