第2話 味方

聖琴師せいきんしが決まらないんだ」


 そんな声が聞こえたのは、夜更けのことだった。

 琴は、筝爪を磨いていた手を止める。

 屋敷の隅の、小さな部屋。行燈の明かりで浮かび上がる筝が綺麗だ。


(誰の声だろう?)


 こんな夜に、話し声が聞こえることは珍しい。

 夜が好きであるため、遅くまでよく起きているが、家族たちはいつも寝ている。だから、その声の主が誰なのか気になってしまった。


 戸を、そっと開けた。その先は縁側になっていて、木や花などが植わる大きな庭院が見える。

 その縁側に、二つの影があった。


「決まらない、とは?」

「巫女がまったくお決めになられないそうだ。それで、主上から指示が下った訳だよ。都で、筝の名手を集めろと」


 話の内容は、よく分からなかった。

 聖琴師という言葉は聞いたことがある。確か、この国の『聖職者』と呼ばれる役職の一つだ。

 話しているのは、琴の祖父と叔父だった。祖父の和之かずゆきは、宰相を務めている重鎮。叔父のいつきは、この一族からなる雅楽座の座長だ。

 琴の母は、既にない。琴を産んでまもなく儚くなったと聞かされた。母方の祖父である和之は、琴を親代わりのように可愛がってくれている。また、樹は母の妹で、何かと琴のことを心配してくれる人だった。


 そんなことよりも、『筝の名手』ということに興味がいった。

 琴の人生すべてを占めている筝。筝がなかったら、これほど辛い現実も乗り越えられなかった。それくらい、筝が大好きだ。


「おや、琴」


 はっと気づくと、和之がこちらを見ていた。のぞき見をしていることが見つかってしまったのだ。目が合った途端、緊張が走る。


「ご、ごめんなさい!」


 戸を閉めようと、慌てて顔をひっこめる。

 しかし、祖父は「おいで」と手招きをした。


「琴。久しぶりに膝へおいで」


 大好きな祖父の、膝の上。なかなか家に戻らないから、こうして会うことも久しぶりだった。

 琴は、そろりと部屋から出る。

 月の綺麗な夜だった。庭院の木々は、さわさわと囁いている。透明な風が、琴の黒い髪を艶やかに揺らした。


「琴、大きくなったなぁ」


 和之の膝の上に座れば、樹が頭を撫でてくれた。

 この二人は好きだ。

 琴に優しくしてくれるから。

 他の家族は、嫌いだった。


「ほら、お食べ」

「わぁ!」


 お土産だ、そう言って差し出されたのは大福だった。

 懐紙の上に置かれた大福は、月明りに照らされて輝いている。

 琴は笑みを浮かべて受け取ると、ぱくりと大福にかぶりついた。口に含めば広がる、優しくて甘い幸せな味。ゆっくりと噛みしめながら、琴は祖父を見上げる。


「おじいさま。明日、筝の名手さま方にお会いするのですか?」

「そうだよ。大事な国の決め事をしなくてはならないからね」


 国の決め事。

 貴族とはいえ、琴はまだ十二歳。政はよく分からない。

 二人の傍に置かれている盃に、樹がとくとくと酒を注ぐ。大きな満月が、酒の水面でゆらゆらと泳いだ。


「筝を聴きたいかね?」


 政よりも、筝のこと。

 筝さえあれば、生きていけるのだ。


「聴きたいです。名手さまの筝はどんなものか、すごく気になります」

「そうかそうか。ならば、明日共に行くか」

「父上。それは……」


 和之の言葉に、樹は顔をしかめる。

 筝を聴きにいくというのは、帝の宮殿に行くということ。

 そこを理解した琴は、悟る。


(やっぱり、だめかもしれない)


 宮殿なんて、おいそれと行くようなところではない。

 月を見上げて、息を吐く。この国で月は、『巫女の象徴』だ。

 天の巫女が地上に降り立ってできたこの国は、巫女を崇拝して生きていた。

 その巫女が好いていたのが、筝だ。そのため、筝を弾くことができる者は重宝されていた。


「私に付いてきたと言えば良い」


 和之がそう言って笑った。

 琴の頭を撫でて、楽しげに言う。


「この家にいても楽しくないだろう。聴くだけでも、気分転換にはなる」


 確かに、この家にいるのは嫌だ。

 つまらないし、筝はなかなか触らせてもらえないし、義兄や姉たちは意地悪だ。

 正直言えば、こんな家にいたくはない。

 けれど、ここは生まれ育った場所。母の香りが残るこの家から、出ていくという選択肢はなかった。


「ありがとうございます」


 祖父にぎゅっと抱きつく。

 ふわりと漂ってきた香のぬくもりが懐かしくて、そのまま動くことができなかった。

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