FIREを諦めた38歳女子、全財産で16歳の体を買う。憧れの先輩ともう一度、恋をするために。
縣邦春
第1話 居酒屋の告白と、彼との再会
それは、私がまだ大学四年生だったころの話だ。
冬学期の終わり、学内がどこか浮き足立つ季節。授業も発表もひと通り片づいて、皆が少しだけ自由になれる時期だった。
恒例行事として、二十歳を迎えた後輩たちを上級生が“飲み会デビュー”へ連れ出す夜。駅前の路地に灯る居酒屋の看板は賑やかに色づき、まるで大人社会に一歩踏み出す新入りを歓迎しているかのようだ。
居酒屋の二階は板張りの座敷で、奥に古いすだれが下がり、天井近くでは油で黄色くなった小さな換気扇がくるくると回っていた。十人ほどで囲んだ卓には枝豆や唐揚げといった定番の品がいくつも並び、湯気と揚げ油の匂いが混ざり合っている。
外の寒さとは裏腹に、部屋はもったりと暖かく、誰かが出入りで襖を開けるたびに鋭い冷気が差し込み、火照った肌を撫でていく。
私の右隣に座っていたのは、氷室智弘(ひむろともひろ)――私の二つ年上の修士一年。
柔らかく整えられた黒髪が耳元で軽く揺れ、細いフレーム眼鏡が、彼の静かな目元をくっきりと際立たせていた。
派手な特徴があるわけではないのに、不思議と視線を引かれる人だ。長い指先でジョッキを持つ仕草さえ、どこか品があった。
教授からも、同級生からも信頼されていて、その場にいるだけで空気の温度がほんの少し整うような存在。
そんな彼に、私はずっと憧れていた。
左隣には、後輩の真田日和(さなだひより)。
金色がかかった茶髪をふわりと巻き、目尻の跳ねた笑顔が印象的な子だ。
初めて飲む梅酒ソーダに「おいしすぎる!」を連呼しながら、緊張と喜びで頬を桃色に染めていた。
「結衣(ゆい)先輩って」
日和は唐揚げをつまむ手を止め、小声のつもりでぜんぜん小声じゃない声を出した。
「ほんとうは氷室先輩が好きなんですよね〜?」
「声、声……大きいってば」
私は慌てて、日和の口元を押さえた。
しかし日和は、いたずらを仕掛ける子どものように、さらにニヤニヤと笑い、顔を近づけてくる。
「ふふ。あたしね、氷室先輩のゼミ、入りたいんですよ〜。絶対モテるじゃないですか、あの優しさで、あの顔。結衣先輩、のんびりしてると誰かに取られますよ?」
軽口で言っているのは分かっていたけれど、内心は割と焦っていた。実際、その類の話は既に何度も聞いたことがある。
私は、憧れているくせに、何一つアピールできていない。
そんな自分が情けなかった。
そのとき、部屋の中央あたりで、三年生の男の先輩が急に声を張り出した。
「俺さ、就職したらマジでFIRE目指すって決めたんだよ!」
宣言めいた声が響き、周囲から「どうした急に」「また始まったぞ」と笑いが漏れた。
氷室先輩はジョッキを軽く上げ、からかうように言った。
「お前ができるなら、俺も目指すかな。それで、お前が悔しがるのを見たいし」
「いや氷室さん、それはずるいっすよ!」
そんなやり取りが飛び交い、店の喧騒と混ざり合って、場は一層明るくなった。
私はというと、氷室先輩の横顔をぼんやり眺めながら、さっき飲んだカシスソーダがじわじわと回ってくるのを感じていた。
胸の奥がふわっと熱を帯びて、ふと心の堤防にひびが入るような感覚があった。
――今なら、何か言えそうな気がする。いや、今しかない。
気づけば私は立ち上がり、ジョッキを握りしめていた。
「……わ、私も……FIRE、目指します!」
部屋が一瞬だけ静まる。
視線が一斉にこちらへ向き、日和は口を開けてポカンとしていた。
氷室先輩が、驚いたように眉を上げる。
「結衣?」
「で、ですから……氷室先輩が……本当にFIRE達成したら……」
酔いのせいか、口が勝手に動いてしまう。
止めようとするほど、言葉は滑って前に出る。
私は、覚悟を決めるように息を吸った。
「……そのときは、私を恋人にしてください!」
沈黙。
それから――
「えぇぇ!?」
「千葉先輩、それ本気? いやダメじゃないけど!」
「言い方が昔の感じだ!」
笑いが爆発した。隣の卓からも覗き込む人がいるほどの騒ぎになり、私の顔は一気に熱くなった。
日和はまだポカンとしている。氷室先輩はというと、わずかに頬を赤くしながら苦笑していた。
「……結衣。飲みすぎ。ほら、座って」
その穏やかな声に、私は椅子へ崩れるように腰を下ろした。
日和が肩を叩いてくる。
「結衣先輩〜、ほんと可愛いのに、アピール下手すぎなんですよ〜!」
……いや、いまのはアピール以前の問題だ。
ただの失言、いや、事件だ。
こうして、私の“酔った勢い告白”は、仲間たちの大笑いに包まれて夜の喧騒へ溶けていき、結局その場では冗談として処理されてしまった。
けれど、胸の奥にずっと残り続ける痛みだけは、後になっても何度でも思い返されることになる。
◆
――二〇三五年、都内の総合病院。
薄い掛け布団に包まれ、千葉結衣(ちばゆい)は静まり返った病室で横たわっていた。天井の灯りはやわらかく滲み、点滴の雫が細い管を伝って落ちるたび、小さな音が規則正しく空気を揺らす。その単調なリズムが、いまだ覚束ない意識の奥に沁み込んでいく。
喉にはまだ異物感が残っていた。つい先ほどまで人工呼吸器に繋がれていたせいだろうか。いまは、息を吸うたびに喉の内側がきしむように引っかかり、肺の奥に届くまでに一拍遅れてしまう。救急搬送されたのは数時間前のはずなのに、結衣には、はるか昔の出来事のようにも思えた。
胸の奥は重く張りつめ、浅い呼吸を繰り返す。それでも、倒れた直後に味わった“空気が入らない恐怖”を思えば、今は何とか吸えているだけで充分だとさえ思えてくる。
とはいえ、まだ満足に息をするのも一苦労で、吸い込んだ空気が途中で跳ね返されるような感覚がつきまとった。
思い返せば、一週間ほど前。
最初の異変は、風邪が長引いたと思ったあたりから始まっていた。何日も咳が取れず、胸の裏側に石の欠片でも貼り付いたような痛みが続いた。仕方なしに結衣は近所のクリニックへ足を運んだ。
医師は聴診器を当てるたび、眉をぐっと寄せて、沈んだ表情を浮かべていた。
診察室の乾いた空気の中で、その重たい沈黙だけが異様に際立った。
そして、告げられた。
――気道の内側が慢性的に炎症を起こし、腫れによって空気の通り道が細くなっています。気管支喘息(きかんしぜんそく)、それもかなり進行してます。
疲労の蓄積や、ストレス、またアレルギー反応といったことが引き金になり、突発的に、呼吸が詰まる発作が起きる。
発作が起こると気管支が急激に収縮し、胸の奥を締め上げ、空気の流れを閉ざす。
一日に何度も、呼吸が通らなくなるような苦しい発作が起こり得ます、と医師は淡々と言った。
気管支拡張薬を使えば、一時的な緩和は得られる。だが、その場しのぎの対応で、薬の効果は長続きしない。
「――緩和ケアは可能ですが……完治の見込みはありません」
その言葉は冷たく、事実を突き放すような響きがあった。
結衣は、手渡された紹介状を見つめながら、どこかで理解を拒んでいたのだと思う。
医師は最寄りの総合病院での精密検査を勧め、早めに受診するよう強く念を押した。
それでも結衣は、仕事も忙しいし、まだ平気だと自分に言い訳を重ね、紹介状を鞄にしまい込んだまま数日を過ごしてしまった。
そして今日の午前十時半。
週明けでざわめくオフィスの中で、結衣は書類をめくっていた。いつもと変わらない仕事場。担当の仕事の締め切りを気にしつつ、午後の会議に合わせて資料を揃えていく。
だれかが暑い暑いと呟き、エアコンの出力をあげた。
――そして、それは突然やってきた。
悪寒が走った直後、胸の中央が、ぐっと万力で押しつぶされたような痛みに襲われた。呼吸は薄く頼りなく、吸おうとしても肺が拒んだまま動かない。
ひゅ、と細く泡立つような音が喉から漏れた。背中を伝う嫌な汗。視界の端が蛍光灯の光に白く滲み、書類の文字が揺らめきながら二重に割れる。
立ち上がろうとした瞬間、足元がほどけるように崩れた。
誰かが「千葉さん!?」と叫ぶのが聞こえた。返事をするより早く、身体は床に吸い寄せられた。
ゴンっと鈍い音がした。床の冷たさが頬に触れ――そこを境に、世界は水の底のような静けさに沈んでいった。
救急車の中のことは断片的に覚えているが、ハッキリとしない。後輩の日和が横にいたこと。救急隊員の人が何か問いかけていたこと。返事をしようとしても声が出なかったことくらい。
そうして、目を覚ました時には、いまの病室にいた。
皮肉にも、先日、紹介状を書かれた病院へ運び込まれた形になったわけだ。
救急車で運び込まれたものの、一時的に呼吸補助の機械を使った以外には大きな処置はなく、入院自体も一泊二日の簡単なものだった。あえて言うなら転倒時にぶつけた額の大きなガーゼがひときわ目立つ外傷だ。
緊急の処置を終えて一般の病室に運び込まれた結衣の呼吸はまだ浅く頼りなかったが、気管支拡張薬の処方を受けた後は人工呼吸器も外されている。脱水症状が少しあったので、念のため点滴を投与されているが、中身は栄養剤だと聞いた。
ただ、次に発作がいつ起こるのか分からない、という事実がじわりじわりと胸に居座る。十分後か、一時間後か、あるいは次は眠っている最中に襲われるのかもしれない。その曖昧さが心の奥を常に締めつける。
点滴の雫が落ちるのを見つめながら、しばらく考える。
この病気と付き合いながら、いまの仕事は続けられるのか。もし辞めたら生活はどうなるのか。
在宅でできる職を探したほうがいいのだろうか。
先のことを考えるほど胸の奥が古い金属の軸のように擦り切れ、痛みをたてて軋んだ。
少しして、先ほど吸入した薬が効きはじめたのだろう。胸の奥に張りついていた固い膜がゆっくりと緩むように、呼吸がいくらか楽になった。
結衣は思わず咳を吐き出し、最後にゴホンとひとつ深く咳き込む。胸を刺す痛みと引き換えに、ほんのわずかな呼吸の通り道が戻ってきた。
サイドテーブルに置かれた病院のロゴの入ったマグカップを手に取り、冷めきったお茶を口に含む。温度には物足りなさがあったが、喉を通る液体の確かな感触は、息が吸える現実につながるようでほっとする。
テーブルの端には、今回の入院に必要になった書類や薬剤の説明、あとおそらく費用の内訳などの紙が置いてある。
できることなら後回しにしたいが、入院関係の書類もあるのでそうも言ってられない。仕方なしに手元に引き寄せてベッド上の介助用テーブルに広げて書いていく。
「住所、電話番号、名前、年齢……と、あれ、三十八だっけ」
若い頃は信じられない話だったが、三十代後半を過ぎたあたりから本当に自分の年齢が分からなくなってきた。老化というより、年齢という数字に無関心になる感覚だと思う。携帯電話で生まれ年を入れて自分の年齢を確認して書類をガリガリと埋めていく。
あとで聞いた話だが、自分と共に救急車に同乗して病院まで来てくれたのは、後輩の日和だった。
日和とは長い付き合いだ。同じ大学、同じ研究室。ついでに仕事場まで同じ。理由は至極単純で、私が就職した会社が求人を出していたからという理由で同じ会社を受けてそのまま就職したからである。
私のことを理想の先輩だと言ってくれる彼女だが、実際に支えられているのは、私の方で、飲み会も欠席しがち、会社のイベントもスルーしがちな私が職場の中で孤立せずに過ごせてるのは彼女に助けられてる部分が大きい。
その事実に、申し訳ない気持ちもあって胸がじくりと痛む。
点滴の雫が、ぽとり、と受け皿に落ちた。
書類を書き終わって部屋に来た看護師に手渡した。
大したことはしていないが、小さな達成感がある。
――助かったのだ。
日和の呼びかける大きな声も、救急隊員の慌ただしさも、すべてがなければ、今ここにはいなかった。
少しして、携帯電話で日和に連絡を取った。
会社の個人ロッカーに入れたバッグから財布とマンションのキーを回収してもらう。マンションの部屋から退院用の着替えや普段飲んでいる薬などを取って来てもらうようにお願いした。部屋のことは彼女も知っているし、何度も出入りした仲なのであまり心配はしていない。
夕方になり、仕事と回収を終えた日和が部屋にやってきた。明日用の着替えやタオル、洗顔道具に生理用品。あとは玄関に放置してた郵便とハガキの束。
さすがは二児の母、こんな時の対応力が私より全然上である。
もちろん、彼女には彼女の家庭があるので、頼ってばかりいるわけにはいかない。荷物だけ受け取ると、あとは大丈夫だからと話をして、出来るだけ気丈なふりで対応する。
帰り際に日和が言う。
「調子崩してる時は、変な相談とか勧誘に乗りやすいから、気を付けてくださいね。うちのお母ちゃんも、前に病院で変な勉強会に誘われて」
まずい、これは長くなるやつだ。立ち話で一時間は流石に体力も持たないので、大丈夫とだけ言ってとりあえず見送る。
日和が帰ってしまうと、病室は急に広くなったように感じた。やることもなく、ベッドの上で所在なげに天井を見つめたあと、サイドテーブルに置かれたハガキの束へ手を伸ばした。
緊急時は請求書や振り込みをうっかり忘れる人が多い、という看護師の言葉を思い出し、一枚ずつ確認していく。
公共料金の明細。
一度だけ利用した中古品買取店の割引クーポン。
宅配ピザの広告。
病室でピザを頼む図を想像して、自分で苦笑した。さすがにそれは無理がある。広告はすぐにゴミ箱へ捨てた。
続いて、一通の封筒が目に留まる。証券会社のロゴ。
資産運用の定期報告だった。
それを見た瞬間、思わずため息がこぼれた。
――今回の私の病気の真因は、ここにあると言ってもいい。
封を切り、資産残高に目を通す。数字は、九桁に届こうとしていた。
誤解のないよう言っておくが、私は裕福な家の出ではない。父は地方企業のごく普通の会社員、母はパート勤め。大学の学費も、家計が苦しかったと後になって聞いた。
そんな家庭に育った私が、大学卒業以降にコツコツ積み上げてきた金額は、およそ九千万円。
一人暮らしの社会人が持つ金額としては破格かもしれない。しかし、私の目標からすれば、まだ遠い。
――そう、私は、FIRE(ファイア) 羨望者だった。
Financial Independence, Retire Early。
働かずとも暮らしていける資産を若いうちに積み、自由な時間を手にする生き方だ。
大学時代はまさにFIREブームの最盛期で、同期や先輩たちと飲み会のたびに「いくらあればリタイアできるか」なんて夢みたいな話をしていた。
おおよその目標金額は、一億五千万から二億円、あるいはそれ以上。
その金額を目指して節約し、投資し、どれだけ先の未来まで我慢できるかを競うように、私たちは日々を消費していた。
――そして結果が、この有り様というわけだ。
節約生活が苦にならないのが、私の長所であり、今にして思えば弱点でもあった。
学生時代は、少ない仕送りとバイト代で何とかやりくりしていた。その生活を気に入ってもいたし楽しんでいたと思う。
昼は大学、夜はバイトの二重生活。
食事は自炊かバイト先の賄い。シャワーを浴びて寝るだけの下宿部屋。
社会人になっても同じで、昼は会社、夜はBARの副業に立ち続けた。
人手不足の世の中で、会社も副業に寛容だった。体力さえあれば金は貯まる。働いた分だけ資産が増える。そう思い込んで働き詰めだった。
会社の同僚たちとの飲み会も、最初は誘われていたが、副業を理由にすれば断るのは簡単で、次第にそれが癖になっていく。
実家への帰省も同じで、旅費も時間も惜しくなると足が遠のいていった。気づけば何年も戻っていない。
そんな生活が、若い頃は平気だった。しかし長年の無理は、身体をじわじわと蝕んでいたのだ。
証券会社の封筒を畳むと、BARへは当分休む旨を連絡した。
会社からは「まず一週間は休みです。その後で勤務形態を相談しましょう」と言われた。時短勤務や休職も提案された。
けれど急に与えられた休暇に心が躍ることもない。
お金がいくらあっても、この体調ではどこへも行けないのだ。
証券会社の封筒を丁寧に片付けてカバンに仕舞い込む。ついで、最後のハガキに手を伸ばす。
届いたまま放置していた、同窓会のお知らせ。
同期会ではなく、私たちの恩師、中村教授の教え子たちが不定期に集まる小さな会だ。
私も、日和も、氷室先輩も、かつてそこにいた。
八年前、一度だけ参加したが、お目当ての氷室先輩は欠席だった。そのときの落胆は今も覚えている。
ただ、いま会えたところで、何が変わるわけでもない。
彼は二年前にFIREを達成し、いまは東南アジアのどこかで悠々自適に暮らしていると人づてに聞いた。
初恋はとっくに終わった。私が結婚しなかった理由がそれだけではないが、そこから先の時間を止めてしまっていたことも確かだった。
返信期限は昨日まで。
日和に頼んで断りを伝えてもらえばいいか――そう思った瞬間、考えるのすら面倒になり、ハガキはヒラヒラとゴミ箱へ落ちた。
病院の夕食を済ませ、時計を見る。面会時間は残り三十分。
外はもう暗く、この時間からわざわざ来る人はないだろう。
読むものでも頼んでおけばよかったとぼんやり考えていたとき、病室のドアが静かに開いた。
「千葉……結衣さんの部屋ですか」
聞き慣れない声に思わず姿勢を正した。
黒髪で、まだ幼さの残る端正な顔立ち。
だが着ているのは仕立てのいいスーツで、まるで成人式を前に背伸びした高校生のようでもあった。
身内にこんな少年はいない。
けれど、どこか似ている。
大学時代、ゼミ、通い詰めた居酒屋。笑っていた――氷室智弘先輩。
「千葉は、私です。あなたは?」
青年は少し照れたように眉を下げた。そして話し始める。
「久しぶり。俺だよ……氷室智弘。研究室で一緒だったろ?」
……冗談だろう。
私は呆然としたままだったが、未成年と思しき彼を部屋の外に立たせておくのも気が引けて、彼を部屋に招き入れた。
こんな時に日和が仕掛けたドッキリか? いや、あの子はこんな時にふざけたことはしない。
それとも新手の詐欺だろうか? 私の資産のことが何処かで漏れて、それを知って近づいてきたとか?
短い間に、様々な疑念が渦を巻く。
「えーっと、どちら様……?」
青年は苦笑しつつ、懐かしい調子で続けた。
「中村先生の授業、一緒に受けてただろ。フランス語圏の文学と日本文学の比較研究とか、翻訳のバイトもやったじゃないか」
覚えている。だが、疑う私は質問を重ねた。
「中村教授のフルネームは?」
「中村憲助。憲法の憲に、助けるの助」
「よく行ってた居酒屋は?」
「魚華(うおはな)。ハイボールが異様に安かった」
「魚華で、毎回ハイボールで潰れてた研究室の子は?」
「森山。トイレを何度も汚して最終的に出禁になった」
……当事者しか知らない話だ。
私の背筋を、ゆっくりと寒気が這い上がった。
「本当に……氷室先輩、なんですか?」
青年は、あの頃と変わらない澄んだ目で私を見つめ、静かに言った。
「そうだよ。俺は――再生手術を受けたんだ」
そう告げると、彼はそっと近づき、あの頃のままの目で私を見て、ゆっくりと語り始めた。
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