【短編ホラー】街へ溶けていく足音

ささやきねこ

R-07《昼下がりの噂話》

 昼休みの終わり、ビル街に挟まれたガラス張りのカフェは、午後の光を均一に反射していた。


 テーブルの上に置かれたトレーは、表面の滑らかさが少しだけざらついていて、触れると粉っぽい感触が指先に残った。

その微細な粒子は、店員がさっきまで拭いていたはずなのに、すぐに薄い膜のように積もっていく。

日差しに照らされると、粒子はわずかに灰色がかって見えた。


 ガラス越しに外を通る人々の足取りは、どれも一定で、影の形もほとんど変わらない。ビルの壁面は呼吸しているようにゆっくり膨らんだり縮んだりしており、そのリズムが日常の風景から乖離していることに、カフェの客たちは特に注意を払っていないようだった。


 カエデとユナは、奥の二人席に向かい合って座っていた。

 二人が飲むアイスラテの氷は、なぜか完全に沈まず、中空に浮いたままゆっくり揺れていたが、彼女たちは気づいた様子もない。


 ふと、ユナがストローを軽く回しながら言った。


「ねえ、昨日さ、ミオ見なかった?」


 カエデは少し首を傾けた。彼女の耳元のピアスが、金属というより細い鉄筋の端材のように見えて、光を鈍く跳ね返していた。


「ミオ? ううん、最近見てない。学校も来てないんでしょ?」


「うん。でも、別に休むって連絡なかったみたいだよ」


 会話の内容は、他愛もない友達の消息の話題に見えた。

 ただし、彼女たちの表情には特別な心配も驚きも浮かんでいない。

 

 淡く、平穏で、風景の一部のように静かだった。


「……ああ、でもさ」


 ユナが思い出したように目を瞬かせた。


「駅前で、誰かが沈んでいくの、見たって話。ミオのリュックに似てたって」


 カエデの手の動きは止まらなかった。


 ストローを口に含んだまま無表情で飲み続ける。


 ただ、その腕の肘付近の皮膚が、知らぬ間に薄くひび割れている。

 粉を吹いたコンクリートのような質感で、それが自然にそこに存在しているかのようだった。


「沈んでくって、どういうこと?」


「えっと……歩道のタイルのすきま? あそこに足がはまったら、ずるずるって。周りの人は避けてたって」


「ふーん」


 そこには驚きも疑念もなかった。

 まるで、靴が濡れたとか、傘を忘れたとか、その程度の些細な現象として受け取ったかのようだった。


 カフェの入り口付近で、誰かの足音が止まり、次の瞬間、床のタイルがゆっくりと隆起した。 店員が気づくより先に、タイルはひとつ息を吸い込むように沈み込み、客の足首を静かに飲み込んだ。

 足を取られた女性は、表情を変えることなくスマートフォンを見つめている。

 その脛の断面からは、砂のような粒がぽろぽろとこぼれ、床に落ちた瞬間に溶けるようにタイルの模様に吸収されていく。


 店内の誰もが、その異常を視界には入れても、認識にまでは至らない。

 それどころか、女性はそのまま席へ移動しようとしており、足首の半分はすでに細い鉄パイプのように変形していた。


 ユナがわずかに眉を寄せた。


「そういえば、ミオって、駅前の図書館でバイトしてたよね」


「うん」


「最近、あの図書館の壁、変じゃない? 夜になると、表面がざわっと動くっていうか……なんか、飲み込むみたいに」


 カエデは、机に置いた自分のスマートフォンの画面を見た。

 その画面には、薄くタイル柄のノイズが走っている。


 まるで、都市のパターンが電波を通じて侵入しているかのようだった。


「そうなんだ。」


 その返答は、なんの感情も乗っていなかった。

 それは“無関心”というよりも、単に情報を受け取っただけの反応だった。


 店内の照明が、一瞬だけ呼吸するように明滅した。

 蛍光灯の光が伸び縮みし、まるで天井の奥で何かが動いているようだった。


 光が膨らむたび、机の上の粉塵が微細な波紋を描いた。


「ミオの家さ、マンションの八階だったよね?」


 ユナが続ける。


「うん。去年、廊下が長くなったって言ってた。」


「そうそう。それで、部屋の番号が変わったって。」


 長さが変わる廊下。

 部屋番号が日によって違う階に現れる。


 そのマンションは、この街の中心部に建っている。

 他のビルと同じように、表面が静かに脈動している構造だった。


 カエデは淡々とカップの底を見つめた。そこには氷が溶けて残った水滴ではなく、微細な粉の層が沈殿していた。


 灰色がかったそれは、砂にもセメントにも似ていた。


「ミオ、どこ行ったんだろうね」


 カエデが言った。

 その声音には、ほんの少しだけ風景の揺らぎを感じる程度の、生気の薄い関心があった。


「……図書館の裏側、とか?」


「裏側?」


「地下通路に通じてるって聞いたことある。ほら、工事中のところ。いつも仕切られてる。」


 仕切り板の向こうは、工事の音も、重機の影もない。

 ただ、都市がゆっくりと伸び広がる際の、骨格が軋むような低い振動だけが響いているという。


 話している間に、ユナの手元のスプーンが変質していた。

 柄の部分が細いH鋼のように角ばり、金属光沢が増している。

 それに気づかぬまま、彼女はアイスをすくって口へ運んだ。


「ミオって、あんまり家に帰らないって言ってたじゃん。」


「うん。」


「街のほうが落ち着くって。ビルの中とか、地下鉄とか。」


 街そのものの脈動に馴染むように、少しずつ同化していく感覚を、ミオはどこか心地よく感じていたのかもしれない。


 外では、通りを走るバスが、車体ごと歩道に沿って僅かにねじれた。

 車体後部が吸い込まれるように壁へ沈み、前部が粘度のある動きで路面へ沈下する。 

 乗客はすでに半分ほど鉄骨化しており、窓に映るシルエットはビルの梁の形に似ていた。しかし誰も悲鳴を上げない。


 運転手は淡々とハンドルを切り、そのままルートを進むように姿勢を保っていた。


 ユナは、ふと窓の外を見て言った。


「最近、道が増えたよね」


「道?」


「ほら、このカフェの前の横断歩道、昨日より一本多くなってない?」


 カエデも横目で確認した。

 白いラインが一本増えている。それはただのペイントではなく、路面そのものが紙のように薄い層になって折り重なり、新しいラインを作っていた。


「そうかも」


 カエデのその返答は、淡々と空に溶けた。

 二人の後ろでは、さっき足を飲まれた女性が、もう完全に脚部を失っていた。

 足首から下は細長い鉄柱になり、床へ静かに固定されている。

 その姿は、まるで店内の新しい支柱のようだった。


「ミオ、どうしてるかな」


「元気ならいいけど」


 粉塵がまたテーブルに降り積もった。

 それは都市の呼吸の一部だった。


「そろそろ行こっか」


 カエデが席を立つと、彼女の足元から微かな音がした。

 靴底が砕けるような乾いた音だったが、靴自体が砕けているのではなく、彼女の足首の内側に細い鉄骨が覗いていた。

 

 タイルの粉がぱらぱらと落ち、床に吸い込まれていく。


「うん」


 ユナも立ち上がる。

 太腿の外側がうっすらとコンクリート調の質感に変わり、ひび割れが広がっている。それはまだ表面の変化にとどまり、本人は痛みも違和感も感じていない様子だった。


 二人はトレーを返却口に置き、カフェを出た。

 ドアが閉まる直前、背後の床が静かに波打ち、飲み込まれた足跡のような凹みがひとつ増えた。


「じゃあ、行こうか」


 何事もなかったように歩き出す二人の後ろ姿は、ビルの影に溶けるように街の脈動へ同化していった。

 彼女たちが去った後、風は静かに粉を巻き上げ、歩道のひび割れへと沈めていく。都市はその呼吸を続けていた。

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