「醜い」と婚約破棄された銀鱗の令嬢、氷の悪竜辺境伯に嫁いだら、呪いを癒やす聖女として溺愛されました

藤宮かすみ

第01話「銀の鱗と断罪の夜会」

 きらびやかなシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射し、舞踏会場は昼間のような明るさに包まれていた。


 色とりどりのドレスを纏った貴婦人たちの嬌声、グラスが触れ合う涼やかな音、優雅に流れる弦楽四重奏の調べ。

 ここは王国の中心、王宮の大広間。誰もが享楽の海に浸るその場所で、アナベル・リヒトハイムだけは息を殺すようにして、会場の隅にある太い柱の影に身を潜めていた。


 彼女が纏っているのは、流行遅れのくすんだ青色のドレスだ。リヒトハイム公爵家の令嬢でありながら、その装いには華やかさの欠片もない。

 だが、アナベルが何より隠したかったのは、ドレスの下にある自身の肌だった。


『どうか、誰にも気づかれませんように』


 首元までしっかりと布で覆われたドレスの下、彼女の白い肌の一部には、魚とも爬虫類ともつかない、硬質で冷ややかな銀色の鱗が浮き出ている。

 生まれつきの奇病。医者も匙を投げ、教会からは「前世の業」と忌み嫌われた呪いの証。

 美しい容姿こそが最大の財産である貴族社会において、アナベルの存在は公爵家の汚点そのものだった。両親は彼女を離れに幽閉し、使用人たちさえも彼女に触れることを嫌悪した。


 そんな彼女がなぜ、この華やかな夜会にいるのか。

 それは、幼い頃に結ばれた婚約者である第一王子、ラインハルトのエスコートを受ける義務があったからだ。もっとも、ラインハルトが彼女を迎えに来たことは一度もないのだが。


 ふいに、音楽が止んだ。


 ざわめきが潮が引くように静まり返り、人々の視線が会場の中央、大階段の上に注がれる。

 そこには、豪華絢爛な金糸の刺繍が入った軍服を着崩したラインハルト王子と、彼の腕に艶然と絡みつく、あどけなくも妖艶な少女の姿があった。


「皆の者、よく聞け!」


 ラインハルトの声が朗々と響き渡る。

 アナベルの背筋に冷たいものが走った。嫌な予感がする。逃げ出したい衝動に駆られたが、足がすくんで動かない。


「本日、この場において、私ラインハルトとリヒトハイム公爵家の娘、アナベルとの婚約を破棄することを宣言する!」


 会場がどよめきに包まれた。貴族たちが扇で口元を隠して漏らす囁き声が、蜂の羽音のように広がる。

 アナベルは血の気が引くのを感じた。柱の影から、思わず一歩踏み出してしまう。


「で、殿下……? な、何を……」


 震える声は誰にも届かないはずだった。だが、ラインハルトの鋭い視線が、隠れていたアナベルを正確に射抜いた。


「そこだな、アナベル! 前へ出よ!」


 人垣が割れ、アナベルへの道ができる。誰もが彼女を好奇と侮蔑の目で見つめていた。

 アナベルは俯きながら、ふらふらと王子の前へと歩み出る。手袋をした両手を胸の前で固く握りしめたまま。


「こ、婚約破棄とは、どういうことでしょうか……。私は、何も聞いておりません」


「ふん、聞く必要などない。貴様のような呪われた女、我が国の未来を担う王妃にふさわしいはずがなかろう!」


 ラインハルトは嘲笑を浮かべ、隣に立つ少女の腰を抱き寄せた。

 セレスティア。男爵家の娘でありながら、最近になって「聖女」として王宮に出入りするようになった女性だ。蜂蜜色の巻き毛と、愛らしい碧眼。アナベルとは対照的な、太陽のような輝きを持つ少女である。


「見よ、このセレスティアを! 彼女こそが聖なる力を持つ真の聖女。先日の狩猟会でも、私の擦り傷を一瞬で癒やしてくれたのだ。それに引き換え貴様はどうだ? その気味の悪い銀の鱗で、周囲に陰気な空気を撒き散らすだけではないか!」


 アナベルは唇を噛みしめた。鱗のことは公然の秘密だったが、こうして大勢の前で罵倒されたのは初めてだった。

 セレスティアが、クスクスと鈴を転がすような声で笑う。


「ラインハルト様ぁ、そんなに仰ってはアナベル様がお可哀想ですわ。呪われているなんて、ご本人のせいではありませんもの。ただ……わたくし、その鱗を見ると寒気がしてしまって」


「おお、可哀想なセレスティア。心配するな、もう二度とあの醜い姿をお前の目に晒させはしない」


 ラインハルトはアナベルを見下ろし、とどめを刺すように言い放った。


「アナベル・リヒトハイム。貴様には新たな嫁ぎ先を用意してある」


「あ、新たな……嫁ぎ先、ですか?」


「そうだ。北の果て、魔獣が跋扈する極寒の地。辺境伯レオニール・ヴァルグレイブのもとへ嫁げ」


 その名を聞いた瞬間、会場の空気が凍りついた。

 レオニール・ヴァルグレイブ。「氷の悪竜」の異名を持つ、若き辺境伯。戦場では鬼神の如く敵を屠り、敵兵の生き血を啜るとさえ噂される男。

 そして何より恐ろしいのは、彼の体に宿るとされる「黒い呪い」だ。彼に近づく者は瘴気に当てられ、触れれば皮膚が爛れて死に至るという。

 これまでに三人の花嫁候補が送られたが、皆、一ヶ月と持たずに謎の死を遂げたり、精神を病んで帰されたりしている。


 それは、結婚の命令ではない。死刑宣告だった。


「父上、国王陛下の許可も得てある。国境警備の要であるヴァルグレイブ家との結びつきを強めるための、名誉ある婚姻だ。……まあ、生きていられればの話だがな!」


 ラインハルトとセレスティアの高笑いが、アナベルの鼓膜を揺らす。周囲の貴族たちも、ご機嫌取りのように笑い始めた。

 中には憐れみの目を向ける者もいたが、誰も助け舟を出そうとはしない。公爵家の人々でさえ、厄介払いができたと安堵の表情を浮かべているのが見えた。


 アナベルの目から、涙がこぼれ落ちることはなかった。あまりの絶望に、心が麻痺してしまったからだ。ただ、冷たい現実だけが重くのしかかる。

 自分はこの世界で、誰からも必要とされていない。

 醜い鱗を持つ化け物は、化け物の生贄として捧げられるのがお似合いなのだ。


「……謹んで、お受けいたします」


 アナベルは深く頭を下げた。それが、彼女に残された最後の誇りだった。

 床に落ちた自分の影を見つめながら、彼女は心の中で小さくつぶやく。

 これでいい。どうせ、光の当たらない人生だった。あの凍てつく北の地で、誰にも知られずにひっそりと終わるなら、それもまた、私らしい結末なのかもしれない。

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