失恋した男友達と、ルームシェア始めました
森谷るい
1話 練習キスなんて、言うはずじゃなかった
──鍵がまわる音が、やけに大きく聞こえた。
「……おじゃまします」
靴を脱ぎながら言った私に、狭い玄関の奥から
「おじゃまされます」
と、小さな声が返ってくる。
「何その返事」
「いや、だってさ。遥がここにいるの、まだ現実味なくて」
ワンルームの部屋の真ん中で、悠真はあぐらをかいて座っていた。
引っ越し業者が運び入れたダンボールの山。
その隙間に埋もれるみたいに。
同じ大学、同じサークル。
高校からの付き合いだから、もう五年目になる。
その悠真と、今日からルームシェアする。
……と書くと、なんだか響きが甘いけど。
「家賃が、やばいんだよ。マジで」
と、数日前に居酒屋で、ジョッキ片手に聞かされたばかりだ。
「それを女友達に言う?」
「女っていうか……遥は遥だし」
「それ、褒めてる?」
「たぶん」
たぶん、ってなに。
そう思いながらも、私はその提案を受け入れた。
家賃半分で済むなら、こっちも助かる。大学からも近い。
なにより──
(悠真が、ひとりで潰れていくのを見てるのが、しんどかった)
「とりあえず、冷蔵庫に入れるものから片づけるね」
「うん。そこのコンビニ袋、適当に出して」
キッチンに立って、ペットボトルやら卵パックやらを仕分けしながら、視界の端に、彼の横顔がちらちら入ってくる。
少し伸びた前髪。目の下の、うっすらとしたクマ。
テーブルの上に伏せてあるスマホ。
あそこに、彼女からのメッセージがあるのを、私は知っている。
元カノ。
つい一ヶ月前まで付き合っていた相手。
別れ話を持ち出したのは、向こうからだと聞いた。
「新しいバイト先で、好きな人ができたって。正直で偉いよな」
そう笑っていたけれど、あの夜、帰り道でポケットの中で震えていた彼の手の感触を、私は忘れられない。
「遥、ゴミ袋どこ入れたっけ」
「ん、シンク下の引き出し」
必要なことだけ口に交わしながら、私たちは、いつもの「友達モード」のまま、黙々と作業を進めていく。
ダンボールが少し減って、座れるスペースができたころ。
テーブルの上のスマホが、小さく震えた。
「……」
悠真の肩が、ぴくり、と動く。
手を伸ばしかけて、途中で止まる。
そして、見なかったことにするみたいに、くしゃっと髪をかいた。
「見ないの?」
思わず口に出た。
「見てほしそう?」
「ううん、別に」
即答したくせに、胸の奥がちくりと痛む。
悠真は、少し黙ってから、ぽつりとつぶやいた。
「前の彼女。引っ越し先、決まったって」
「……そうなんだ」
心臓の鼓動が、さっきよりうるさくなる。
「同じ市内らしいんだけどさ。『ちゃんと話せてない気がするから、一回会えないかな』って」
「ふうん」
冷蔵庫の中に、既に入っているドレッシングの場所を、無意味に整理し直す。
『ちゃんと話す』って、何を。
「どうすんの、それ」
「どう、って?」
「会いに行くの? 行かないの?」
「……わかんない」
返ってきた声は、情けないくらい素直だった。
「まだ、好きなの?」
「嫌いになったわけじゃない、かな」
嫌いになってない。
それは、遥じゃない誰かに向けられた気持ち。
当たり前のことなのに、喉がきゅっと詰まる。
振り返ると、悠真はスマホを裏返したまま、天井を見上げていた。
「会ったらさ、多分、また引きずるのわかってるんだよ。でも、ちゃんと終わらせるために会うべきなのかなって思ったりもするし」
「ちゃんと終わらせる、ねえ」
その言葉を、私はゆっくり噛みしめる。
ちゃんと終わらせる。
それって、たとえば──
「じゃあさ」
私はテーブルの向かい側にどさっと座り込んだ。
ダンボールの山に囲まれた狭いスペース。
膝と膝が、少しぶつかる。
「忘れる練習、してみる?」
「……は?」
悠真が、やっとこちらを見る。
「だから。元カノのこと、頭から追い出す練習。いきなり本番で『じゃあ、さよなら』ってやるのは難しいからさ」
「いや、何の話?」
「キスの話」
あえて、さらっと言ってみせる。
「……は?」
さっきより一段高い声が出た。
「ほら、元カノとキスしたときのこととか、思い出しちゃうんでしょ。だったら、その記憶を上書きしちゃえばいいじゃん。友達の私で」
「いや、待て待て待て。今、かなり訳わからんこと言ってるってわかってる?」
「訳わからんくないし。合理的じゃない?」
合理的、と自分で言いながら、心臓はばくばくしている。
(なに言ってんの、私)
でも、もう引き返せないところまで口が滑ってしまった。
「だってさ、悠真。ここ、ワンルームだよ? 逃げ場ないじゃん。元カノのこと引きずったまま同居される方が、よっぽど私がしんどい」
「遥がしんどいの?」
「当たり前でしょ。同じ空間に“未練”住まわせないでほしいんだけど」
そこだけは、本音。
悠真は、きょとんとした顔のまま、しばらく固まっていたけれど、やがて苦笑した。
「……そういうとこ、容赦ないよな、遥」
「誉め言葉として受け取っとく」
「でも、友達とキスの練習って。お前それ、どうなんの」
「どうもしないよ。練習は練習。本命にする前の、ウォーミングアップ」
平然を装って言い切ると、自分の声が、ほんの少しだけ震えているのがわかった。
「……本気で言ってる?」
「やめる?」
「……」
悠真は、またスマホに視線を落とした。
テーブルの上で、それをゆっくりこちら側に押しやる。
「……見ないから」
「え?」
「今、あいつのメッセージ。見ないから。その代わり、後で『やっぱり行く』とか言っても、文句言うなよ」
「言わないよ」
即答したら、悠真はふっと笑った。
「じゃあ──」
彼は、ほんの少しだけ身体を前に倒す。
私との間にあった距離が、ひと呼吸ぶんだけ狭くなって。
柔軟剤の匂いと、微かなコーヒーの香りが混じって届いた。
「練習、する?」
喉が、ごくり、と鳴る。
(やめるなら今だよ)
頭の中で何度も警報が鳴っているのに、私は、テーブルの端をぎゅっと握るだけで、首を横には振れなかった。
「……い、今さら、やめるって言ったら殴るから」
「暴力反対」
小さく笑い合って、ほんの一瞬だけ、いつもの空気に戻る。
けれど、次の瞬間。
悠真の指先が、遠慮がちに私の頬にふれた。
「目、閉じろよ」
「なんで」
「練習でも、こういうのはちゃんとしないと」
からかうみたいな口調なのに、その指先は、驚くほどやさしくて。
私はゆっくりと睫毛を伏せた。
暗くなった視界の向こうで、空気がわずかに動く。
唇と唇が、そっと重なった。
一瞬だけ触れて、離れる。
それだけのはずだったのに。
「……軽すぎ」
思わずこぼれた言葉に、悠真がくすっと笑う。
「じゃあ、もう一回」
二度目のキスは、さっきより深く、長かった。
柔らかく押しつけられた唇。
動かないでいると、ほんの少しだけ角度を変えられて──閉じた口の隙間から、かすかな息が混じる。
胸の奥が熱くなって、テーブルを掴んでいた指先に力が入る。
(練習、だよね。これ、練習……)
そう言い聞かせても、心臓は、どう考えても本番みたいな音を立てていた。
ようやく唇が離れたとき、狭い部屋の中には、彼と私の浅い呼吸だけが残っていた。
「……なにその顔」
悠真が、少し照れたように笑う。
「そっちこそ」
「俺のがまともだろ」
「どの口が言うの」
ふざけ合う声は、いつもと同じなのに。
さっきまでとは、まるで違う何かが、ここにある。
テーブルの上のスマホは、静かなままだ。
その代わり、私の胸のど真ん中で、大きな音が鳴り続けている。
──失恋中に始まったルームシェアは、たぶん今、別の何かに、ゆっくりと姿を変えようとしている。
──
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