第2章:規格外の英雄、降臨
第6話:覚醒と、石頭の奇跡 ~異世界転生は、机の角から始まる~
日本の、とある地方都市のアパート。
築三十年は下らないであろう木造建築の一角にある四畳半の部屋には、淀んだ空気が層を成して沈殿していた。
湿気を含んだ重たい空気には、食べ残したカップ麺のスープが酸化した酸っぱい匂いと、古本特有のカビ臭さ、そして若者の部屋にありがちな、どこか甘ったるい生活臭が混じり合っている。
西日が遮光カーテンの隙間から鋭く差し込み、宙を舞う埃をキラキラと照らし出していた。
瞬(シュン)は、煎餅布団の上で海老のように背中を丸め、変色した文庫本を読んでいた。
「あーあ……」
ページをめくる指先が止まる。
視線の先にあるのは、異世界で英雄となり、美姫に囲まれて暮らす少年の挿絵だ。
「トラック、突っ込んでこないかなぁ」
天井の隅にできた蜘蛛の巣を見上げ、彼は心の底から願った。
この閉塞感。
明日も明後日も変わらない、色のない日常。
誰からも期待されず、誰にも影響を与えない、透明人間のような人生。
彼は「ここではないどこか」への渇きを癒やすように、再び活字の海へと潜ろうとした。
その時だった。
強烈な睡魔が、波のように押し寄せた。
意識が泥の中に沈んでいくような、抗えない重力。
彼はふらりと上半身を揺らし――そのまま、勢いよく突っ伏した。
眼下にあったのは、安物の合板で作られた勉強机。
その鋭角に尖った角。
ゴチンッ!!
鈍い音が四畳半に響いた。
「い、ってぇぇぇぇぇ!!」
瞬は弾かれたように顔を上げようとしたが、視界がテレビの砂嵐のように白黒に明滅した。
額から火花が散るような衝撃。
思考がショートする。
(え、嘘だろ。こんな死に方……)
痛みすら置き去りにして、彼の意識は急速にフェードアウトしていった。
最後に思ったのは、家族への謝罪でも、人生の走馬灯でもない。
(次に目が覚めたら、もう二度と、痛いのも辛いのも嫌だ……)
それは、あまりにも純粋で、強欲な「願い」だった。
***
次に彼が感じたのは、匂いだった。
あの四畳半の淀んだ空気ではない。
肺の奥底まで洗い流されるような、圧倒的な植物の香りだ。
雨上がりの森のような、湿り気を帯びた土の匂い。
押し潰された若草の青臭さ。
そして、熟れた果実が発酵しかけたような、濃厚で甘美な芳香。
「……ん?」
瞬はゆっくりと瞼を持ち上げた。
飛び込んできたのは、暴力的なまでの「色彩」だった。
頭上を覆うのは、天蓋のように広がる巨木の枝葉だ。
太陽の光が幾重にも重なる葉を透過し、エメラルドグリーン、ライムグリーン、深緑と、無限の緑のグラデーションを描き出している。
葉の隙間からこぼれ落ちる光の粒(木漏れ日)が、スポットライトのように地面の苔を照らし、そこには見たこともない極彩色の花々が咲き乱れていた。
風が吹く。
ザワワワワ……と、森全体が巨大な楽器になったかのような葉擦れの音が響き渡る。
その風に乗って、名も知らぬ鳥たちのさえずりが、オーケストラのように重なり合った。
あまりにも鮮やかで、あまりにも生命力に満ちた世界。
「ここ……どこだ?」
瞬は身を起こした。
体が軽い。
羽毛になったかのような軽やかさだ。
昨夜まで感じていた腰の鈍痛も、目の奥の疲れも、すべてが消え失せている。
まるで、錆びついた歯車をすべて新品に交換し、最高級のオイルを注ぎ込んだ機械のように、全身が滑らかに駆動するのを感じた。
彼は立ち上がり、自分の手を見つめた。
何の変化もない、見慣れた手だ。
だが、拳を握りしめると、掌の中で空気が悲鳴を上げて圧縮されるような、奇妙な力が漲っているのが分かった。
状況は不明だ。
だが、瞬の脳内では、長年培ってきた「物語の知識」がフル回転し、一つの結論を導き出していた。
彼はニヤリと口角を吊り上げた。
「間違いない。これは……『勝ち確』のやつだ」
恐怖も不安もなかった。
あるのは、これから始まる「自分中心の物語」への、子供のような期待だけ。
彼は自分の仮説を検証すべく、足元に転がっていた手頃な小石を拾い上げた。
川原で水切りをするような、軽いフォーム。
「とりゃ」
手首のスナップを利かせ、目の前にそびえ立つ大岩に向かって、小石を放った。
ドォォォォォォォォン!!!!
鼓膜をつんざく爆音が轟いた。
小石が指先から離れた瞬間、空気がガラスのように砕け散った。
音速を超えた衝撃波が白い霧となって発生し、周囲の草木を根こそぎなぎ倒す。
小石は赤い熱線を帯びた流星となり、大岩に直撃――いや、貫通した。
直径五メートルはある巨岩が、内側からダイナマイトを爆発させたかのように粉砕される。
岩の破片が散弾銃のように森中に飛び散り、土煙が高々と舞い上がった。
シーン……。
静寂が戻るまで、数秒。
舞い上がった土煙が晴れると、そこには大岩の代わりに、ぽっかりと口を開けた巨大なクレーターができていた。
地面がえぐれ、黒い土が湯気を立てている。
「……」
瞬は自分の指先を見つめ、そしてクレーターを見た。
普通の人間なら、ここで恐怖するだろう。「自分は何か恐ろしい怪物になってしまったのではないか」と。
だが、瞬は違った。
彼の思考回路は、都合の良い方向へしか繋がっていない。
「物理法則、仕事放棄しすぎだろ!」
ツッコミを入れつつも、その顔は緩みきっていた。
「すげぇ……。これ、俺の力? マジで? チートってレベルじゃなくない?」
彼は笑いが止まらなかった。
腹の底から湧き上がる全能感。
これまで自分を縛っていた「常識」や「限界」といった鎖が、音を立てて千切れ飛んでいく快感。
「最高だ。俺の人生、第三部完結!」
意味不明なことを叫びながら、彼はガッツポーズをした。
「次はジャンプだ。身体能力のテストといこうか」
彼は膝を軽く曲げた。
イメージは、体育の授業の立ち幅跳び。
地面を蹴る。
その瞬間、足元の地面が爆発した。
ズドンッ!
ロケットの発射台のように土が吹き飛び、瞬の体は弾丸となって空へ射出された。
風切り音が「ヒュンッ」という鋭い音から、「ゴォォォォッ」という轟音に変わる。
森の木々が一瞬で緑の絨毯になり、さらに小さくなって苔の染みのように見えたかと思うと、視界は青一色に染まった。
雲。
真っ白な入道雲を、彼は一瞬で突き抜けた。
周囲の音が消えた。
濃紺の空。
眼下には、緩やかな曲線を描く地平線。
海と陸地がパッチワークのように広がり、白い雲がゆっくりと流れている。
「うっそぉ……」
成層圏近くまで到達した瞬は、無重力の中で手足をバタつかせた。
寒さは感じない。
酸素が薄いことによる息苦しさもない。
ただ、あまりにも広大な世界を独り占めしているという、震えるような征服感だけがあった。
「見える……世界が見えるぞ! ここが俺の新しい庭か!」
彼は空中で一回転し、落下に移った。
普通なら死を覚悟する高度だが、今の彼には「ちょっと高い滑り台」程度の認識しかない。
「着地、任せろ!」
彼はスーパーヒーローのように片膝を立てたポーズを取り、重力に身を任せて急降下した。
ズガガガガガァァァン!!
森の一部が消滅した。
隕石の衝突にも似た衝撃。
舞い上がる土砂。
なぎ倒される大木。
濛々たる土煙の中から、瞬は何食わぬ顔で立ち上がった。
服についた埃をパンパンと払う。
「ふぅ。ちょっと派手すぎたかな。環境破壊ですみません」
口先だけで謝罪し、彼は周囲を見回した。
無傷である。
足の裏が少しジンジンする程度だ。
その時、背後の茂みがガサガサと大きく揺れた。
現れたのは、熊だった。
だが、ただの熊ではない。
体高は二階建ての家ほどもあり、全身が鋼のような赤黒い剛毛に覆われている。
両目には凶暴な光を宿し、口からは涎を垂らしている。
この森の生態系の頂点に君臨するであろう、凶悪な魔獣だ。
魔獣は瞬を見下ろし、雷鳴のような咆哮を上げた。
「グルルルルルルルッ!! グアァァァァッ!!」
ビリビリと空気が震え、小動物ならショック死しそうな威圧感。
しかし、瞬の目には違って見えていた。
彼の脳内フィルターを通すと、その恐ろしい魔獣は「経験値の塊」あるいは「チュートリアル用のカカシ」に自動変換されていたのだ。
「お、出たな中ボス! いや、最初の森だから雑魚キャラか?」
瞬は恐怖するどころか、目を輝かせて歩み寄った。
「いいねいいね、ファンタジーっぽい! その毛皮、高値で売れそう!」
魔獣が困惑したように動きを止める。
これまでの獲物は、自分の姿を見ただけで失禁し、逃げ惑ったものだ。
だが、この小さな人間は、あろうことか嬉々として近づいてくる。
魔獣のプライドが傷つけられた。
怒り狂い、丸太のような腕を振り上げる。
その一撃は、大岩をも砕く威力がある。
ブンッ!
豪速で振り下ろされた爪が、瞬の頭上へ迫る。
瞬はあくびを噛み殺しながら、右手を突き出した。
「はいはい、わかったから。お座り」
中指と親指を重ね、魔獣の額めがけて、軽く弾く。
デコピン。
パチンッ。
乾いた音が響いた――直後。
ドッゴォォォォォン!!
魔獣の巨体が、砲弾のように水平に吹っ飛んだ。
木々をバキバキとへし折りながら、一直線に森を切り裂いて飛んでいく。
「グ、グエェェェェェェ……」
情けない悲鳴を残し、魔獣は遙か彼方の空の彼方へと消えていき、最後にはキラーンと光って見えなくなった。
「……あれ?」
瞬は自分の指を見つめた。
「力加減、ムズくね?」
まあいいか、と彼はすぐに思考を放棄した。
彼にとって重要なのは、自分が最強であるという事実と、これから始まる楽しい冒険のことだけだ。
瞬は太陽の位置を確認した。
森の切れ目から、遠くの方にうっすらと街の影が見えるような気がする。
「よし、目標決定。まずは街だ。そしてギルドだ。何より……」
彼はニヤリと笑った。
「美少女だ!」
彼の原動力は、実にシンプルで、俗物的で、そして強烈な「欲望」だった。
世界を救うつもりなんてない。
魔王を倒す義務感もない。
ただ、ちやほやされたい。
美味しいものを食べたい。
可愛い女の子と仲良くなりたい。
そんな、誰にでもあるありふれた欲望が、この強大な力と結びついた時、世界にとってどれほど迷惑な存在になるのか――彼はまだ知らない。
瞬は鼻歌交じりに歩き出した。
彼が踏みしめるたびに、地面がミシリと悲鳴を上げ、彼が通った後の道は、まるで台風が通過した後のように草木がなぎ倒されていたが、本人は「ハイキング日和だなぁ」としか思っていなかった。
頭上では、極彩色の鳥たちが、新たな災害の誕生を告げるように、甲高い声で鳴き叫んでいた。
光あふれる森。
どこまでも明るく、残酷なほどに美しい世界。
そこは、瞬にとっての「楽園」であり、同時に、彼が他者の痛みを知ることを拒絶する「遮断された世界」でもあった。
こうして、世界を揺るがす(物理的に)石頭の英雄の、能天気な冒険が幕を開けたのである。
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