透明な日々
みたか
透明な日々
夜風が頬を引っ掻く。降り始めた雪がべちゃべちゃと顔を濡らす。耳が氷のように冷えて痛い。通勤カバンを握る手が震える。指先の感覚が無くなってきたのを感じるが、おれは手袋をしない。
今年は秋が短かった。ぶっ倒れるくらい暑い夏が終わって、あっという間に冬になった。街中では寒さに対する不満ばかり聞こえてくるが、おれは嬉しい。冬はいい。冬は、死ぬのに一番いい季節だと思う。
おれの亡骸は、雪に埋もれて見えなくなる。誰にも気づかれない。動物たちも眠っている。
おれは消える。死んでもなお、肉体はこの世に存在しているのに、おれはこの世から存在が消える。そんなこと、生きているうちには絶対できないことだ。
できないはずなのだ。それなのに、おれはずっとそんな状態で生きている。おれの存在はいつも消されている。親も、学校のやつらも、職場のやつらも、おれのことは見えないようだった。声も聞こえていない。存在が消えている。だから、おれが雪に埋もれて死ぬことは、この日常の延長だ。ただほんの少し形が変わるだけで、おれの日常が続いているだけだ。そして雪に埋もれながら、おれは静かな時を過ごす。うるさくて煩わしい日々の雑音から完全に離れ、日常の延長線上で、音のない、無の時間を味わう。
時が経って、春が来て、雪が解けたら、おれは雪の下から顔を出す。そこで初めて、おれは生まれる。この世に存在していると認識される。こんな素晴らしいことが、他にあるだろうか。フキノトウのような存在に、おれはなるのだ。
じっとり濡れて、ぐちゃぐちゃになったおれの身体を、動物たちが食べるだろう。眠りから覚め、朝日に目を細め、身体を震わせてから、鋭い牙で、クチバシで、おれの身体を食うだろう。皮膚を啄み、肉を噛み、骨をしゃぶるだろう。
そうしておれは、時を越える。動物たちの肉体の中で生き続ける。血肉の一部として細胞に認識され続ける。そう思うだけで、おれの心は救われる。死にたい気持ちが解けて、昂った感情が落ち着いてくれる。おれの中で死の形が変わる。死の形が変わると、生の形も変わる。おれがどう死にたいかを考えると、どう生きるかが見えてくる。
帰る途中でスーパーに入った。掴んだカゴに、特売になった肉を突っ込んでいく。
おれがおれの望んだ形で死ぬためには、まずは肉をつけなくてはいけない。おれの身体に肉が少なかったら、動物たちの中で生きられない。そのためには食うのだ。食うためには金が必要で、そのためにおれは働く。例え資料をひたすら整理するだけの仕事だとしても、おれの声なんて誰にも届かなくても、毎日休まずに働く。そして働くためにおれは食う。肉を食う。
この肉も、発泡スチロールに載せられる前は生きていたのだ。おれはこれから、こいつらの分まで生きていく。
ああ、でもおれは知っている。細胞は永遠ではないことを。日々作り変えられ、生まれ変わっていくことを。冬は何度もやって来るが、同じ冬は二度と来ないことを。おれは今しか生きられないのに、今を生きていない。
はじめは認識されていたはずだった。おれがこの世に産まれたとき、入学したとき、就職したとき、おれを認識した人間がいたはずなのに。今だって、会社に所属しているということは、誰かはおれを認識しているはずだ。それなのに、なぜこんなにもおれは透明なんだろう。
どうしておれは存在しなくなってしまったんだろう。いつからおれは消されてしまったんだろう。
レジ袋を握る手が軋む。何億回も繰り返してきた思考が暴れ始めて、思わず足を止めた。ピッ、と甲高い機械音が耳に入る。
「顔をもっと近づけてください」
立ち止まったおれに、設置されたままの検温カメラが反応した。カメラの中のおれは、顔の周りを丸く縁取られていた。
透明な日々 みたか @hitomi_no_tsuki
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