第2話:雨の宿場町と、欲望の商人 ~「もっと欲しい」という心が、鬼を作る~


空が泣いていた。

しとしと、という風流な降り方ではない。まるで天が巨大なバケツをひっくり返し、地上の穢(けが)れをすべて洗い流そうとしているかのような、暴力的で冷徹な豪雨だった。


街道沿いの大きな宿場町、「レイン・エンド」。

ここは物流の要所であり、欲望の交差点だ。石畳は黒く濡れそぼり、無数の蹄(ひづめ)が泥を跳ね上げる。街全体が、湿気を含んだ重い空気に包まれていた。そこには、濡れた犬の毛のような獣臭さと、屋台から漂う焦げた油の匂い、安酒の酸っぱい香り、そして何よりも人間たちが発散する「欲」のような、むっとする熱気が混じり合っている。


その冷たい雨の中を、一人の少女が歩いていた。

メイである。

村を追い出された彼女は、ボロボロの外套(ローブ)を頭から深く被り、まるで幽霊のようにふらついていた。お腹と背中がくっつく、という表現があるが、今のメイの場合、お腹と背中が通り越して入れ替わっているのではないかと思うほどの空腹だった。


「……おな、か……すいた……」


視界がぐらつく。目の前の景色が、雨の波紋のように歪んでいく。

軒先で雨宿りをしている商人たちが、メイを見て眉をひそめる。「おい、なんだあの汚いのは」「こっち来たら塩まくぞ」という視線。

メイは慣れていた。前の村でもそうだった。期待なんてしない。誰も助けてなんてくれない。

そう思って、泥水を避ける気力もなく、水たまりの中を歩いていた時だ。


「おーい! そこの、濡れネズミみたいな嬢ちゃん!」


頭上から、ひしゃげたような声が降ってきた。

メイがのろりと顔を上げる。そこには、腹の出た中年男が立っていた。宿屋兼食堂「金のガチョウ亭」の店主、ガルドだ。脂ぎった額に汗を浮かべ、揉み手をしながらメイを見下ろしている。その目は、獲物を値踏みする肉屋のような、冷徹な計算の光を宿していた。


「死にそうな顔してんじゃねぇよ。飯、食わせてやろうか?」


メイの瞳(隠しているが)が、わずかに揺れた。

罠かもしれない。いや、確実に裏がある。でも、今のメイにとって「飯」という単語は、あらゆる警戒心を吹き飛ばす魔法の呪文だった。

彼女はコクンと頷くと、糸が切れた操り人形のように、ガルドの店の中へ倒れ込んだ。


***


「ふむ……。磨けば光る、どころの騒ぎじゃねぇな」


ガルドは、タオルで顔を拭いたメイを見て、金貨を数える時のような下品な笑みを浮かべていた。

メイの顔立ちは、濡れた髪が張り付いていてもなお、神々しいほどに整っていた。薄汚れた服を着ていても、そこだけスポットライトが当たっているかのような存在感がある。

ガルドは計算高い男だ。彼は「可哀想だから」助けたのではない。「使える」と思ったから拾ったのだ。


「いいか、嬢ちゃん。タダ飯なんてこの世にはねぇ。食った分は働いてもらう。俺の店で看板娘をやれ」

「かんばん……むすめ?」

「そうだ。客に愛想を振りまいて、酒を運ぶ。お前のその顔なら、男どもはイチコロだ。売上が倍増する音が聞こえるぜぇ!」


こうして、メイの「看板娘修行」が始まったのだが――それは、ガルドの誤算であり、店の客にとっては悪夢と爆笑の始まりだった。


「い、いらっしゃいませ……」


メイは、ガチガチに緊張していた。

「笑顔を作れ」と言われたので、必死に口角を上げてみる。しかし、普段笑わない筋肉を無理やり動かした結果、その表情は「獲物を前にした捕食者」か「呪いの藁人形を打ち付ける寸前の般若」のような、戦慄の形相になってしまった。


「ひっ!?」

入ってきた客が、メイの笑顔を見て悲鳴を上げて後ずさる。


「ちげぇよ! もっとこう、優しく! 目を細めて!」

ガルドが怒鳴る。

メイは「優しく」という言葉を、「相手を油断させて急所を突くための擬態」と解釈し、無表情のまま目だけを細めた。それは完全に、暗殺者の目だった。


「……おい、あの姉ちゃん、すげぇぞ」

「ああいう『冷たい系』も、悪くないかもしれん」

予想に反して、Mっ気のある客たちがざわつき始めた。


続いて、配膳の業務だ。

メイの身体能力は、常人のそれを遥かに凌駕している。それが裏目に出た。


「ビール三つ、お待ちどう!」

メイはジョッキを三つ持ち、テーブルに置こうとした。

「ドンッ!!」

という音と共に、分厚い木のテーブルに亀裂が入った。ジョッキの底がテーブルにめり込んでいる。

客たちは静まり返り、震える手でジョッキを持ち上げようとするが、めり込んでいて抜けない。


「あ、すみません。力加減が……」

メイが慌ててジョッキを引き抜くと、勢い余って中のビールが天井まで噴き上がり、雨漏りのように客の頭に降り注ぐ。


「ぎゃあああ! 冷めてぇ!」

「す、すみません! すぐに拭きます!」


メイは雑巾を手に取り、客の頭を拭こうとする。その動きは、まるで残像が見えるほどの高速回転。

「あだだだだだ! 剥げる! 頭皮が剥げるぅぅぅ!」

客は磨き上げられたボウリングの玉のようにピカピカになった頭を押さえて転げ回った。


さらに厨房では、悲劇が起きていた。

「辛いスープを一丁!」という注文が入る。

メイは「辛い=刺激」と認識し、棚にあった赤い香辛料の瓶を手に取る。「これくらいかな?」と振るが、手元が狂って瓶ごと鍋に落としてしまった。

「あっ」

回収しようとしたが、もう溶けている。

「……まあ、いいか」

メイのその「まあいいか」は、後に「地獄の釜茹で事件」として語り継がれることになる。


運ばれてきた真っ赤なマグマのようなスープを飲んだ客は、一瞬で顔色が青から赤、そして紫へと変化し、口から火を吹きながら店を飛び出していった。

「水ぅぅぅぅ! 雨水でもいいから飲ませてくれぇぇ!」


店内は阿鼻叫喚。

しかし、奇妙なことに客足は途絶えなかった。

「あの看板娘、またテーブル割ったぞ!」

「今日は誰が激辛スープの餌食になるんだ?」

「あの冷たい目で『殺すぞ』って見下されたい……」

メイのポンコツぶりと、圧倒的な美貌のギャップが、退屈を持て余していた荒くれ者たちの心を鷲掴みにしてしまったのだ。

「金のガチョウ亭」は、連日満員御礼となった。


***


夜、閉店後の静けさの中。

雨音だけが響く店内で、ガルドは売上金を数えていた。ジャラジャラという硬貨のぶつかる音が、彼にとっての至福の子守唄だ。

メイは、賄いの冷めたスープを啜りながら、その背中を見ていた。


「すごい……こんなに」

「おうよ。これが世の中の真理だ」


ガルドは銀貨を指で弾き、空中でキャッチする。

「いいかメイ。人間ってのは信用できねぇ。昨日の友は今日の敵、愛だの恋だのは季節が変われば腐っちまう生モノだ。だがな、こいつは違う」


彼は硬貨をランプの光にかざす。

「金は裏切らねぇ。重さがある。輝きが変わらねぇ。誰が持っても価値が同じだ。これさえあれば、雨風もしのげるし、誰かに頭を下げる必要もねぇ。この世で唯一、絶対的な『命綱』なんだよ」


メイの心に、その言葉が冷たい水のように染み込んでいく。

前の村で、彼女は「人との繋がり」を求めて、裏切られた。人の心は変わる。優しかったお婆さんも、一瞬で鬼になった。

でも、この銀貨はどうだ?

メイはガルドから一枚の銀貨を受け取る。ずしりと重い。冷たくて、硬い。

この硬さが、今のメイには心地よかった。


(そうか……。私が欲しかったのは、これだったのかもしれない)


形のない「優しさ」なんて頼りないものに縋(すが)るから、崩れた時に痛いのだ。最初から、この変わらない「重み」だけを信じていれば、傷つかずに済む。

「もっと稼ぎたいです、ガルドさん」

メイの言葉に、ガルドはニヤリと笑った。

「いい目になってきやがった。そうだ、もっと欲しがれ。その渇きが、お前を強くするんだ」


メイは勘違いをしていた。

喉が渇いた時に海水を飲めば、一瞬は潤った気がするが、すぐにさらに激しい渇きに襲われる。

「もっと欲しい」「今のままじゃ不安だ」

それは、「安心」を手に入れたのではなく、終わりなき「渇望」のランニングマシンに飛び乗った瞬間だった。


***


そんな歪(いびつ)な日常が、唐突に終わりを告げる日が来た。

その日も外は激しい雨だった。雷鳴が遠くで唸り、窓ガラスを震わせている。


バンッ!!

蹴破られた扉から、泥だらけの男たちが雪崩れ込んできた。

「金を出せ! あるだけ全部だ!」

盗賊団だ。雨音に紛れて侵入し、閉店間際の隙を突いてきたのだ。

客はもう帰っている。店にいるのはガルドとメイだけ。


「ひ、ひぃっ! 助けてくれ!」

ガルドは腰を抜かし、カウンターの裏に隠れようとするが、大男に襟首を掴まれて引きずり出される。

「この豚野郎が、溜め込んでるのは知ってるんだよ!」

剣先を喉元に突きつけられ、ガルドの顔から血の気が引いていく。


メイは、厨房の入り口で立ち尽くしていた。

(逃げようと思えば、逃げられる)

彼女の身体能力なら、窓を破って逃走するのは容易い。ガルドはただの雇い主だ。恩はあるが、命をかける義理はない。

だが、彼女の脳裏に浮かんだのは、あの銀貨の重みだった。

「金は裏切らない」

「ここが、お前の居場所だ」

もしガルドが殺され、店が焼かれたら? またあの、寒くてひもじい放浪生活に逆戻りだ。

(嫌だ。失いたくない。私の……居場所を!)


「……離して」


メイの声は低く、地を這うようだった。

盗賊の一人が振り返る。「あ? なんだこのアマ、命が惜しくねぇの……ぶべらっ!」

言い終わる前に、男は紙屑のように吹き飛んでいた。メイが投げた丸椅子が、男の顔面に直撃したのだ。


「な、なんだと!?」

「やっちまえ!」


盗賊たちが一斉にメイに襲いかかる。

狭い店内での乱闘。メイは人間離れした動きで剣を避け、拳を叩き込む。

「うぉおお!」

しかし、多勢に無勢。一人の剣が、メイの頭をかすめた。

ビリッ。

鈍い音と共に、メイが顔を隠していた分厚い布が切り裂かれ、宙を舞う。


雷光が閃いた。

その青白い光に照らされたのは、乱れた銀髪の間から覗く、鮮烈な紫の瞳だった。


時間が止まる。

殴りかかろうとしていた盗賊の拳が、空中で静止する。

「……む、紫の瞳……?」

男の声が震えていた。この地方に伝わる、「紫の瞳を持つ者は、関わる者すべてに破滅をもたらす」という迷信。それは、幼い頃から彼らの骨髄に染み付いた恐怖だった。


「化け物だ……」

「呪われるぞ! 逃げろ!」

金のことなど忘れ、盗賊たちは蜘蛛の子を散らすように店から逃げ出した。恐怖という本能が、欲という理性を凌駕したのだ。


後に残されたのは、荒らされた店内と、肩で息をするメイ。そして、床にへたり込んだガルドだけ。


「……助かった、のか?」

ガルドが震える声で呟く。

メイは布を拾い上げようとせず、ゆっくりとガルドの方を向いた。

「ガルドさん、大丈夫ですか? 私……」

言いかけて、メイは言葉を飲み込んだ。


ガルドの目が、恐怖で見開かれていたからだ。

盗賊に向けられていた目と同じ。いや、それ以上に冷たく、汚いものを見る目。


「お前……その目」

ガルドは後ずさりし、カウンターの上の計算機(そろばんのようなもの)をガシャンと落とした。

「し、知らなかった。お前が『忌み子』だったなんて……」


「……私、店を守りましたよ」

メイは縋(すが)るように言った。「強盗を追い払いました。売上も無事です。だから……」


「出て行け!!」


ガルドの絶叫が、店内に響いた。

「ふざけるな! その目が知れ渡ってみろ! 客なんて一人も来なくなる! 俺の店は終わりだ!」

「でも、私は……」

「お前がここにいるだけで、俺の金が逃げていくんだよ! 疫病神め! 恩を仇で返しやがって!」


ガルドは手近にあった塩の壺を掴むと、中身をメイに投げつけた。

白い粒が、メイの濡れた髪や頬に張り付く。傷口に塩が染みるが、それ以上に胸の奥が焼け付くように痛かった。


(ああ、やっぱり)


メイは悟った。

ガルドが愛していたのは「メイ」ではない。「利益を生む道具」としてのメイだ。

そしてメイがガルドに求めていたのも、彼自身ではなく、「安心できる場所」という条件だった。

お互いに相手そのものを見ていなかった。

「自分にとって都合がいいか、悪いか」。その天秤が傾いた瞬間、関係などシャボン玉のように弾けて消える。それが、執着で結ばれた関係の正体だ。


「……わかりました」


メイは静かに言った。弁解も、懇願もしなかった。

ただ、床に落ちていた自分の給金代わりの銀貨を一枚、拾おうと手を伸ばした。

「触るな!」

ガルドがその手を踏みつける。「それは俺の金だ! 呪われた手で触るんじゃねぇ!」


メイは手を引っ込める。踏まれた指の痛みよりも、その言葉の冷たさが骨身に染みた。

彼女は何も持たず、破れた布だけを握りしめ、背を向ける。


扉を開けると、外はまだ激しい雨だった。

冷たい風が吹き込み、店内の温かい空気を奪っていく。

メイは振り返らずに、闇の中へと足を踏み出した。


背後で、乱暴に扉が閉まる音。そして、かんぬきが下ろされる音が聞こえた。

それは、世界がメイを拒絶する音だった。


雨は冷たく、容赦がない。

泥まみれの靴。塩に塗れた頬。

メイは雨空を見上げる。頬を伝うのが雨なのか涙なのか、自分でもわからなかった。


「……金も、裏切るじゃんか」


小さく呟いたその言葉は、雨音にかき消されて誰にも届かなかった。

手の中に残ったのは、何も掴めなかったという虚無感だけ。

「もっと欲しい」「失いたくない」と願えば願うほど、失った時の穴は大きく、暗くなる。

メイは、自分が作り出した「期待」という名の鬼に心を食い荒らされながら、あてもなく歩き出した。


次の街へ。

あるいは、もっと深い絶望へ。

冷たい雨は、夜明けまで降り止むことはなかった。


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