龍が来たりて轟と啼く

初月みちる

龍の啼く日は雨が降る

きゅう、と耳元で何かが啼く。それに気づいて振りけ見れば、それは炎天に向かって、長く、長くこだまする。空気まで燃え盛るような、小暑だとは思えない今日において、よもやそれが聞こえるとは思わず、彼はやや目を見張る。



そうか、龍が来るのか



彼は即座に文机に向かい、さらさらと和紙に何かを書き付ける。墨が跳ねて、手を、和紙を汚してしまい、らしくないなとため息をついて筆を置き、しばし和紙とにらめっこをする羽目になった。


(この墨を誤魔化す方法は……どうやら無さそうやな……)


これが木簡なら削り取るだけで良いのに、と考えたとて、膠と煤の香りのするそれは、恨みがましく睨んだところで硯に戻ってくれる訳ではない。

やむなしと首を振り、新しい和紙に、今度は慎重に墨痕鮮やかにしたため、墨が乾くのを待つために、炎天を仰ぎ、その時を待った。


再びきゅう、と啼いたその声は、幾重にも重なった雲に叫び、消えていく。その余韻が消えるか消えないかのうちに、さああと地上を引っ掻いた。

飛沫を上げているそれらは煙のように、辺りをぼんやりと霧色に染め上げていく。


「……白雨はくう


彼の口から思わずそう漏れる。本来なら夕立の意ではあるが、現状はそう呼ぶのにもっともふさわしいものだからだ。


ふいにどたどたと、廊下を走る音がこちらに近づいてくる。彼は何事かと音のする方を振り返ろうとしたのだが、その前に音の正体は、湿った音と共に彼に体当たりした。


「おもうさま!」


鈴を転がすような声が、彼の周りをぐるぐると走り回りながらけらけらと笑う。だがその着物はしとどに濡れており、彼は緩みきった頬を引き締めてため息をつく。


「これ、お滝! また庭で遊んでたんか!」


「ええ! 今日は、お池の鯉を捕まえようとしてん! 失敗して気落ちしてたんやけど、ほんなら池に面白いもんがあったって、池の鯉はんが言うてて!」


康隆は思わず両手で顔を覆った。裳着成人の儀を来年に控えているというのに、彼女のお転婆は日に日に磨きがかかっているようで、これでは先が思いやられるというものだ。お滝には生涯を誓った相手はおらず、裳着を済ませれば縁談を持って来なければならない。お転婆のまま裳着を迎えてしまうと、婿がねがいなくなると考えている康隆は、まだ一年先の裳着を想像して、今からでも胃がキリキリと痛みそうになる。


「おもうさま! 先程お池に落ちていたのを鯉はんが見つけてくれはったの! おもうさまにあげる!」


そんな彼の心中を、しじみほども理解していないお滝は、うきうきと両手に抱えていた玉を渡す。康隆はちらと驚いて口を開こうとしたが、素っ頓狂な女性の声が飛んできて、思わずそちらを見た。


「姫様! お探し申し上げたのにいつの間にそんなとこに! まあまあ、濡鼠のようではおざりございませんか! おべべ着物もこんなに濡らしてからに! はようこちらへ!」


「えっ。嫌やわあ、おむら。まだおもうさまとお話がしたいのに! おむら、池の鯉はんがね……」


「その話はおべべ着物を脱いでからにしなされ! そいでからでもちいとも遅くあらしまへん! お体に障りますさかい、こちらへ早う!」


言うが早いか、おむらと呼ばれた女性はお滝を担ぎ上げて風のように去ってゆく。おむらはそれほど大柄でもないのだが、四肢をばたつかせる娘を軽々と担いでいるのを見て、普段何を食べているのかという思いが脳裏をしばし駆け巡る。お滝の不満げな声が、廊下の曲がり角を曲がり、尾を引いて消えた。


「全く、お滝は……お転婆も大概にしたらええもんを……」


娘のお転婆にもほとほと困ったものだ。ため息をつくと手が緩んで、玉が転がりそうになるのを慌てて阻止した。落として割ってしまえば一大事である。気を取り直して娘が持ってきたというその玉を、康隆はつぶさに観察する。

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