いろとりどり
ことりいしの
前編
インスタ映えすると噂のマカロンを齧る。水気をだいぶ吸ってしまったらしい生地は、ふにゃりとしていて、歯にくっついてしまう。一個四百五十円もしたのに、思ったより美味しくない。残りのマカロンはあと三個。いっそ牛乳に浸して食べてしまおうか、と思っていたとき、「ただいまぁ」という気の抜けた声が響いた。気がつけば、夕方を通り越して夜だ。同居人が帰ってくる、いつもの時間だった。
「おかえり」
「あ、良いもの食べてるね、マカロンじゃん! しかも、それってこの間、日本に初上陸したお店のじゃない?」
一個もーらい、とエメラルドグリーンのマカロンが攫われていく。わたしはその手を迷わずに軽くはたいた。マカロンは何の音もたてずに皿へと戻る。
「こら、馨ちゃん、食べるのは手を洗ってから」
それにまだ着替えてないでしょ、と言えば、馨ちゃんは少し拗ねたように「はーい」と返事をして、洗面所へと向かった。じゃーっと水が流れる音の最中、
「あ、それ食べないでね! あたしが食べるんだから!」
と馨ちゃんが叫ぶ。
「はいはい」
適当に返してから、馨ちゃんに食べられる予定のマカロンを見つめた。
エメラルドグリーンのマカロン。
あきらかに合成着色料満載だ。自然界ではあんまり食べたくない色。商品と同封されていた商品紹介によれば、秋限定のシャインマスカット味らしい。ほかに皿に残っているのは、黄色と水色のマカロンだった。どちらも印象派の絵画を思わせる、淡い色合いだった。黄色はレモン味、水色は紅茶味だという。黄色はともかく、水色は想像だにしていないフレイバーだった。水色なんて、紅茶を微塵も連想させない色だ。ついでに言えば食欲も刺激されない。青系の色は食欲を減衰させる色。それなのに何で買ったんだろうな、とぼんやり考える。
「じゃ、いただきまーす」
いつの間にか着替えまで終わらせたらしい馨ちゃんが、マカロンにかぶりつく。その手にはちゃっかりコーヒーがあった。キッチンのポットに残っていたのを見つけたのだろう。わたしが飲んでいる残りだ。
「うーん、おいしー」
馨ちゃんは美味しそうにパクパクと食べる。その姿に、思わず笑みが零れてしまう。
「残りぜんぶ食べて良いよ」
「え、いいの!?」
「わたしはあんまり好きじゃなかったから。好きな人に食べてもらった方が、マカロンだって嬉しいよ」
やったー、と子どものように喜ぶ馨ちゃんを見れば、その爪が綺麗に赤く塗られていることに気づいた。じっと見つめていたからかもしれない。ああ、これ? と馨ちゃんが微笑む。
「ネイルサロンのお姉さんにすすめてもらったの。きっと似合いますよーって」
「すごく馨ちゃんっぽくて似合ってるよ」
「ほんと!? さくらちゃんに似合ってるって言ってもらえると嬉しいな。この色にするの、ちょっと迷ったんだよね」
馨ちゃんはそう言いながら、黄色のマカロンを口に運ぶ。
わたしは赤い爪を見つめる。薔薇を思わせるその色は、目鼻立ちのはっきりしている馨ちゃんにぴったりだった。
「馨ちゃんは赤が似合うよ。今度、真っ赤なルージュも買いにいこう」
わたしは思いついたメジャーな化粧品ブランドの名前をいくつかあげる。どれも、たしか最寄りのデパートに入っていたはずだ。東京のベッドタウンに位置するこの家の周りには、いくつかデパートがある。都内中心部のようにはいかないが、そこそこ品揃えも良かった。
ついでに靴も買っちゃおうよ、と言おうとしたところで馨ちゃんが固まっていることに気づいた。
「馨ちゃん? どうしたの?」
「いや、あたしが行って良いのかなあって」
「当たり前でしょ。馨ちゃんが行かなくて、誰が行くの」
少し強めに言えば、馨ちゃんはふにゃりと笑う。それは本当に嬉しいときに見せる顔だった。
「そっかあ、そうだよね」
赤いネイルの施された指は、最後のひとつ、水色のマカロンを持ち上げた。赤と水色が重なる。そのふたつの色を見て、わたしの耳元でぱちりとしゃぼん玉がはじけたような音がした。わたしが美味しそうでもないのに、淡い水色のマカロンを買った理由。思い当たるようなことが、脳裏に浮かんでしまった。
「……うん、そうだよ」
マグカップに残ったコーヒーを呷る。底に溜まったコーヒーは、どろっとしていて苦かった。
わたしのランドセルは水彩絵の具で塗ったようなパステルカラーの水色だった。ちょうど、馨ちゃんが食べたマカロンのような色。
わたしが小学校に上がるころ、大手メーカーがこぞって色とりどりのランドセルの販売を始めた。赤とかピンクとかだけでなく、紫とか緑とか。どことなく女の子を虜にするような、淡い色合いが多かった覚えがある。多分、そのCMか何かを見たからだろう。わたしは「ランドセルは水色が良い」と駄々をこねた。今みたいにインターネットが発達していた時代ではなかったから、きっと母は困っただろう。新宿駅近くの百貨店に、ふたりで手を繋いで何度も見に行って。吟味に吟味を重ねて。そうして買ってもらったのをよく憶えている。
パステルカラーのそれは、どことなく春を感じさせる色合いで。さくら、と名付けられたわたしとお揃いな気がして。わたしは大好きだった。
でも大好きだったのは、わたしだけ。
周りから望まれていた色ではなかった。普通ではなかったから。
小学校にあがる少し前、わたしは母と一緒に住んでいた東京の家から遥か遠くの、田舎の祖母の家に預けられた。
原因は父にあった。
父はギャンブル狂いで、あちらこちらで借金をしていたのが発覚した。その額はとうてい普通に働いて返しきれるものではなかった。今考えても、やっぱり途方もない金額だ。おまけに自営業だったのだから、たちが悪い。母は結局、昼夜を問わずに働かざるをえなかった。そこでわたしを祖母に預けることにしたのだと、母は幼いわたしに説明をした。
祖母が住んでいた町は、コンビニも二十時に閉まるような田舎だった。繁華街は駅前にある商店街だけ。その商店街にはファストフード店もなく、カフェも純喫茶しかなかった。ゲームセンターはかたちばかりで、子どもが遊ぶガチャガチャがいくつか並んでいる程度。あと、おはぎが美味しい和菓子屋さんがあっただろうか。小さな町だった。
祖母の家を訪れた最初の日。わたしの荷物を一瞥した祖母は、大きく溜め息をついた。
「なんだい、そのランドセルの色は。みっともない。あの子も、娘にそんなものを買い与えるなんて」
水色のランドセルは押し入れの奥深くに仕舞われてしまった。代わりに、祖母はわたしに真っ赤なランドセルを寄越した。それはかつて、母が背負っていたものだった。
祖母は厳格な人だった。
なんでも名家の子女だったのだという。既に亡くなっていた祖父は、婿養子に入ったらしかった。結局、戦争が原因で取り潰しとなってしまったらしいが。プライドとか見栄とか、そういうものは人一倍以上にあった。体面を気にする人だった。
言葉遣い、食事の所作、見ても良いテレビ番組、読んでも良い雑誌、遊んで良い友だち、エトセトラエトセトラ。生活の隅から隅まですべて、祖母が決めた。
わたしには反論する権利がなかった。
「知ってる? 木内さん家のこと」
「ええ。おばあちゃん、娘が東京の大学に進学しただなんて自慢してまわってたのに」
「一時なんて、弁護士になるとか言ってたのよ」
「でも、ねえ……」
「結局はお金がなくて子どもを育てられなくなって、東京で水商売してるんだって」
「いやよね、この町に風俗店とかないのに」
「さくらちゃん、ウチの子と同じクラスなのよ」
「きっとお母さんに似て、阿婆擦れなんでしょうね」
「なんたって風俗嬢だものね。いやだわ~」
町に大した娯楽はない。あるのは、時代遅れの洋画を流す映画館くらいだった。だから、みんな毎日のように井戸端会議を開く。そこでもっぱら話題の対象とされたのは、わたしだった。母は厳格な祖母に育てられた所為か、この町ではひどく有名な優等生だったらしい。高校から隣県の全寮制のミッションスクールに通い、有名私大にストレートで合格。そんな母の経歴は祖母の持ちネタのひとつで。祖母は至るところでその話をしていた。だから、母のことを知らないひとはいなかった。きっとやっかみもあった。自分たちよりも優秀だった人間が落ちぶれていく様を嘲け笑うのは、ああいう町では大層な娯楽だから。
小学生も高学年になれば、水商売の意味くらい理解できるようになる。子どもは大人が思っているほど馬鹿ではない。わたしの母が水商売でお金を稼いでいることは、子どもたちに知れ渡った。わたしの母は売春婦だとか、阿婆擦れだとか、きっと家で親が口汚く言ってるのだろう。そのうち、わたしは学校で阿婆擦れと呼ばれるようになった。
わたしには、それを否定するだけの人権はなかった。
母のことをよく知らないから、ではない。ただわたしにとってあの町は、旅行先のホテルのようだった。そこにわたしの居場所はきっとなかった。
井戸端会議なんていう悪習はすぐにやめるべきだと思う。暇つぶしにも似た、遊戯にも似たそれで、わたしはずっと傷つけられたような気がしていた。
それでも外傷はない。凶器は言葉だから。視線だから。目に見えないから。証拠がないから。
わたしは訴えられない。誰も責められない。
内傷ばかりが増えていって、どうしようもなくなる。
身体の内側が痛くて痛くて。にっちもさっちもいかなくなったとき、わたしはどうしても水色のランドセルを背負いたくなった。六年生の夏の日だった。祖母の目を盗み、数年振りに押し入れから水色のランドセルを出し、それを背負って学校に行った。
「お前、なにそれぇ」
クラスメイトはその色を見て、一様に嗤った。
クスクス、ゲラゲラ、クスクス、ゲラゲラ、クスクス、ゲラゲラ。不快な声がその場に充満する。腰まで水に浸かっているような感覚で、自由に身動きがとれなかった。
「お前の母ちゃん、ミズショーバイしてんだろ? だから水色なんだろ! 阿婆擦れだもんな!」
クラスのボスが廊下にまで聞こえるような声をだしたとき、教室に先生が入ってきた。「うるさいぞー」とめんどくさそうに言いながら。先生はぐるりと教室内を見渡すと、わたしのランドセルを見て「おい、だめじゃないか」と注意した。
「普通、女の子は赤、男の子は黒だろう? 水色なんて、そんなよくわからない色のランドセルなんてだめだ。明日からはきちんとした色のものを持ってきなさい。そもそも、昨日までのランドセルはどうしたんだ?」
「……これが、わたしのランドセルです」
「嘘をつくのはやめなさい。昨日まで赤いのだったじゃないか。普通に赤のランドセルにしなさい。明日、またそれを背負ってきたら没収だからな」
その後、わたしはどうやってその日を終えたのか、まったく覚えていない。ただ帰宅してから、水色のランドセルを押し入れの奥底に仕舞い直したのはよく憶えている。あのランドセルはどうなったのだろう。わたしはあれから一度も出したことはないが。
どこから聞いたのか、祖母はわたしが水色のランドセルを背負って学校に行ったのを知っていた。祖母は火がついたように怒った。「なんであんたは普通にできないの!?」と言われた。叫ばれた。殴られた。蹴られた。謝っても謝っても、赦してくれなかった。その日以降、わたしは祖母と挨拶以外の会話をすることはなくなった。
次の日、わたしは母のランドセルを背負って行った。先生は「ほら、昨日のはやっぱり嘘だったじゃないか」と鼻で笑い、クラスメイトは「ミズショーバイ色はどうしたんですかー?」と囃し立てた。
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