第9話 帝
さわさわと風の音が聞こえる。
襖を開けると、春の香りとともに風が琴の肩を通り過ぎた。
「おぉ、似合っているではないか」
着替え終わり、歩廊に一歩踏み出すと、朝陽が庭院の桜を眺めていた。
琴の姿を見るなり、顔をほころばせて近づいてくる。
「琴らしい色だな」
「そ、そうでしょうか……」
「可愛らしい色合いで、よく似合っている」
そんな言葉を真正面から伝えてくるものだから、琴の顔はぶわりと熱くなる。
朝陽の後ろでは、織也という従者が笑いをこらえていた。
なんだか分からないが、この美帝は日常的に惚れさせるようなことを言うのだろう。なんとも罪な男だ。
「よし、行くぞ」
朝陽は、再び歩廊をすたすたと歩き始めた。
紅の袴に桃の単を重ねて、聖職者の印であると言う袿姿はいつもより上等なもので少し歩きにくい。ただ、自分の好きな色合わせの衣を選んでもらったので、満足はしていた。
懐にはこれまた上等な檜扇がある。これも聖職者が持つべき物らしく、衣と共に『聖職者』であると示すものだと侍女が言っていた。
形から入るため、聖職者になったのだという実感が湧いてくるような、湧いてこないような。まだ夢見がちな段階で、ただ宮殿でもてなされている感覚しかなかった。
歩廊を右に曲がると、長い廊下が見えた。庭院には、廊下に沿うようにして桜が咲いている。それがなんとも綺麗な、まるで桜並木のような廊下だった。
「そう言えば、琴」
「はい」
桜に見とれていると、朝陽から話しかけられた。慌てて朝陽に目を向け、緊張しながらも返事をする。
「そなた、一族内で何かあったのか?」
「え?」
突然の質問にびくっとした。身体が一瞬固まる。
図星をさされて震える手を隠し、必死に声を絞りだす。
「なぜ、それを」
「お前が『聖職者』として決まったとき、お前は涙を流していた。それくらい嬉しかったのだろうと、思ったのだが」
朝陽は言葉を切り、琴をちらりと見た。
「宰相はそんな軽薄な者を連れて来ない。宰相は困っている人を一番に考える人だからな」
昔からずっとだ、と朝陽はつぶやいた。綺麗な瞳が嬉しそうな光を宿らせる。
その様子を見て、自分の祖父が帝の教育係だったことを思い出す。
自分の祖父が褒められるのは、なんだか嬉しい。
「嬉しそうだな」
朝陽が振り返って言った。
「嬉しいです」
これは、素直な気持ち。
ほんわりと微笑んで応えると、朝陽が目を大きくさせた。
「お前は……」
そのとき。
「主上」
曲がり角から、ひとりの男性が平伏して現れた。大臣だろうか、立派な身なりの男性だ。
紙の束を持ち、何やら深刻そうな顔をしていたが、琴の姿を見て再び平伏する。
あわてて礼を返すと、大臣の硬かった顔が少し緩んだ。
──まだ『聖職者』になったって言ってないのに……。この袿の威力、すごい。
感心していると、大臣は朝陽に目を向けた。
「報告がございます。少しお時間をよろしいでしょうか」
「緊急なのか」
「えぇ」
「では少しなら」
朝陽は大臣にうなずき、琴と織也の方を見た。
「織也。先に琴を聖麗殿へ連れて行ってくれ。俺は後から行く」
「わかりました」
「織也は信頼できる。心配するな」
朝陽が離れることに対して感じていた不安が、顔に出ていたのだろうか。朝陽は艶やかに微笑むと、琴の頭にぽんと手を置いた。
あたたかくて大きな手。撫でられて、思わず頬が熱くなる。
朝陽は、琴からそっと離れると、大臣と話し始めた。「またあの館か……」とため息まじりの会話が聞こえてくる。
織也はその場で一礼すると、琴を促した。
ぺこりと礼をした琴は、あわててその場を離れる。
「あの、えっと織也さま?」
案内をしてくれる、武人らしく大股で歩く彼に話しかける。
何か話していないと緊張で身体が固まりそうだった。
そんな琴の物言いに、織也がぷっと吹き出す。
「俺にさまとか付けなくて大丈夫ですよ。そんな身分じゃありませんし。大体、俺みたいな侍従より『聖職者』の方が上ですからね」
「そ、そうなんですけど……」
「急に呼び捨ては難しいですか?」
「だって織也さまはわたしよりずっと、宮殿にいらっしゃるんですよね。わたしの方が後輩です」
「おもしろい言い方だな」
彼の口調が崩れる。
硬い物言いよりも、そちらの方が打ち解けている感じがして、思わず顔がほころんだ。
「あ、それです。敬語じゃなくてそちらの方が親しみやすいです」
「そうかそうか。じゃあ琴って呼んで大丈夫だな」
「はい!」
元気よく返事をすると、織也はくすっと笑った。
朝陽とは違う、でも少しだけ彼に似た笑い方だった。
似ているな、そんなことをぼんやりと思う。
「じゃあ、俺のことは織也でも織也さんでも何でも良いよ」
「織也さん! ありがとうございます、嬉しいです!」
「お前、本当におもしろいな」
織也が笑いながら言う。
彼は、琴の歩幅に合わせて隣を歩いてくれる。
「主上がお気に召されるわけだ」
「え、主上が?」
「主上はな、歴代の帝と全く違うんだ」
「そうなんですか?」
「通常、帝は威厳があって人を寄せ付けず、顔も見せず、礼なども全くしないものなんだ」
「主上はおっしゃってますよね。何度もありがとう、と」
「だろう?」
まるで自分が褒められているかのように、織也は片目の眉を上げてみせる。
そんな彼に、琴は一番聞きたかったことを訊ねた。
「あの、織也さん。何で主上は宮殿内を歩いているんですか?」
「ん? だって宮殿は主上のお住まいだ。歩いていても問題はない」
「いえっ、そう言う意味じゃなくて!」
それがどうかしたのか、と不思議そうな顔をしている彼に、何と説明したら良いのか分からない。身振り手振りで何とか伝えようとすると、その意味が分かったのか織也はふっと笑った。
「言っただろ、主上は歴代の帝とはまったく違うって。主上は嫌うんだよ、そう言うしきたりみたいなやつ。だから普通に色々歩き回るし誰にでも礼をするし、感謝もするんだ。それも意図している訳じゃなくて自然にな」
「そうなんですね……」
「大臣たちも初めは色々言っていたがな。だんだん主上の考えに惹き込まれていったんだ。そういう人たちが集まる宮中は、周辺の国々でも聖花国だけだ」
ならば、朝陽が着替えの部屋まで案内してくれたことも、ただの貴族の姫である琴に対して礼をしたのもうなずける。
しきたりを嫌う帝であれば、女性の身分格差も無くしてくれるのではないだろうか。
「立派になられたもんだよ。東宮殿下の頃から人気があったからな」
織也は微笑みながら、池にかかっている渡殿を歩く。
さらさらと流れている水は、綺麗に澄みきっていた。
「その性格を裏返すと、感情が表に出やすいんだ。お前の頭をぽんぽんしてただろ。あれって」
微笑みがにやりとした笑みに変わった。
「なんだと思う?」
いきなり質問されて、一瞬戸惑う。
「織也さんは分かるんですか?」
「あぁ。幼い頃からずっと一緒なんだ。わかるよ」
必死に考える。
ぐるぐると思考が回っていく。
──私の頭を撫でた理由?
やがて、ぴんと閃いた。答えはこれしかない。
「あっ」
「分かったか」
「はい。私のこと、扱いやすい女と思っているのだと思います」
自信満々で答えた。琴が考える限り、これ以上の考えはない。
織也がきょとんと琴を見た。
──あれ、間違っていたかな。
「まさか、こいつもあれなのか。そしたら大変だぞ……」
「間違っていたんですか?」
「……まぁいい。その話はここまでだ。ほら着いたぞ、聖麗殿」
いつのまにか、大きな建物の前に立っていた。
陽の光を浴びて、大きな存在感を放っている。
「ここが聖麗殿……」
「そうだ。『聖職者』たちがここで過ごし、巫女に仕える。帝の住まいの聖和殿と並ぶ神聖な建物だ」
「ここで……。あの、女性の方はいらっしゃるのですか?」
「いるぞ。女人はお前を含めて二人だ」
一番心配していたことに、よかった、と息をつく。
男子の中にひとりだと気まずいし、あちらも女子がひとりだけだと厳しいものがある。
女子はすぐに仲間割れするし嫌みを言うやらで、一言で言うと面倒くさいのだ。
そんなことを考えていたうちに、織也は建物の入り口に立っている見張りに目配せをしていた。
琴の姿を捉えた見張りは、にこりと微笑むと、頭を下げる。
その目は驚きと喜びが灯っていた。
「どうぞ、お通りください」
「あ、ありがとうございます」
聖職者として認められていることに安心しつつ、おそるおそる建物の中に踏み入れる。
戸を開け中に入ると、良い香りが包み込んだ。
「わぁ。良い香り」
「聖香師だな。香を焚いたんだろう」
織也はどんどん奥へ入って行く。
「ここには、大きな広間がひとつと、たくさんの小部屋で分かれているんだ。まぁ、ほかの聖職者に聞いてみればわかる」
そして、ひとつの襖の前にたどり着いた。
織也は琴を振り返ると、すっと襖を示す。
「開けてごらん。聖職者たちが聖琴師を待っているから」
息を呑む。
今日から自分の居場所はここだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます