恋の琴線譜 ─虐げられていた姫は、神職として帝に召し上げられる─
nano
第1話 筝と琴
弦を弾く音、響く美しい音色。
すべてを忘れて、別世界へ連れて行ってくれるもの。
「雑音でしかない!」
どんなに怒鳴られても、筝が弾きたかった。
辛いとき、悲しいとき。
月のない夜、ひとりで箏を弾いた。
弦の響きが、涙の音を消してくれた。
自分の心を受け止めてくれたのは、筝だけだったから。
「もっと静かに弾け!」
「……弾くことは、お許しくださるのですか」
今日もまた、怒声が響き渡る。
美しい調べに割り込むように入り、不協和音となって地に落ちる。
部屋に入ってきた父を見上げて、
父の足元で、畳が静かに悲鳴を上げている。
息を呑む。
世界が一瞬、静まり返る。
声を荒げる父の言葉は、ぎらつく鋼の刃のようだった。
刺さったところから、どろりと赤い血が流れていく。
それでも、反論したかった。
自分の好きなものは、心のためにあったから。
だから、父を見上げて、ぼそっと呟いた。
瞬間、父は胸倉を掴んでくる。
「お前さえいなければ、一族は潰されずに済んだのだ!」
父の声は冷たく、より鋭い刃となって心をえぐってきた。
白い弦がじわりと赤く染まり、指先から心の奥まで痛みが伝う。
その痛みが、まだ生きている証のように思えた。
反論しようにも、きっとこの父親は話を聞かないだろう。琴の言葉に耳を傾けることはしないから、反論できない。
代わりに指先は、血がにじむまで箏の弦を押さえていた。
音を止めてしまえば、自分は本当に消えてしまう気がしたから。
父が部屋を出ていくと、張りつめていた空気が緩んだ。
天井を見上げて、ほっと深く息を吐く。
そのとき。
「姫さま!」
がらり、と襖が開いた。
部屋に飛び込んできたのは、侍女の
琴の世話係で、この家で唯一の味方。
淡い色の衣をまとった明子は、琴の手を見て顔をしかめた。
「また、ですか……」
「うん。まぁ、もう慣れたよ」
琴は、笑みを浮かべてみせた。
すると、明子はすっと琴の前に座った。
手には、白い手巾と小さな薬壺。浅葱色の薬壺を開けると、中には塗り薬が白い顔を覗かせた。
明子は手巾で血をそっと拭い、薬を薄く伸ばして塗っていく。
冷たい感触に、琴の肩が小さく震えた。
「慣れた、など言わないでくださいませ」
明子は、琴の指を手巾ごと包み込んだ。手巾越しに明子のぬくもりが伝わってきて、琴は冷えた指先がじんわりと温まっていくのを肌で感じる。
泣きそうな顔で手当を終えた明子は、白い包帯を手にし、琴の指先を丁寧に包んでいく。
「親が子を虐げるなど、あってはならないのですから」
「……でも、きっと京の外の方が、もっと辛い人がいるから」
帝の住まいがある京。
華やかで美しく、人が幾人も往来している。国の中で一番栄えており、人々は優雅に人生を謳歌する。
しかし、その裏では暗い闇が潜んでいる。罪に手を汚す者、人を陥れる者。そんな彼らが、京の裏で暗躍している。
それでも、京の外よりは安全だ。
きっと、父みたいな人がたくさんいるのだろうだから。
「命があるだけ喜ばなきゃ」
琴は、そう言って微笑んだ。
それを見た明子は、胸が苦しくなる。
なぜ、こんなにも優しい子が虐げられるのだろう。
親に復讐したいと思っても良いほどなのに、琴はそんな素振りさえ見せない。『復讐する』という考えは、持ち合わせていないのだ。
庭院の竹が、さわさわと揺れる。
風が、京に春を伝えて駆け巡る。
「……そう言えば、近々に大旦那さまが帰られるそうですよ」
話題を変えたい。
手当を終えた指をぼんやり眺めていると、明子が明るい声を発した。
見れば、明子は手巾などをしまいながら微笑んでいる。
「姫さまに早くお会いしたくて、お仕事を早めに切り上げなさるみたいです」
「おじいさまが!?」
暗く沈んでいた琴の顔が、ぱっと明るくなった。
透き通りそうなほど白い頬が、薄らと紅色に染まる。
「お土産はあるかな?」
「きっと美味しいものをお持ちくださりますよ。大旦那さまは、姫さまのことが大好きですから」
「えへへ、嬉しい」
大旦那とは、琴の祖父。
この国──
そんな宰相でも、止められないものがある。
それが、琴の父親だった。
「宮廷雅楽団のお話を聞きたいな」
「姫さまは本当に雅楽がお好きですね」
「うん、大好き。いつか、雅楽で人を助けられるような仕事がしたいなぁ」
貴族の姫は、政略結婚として使われる駒だ。
自らに決定権はなく、ただ家のために意思を捨てて嫁がなければならない。
それでも、夢を見ることは自由だから。
夢は、自由に見て良いものだから。
だから、琴は音色に夢を乗せて、筝を弾く。
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