「化け物」と石を投げられた紫の瞳の少女が、最強の英雄に「綺麗だ」と言われて泣き崩れるまで。絶望と勘違いから始まる、痛くて優しい異世界救済譚
第1話:黄金色の麦畑と、かりそめの楽園 〜「幸福」とは、「崩れることが確定している積み木」である〜
「化け物」と石を投げられた紫の瞳の少女が、最強の英雄に「綺麗だ」と言われて泣き崩れるまで。絶望と勘違いから始まる、痛くて優しい異世界救済譚
Gaku
第1章:紫の瞳の放浪者
第1話:黄金色の麦畑と、かりそめの楽園 〜「幸福」とは、「崩れることが確定している積み木」である〜
秋の陽は、燃え尽きる寸前の蝋燭(ろうそく)のように、世界を最も美しく照らし出していた。
辺境の農村「ハーベスト」。その名の通り、収穫の最盛期を迎えたこの村は、見渡す限り黄金色の海に沈んでいるようだった。
大地を覆う麦の穂が、乾いた風に撫でられてサワサワと音を立てる。それはまるで、大地そのものが安らかな寝息を立てているかのようだ。風が吹くたびに、天日で干した藁(わら)の匂いと、かまどから漂う焼きたてのパンの香ばしさ、そして豊かな土の匂いが複雑に混じり合い、鼻孔をくすぐりながら通り過ぎていく。
空はどこまでも高く、吸い込まれそうなほど青い。そこに浮かぶちぎれ雲は、傾きかけた夕陽を浴びて、鮮烈な茜色から紫がかった群青色へと、刻一刻とグラデーションを変えていく。
「美しい」という言葉だけでは足りない。この風景には、生きとし生けるものが冬の眠りにつく前の、切ないほどの生命の輝きが満ちていた。
そんな、絵画のように完璧で穏やかな黄金色の世界に――異物が混入した。
「……む、り」
麦畑を分断する一本道を、泥のように重い足取りで歩く影があった。
ボロボロのローブを頭からすっぽりと被り、幽霊のようにフラフラと揺れている。その影の正体――メイは、自身の胃袋が奏でる悲痛なオーケストラを聞きながら、薄れゆく意識の中で走馬灯を見ていた。
(最後に食べたのは、いつだっけ……三日前? いや、四日前の木の実? あの渋いやつ……)
空腹とは、単に腹が減るということではない。世界から色が失われ、思考が泥沼に沈み、立っていること自体が「苦行」へと変わる現象のことだ。
メイの身体能力は常人を遥かに凌駕している。だが、それは燃費が最悪であることの裏返しでもあった。今の彼女は、燃料切れで墜落寸前の高級戦闘機のようなものだ。
目の前に、村の入り口が見える。
村長の家らしき大きな建物の前に、収穫されたばかりの干し草が山のように積まれているのが見えた。
その干し草が、メイの目には、湯気を立てる巨大なモンブランに見えた。あるいは、極上の羽毛布団か。
「あ、ふとん……」
思考回路がショートした。
メイは残された全てのエネルギーを脚部に集中させ、地面を蹴った。
本来なら、優雅に着地するはずだった。しかし、空腹による平衡感覚の欠如は致命的だった。
彼女の体は放物線を描き、頭から真っ逆さまに干し草の山へと突っ込んだ。
ズボォォォォン!!
激しい音と共に、干し草が爆発したように舞い上がる。
静寂が戻った後、そこには奇妙なオブジェが完成していた。
黄金色の山から、二本の細い足だけが垂直に突き出し、ピクリとも動かない。
それはまるで、湖面から足だけを出して殺された、ある有名な推理小説の被害者のようであり、あまりにもシュールで芸術的な「野垂れ死に」の光景だった。
***
「おお、なんと!」
「天から! 天から人が降ってきたぞ!」
村中が大騒ぎになったのは、それから数秒後のことである。
村長とその家族、そして野次馬たちが干し草の山を取り囲み、突き出た足を引き抜いた。
藁まみれになって出てきたのは、泥で汚れてはいるものの、この世のものとは思えないほど整った顔立ちをした少女だった。
意識を取り戻したメイは、数十人の村人たちに至近距離で顔を覗き込まれ、ヒッと息を飲んだ。
(やばい、逃げなきゃ。また石を投げられる……!)
反射的に身構えるメイ。しかし、予想された罵声は飛んでこなかった。
「な、なんとお美しい……」
村長が、震える声で言った。
「泥にまみれてなお、この輝き! まるで泥中の蓮の花のようだ!」
「見ろよ、あの肌の白さ! 陶器みたいだぞ!」
「あんな高い空から落ちてきて無傷なんて、人間業じゃねぇ!」
「もしや……今年の豊作を祝いに、女神様が使いをよこしてくださったんじゃあるめぇか!?」
(……はい?)
メイは瞬きをした。
村人たちの目は、恐怖ではなく、キラキラとした尊敬と好奇心で輝いている。
田舎特有の閉鎖的なコミュニティにおいて、外部からの来訪者は「敵」か「神」かの二択になりやすい。そして今回は、メイの顔面偏差値が異常に高かったことと、登場シーンが派手すぎたことで、完全に「神」のルートに入ってしまったようだ。
「あ、あの、私はただの通りすがりの旅人で……」
メイが消え入りそうな声で否定するが、村人たちの妄想機関車は止まらない。
「旅人? いやいや、ご謙遜を! その気品、ただものではありませんぞ!」
「わかった! 隣国の姫君だ! お忍びで視察に来たにちげぇねぇ!」
「姫様! ハーベスト村へようこそ!」
一瞬にして「女神の使い」から「隣国の姫」へと設定が変更され、歓迎ムードは最高潮に達した。
その時、村長の娘(流行に敏感なお年頃)が、メイの顔を覆う大きな眼帯布を指差した。
「ねえ、その顔の布、どうしたの? お怪我?」
メイの心臓が跳ね上がる。
右目を覆う分厚い布。その下にある「紫の瞳」こそが、彼女が世界から拒絶される理由だ。
ここを見られたら終わりだ。また追われる。また痛い思いをする。
焦ったメイの口から出たのは、苦し紛れすぎる言い訳だった。
「こ、これは……ファッションです!」
「……ファッション?」
「は、はい! 都では今、片目を隠すのが……ナウいんです! 最先端の流行なんです!」
一瞬の沈黙。冷や汗が背中を伝う。
しかし、次の瞬間、娘が黄色い声を上げた。
「やっぱりぃぃぃ!! 私もそうじゃないかと思ってたの! なんかミステリアスで素敵だもん!」
「おお、そうなのか! さすが都、わけのわからん……いや、洗練された格好が流行るもんじゃのう!」
「眼帯がオシャレ! 新しい! 俺も明日からやろう!」
(……チョロい)
メイは安堵のあまり、膝から崩れ落ちそうになった。
この村の人々は、善良だが、あまりにも人を疑うことを知らなすぎる。あるいは、自分たちの見たいようにしか世界を見ていないだけなのかもしれない。
「姫様、腹が減っておるのでは? さあさあ、今夜は収穫祭だ! 手伝って……いや、是非とも我々の祝いの席に!」
こうしてメイは、なし崩し的に村の収穫祭に参加することになった。
***
祭りの準備は、戦場のような忙しさだった。
「タダ飯を食うわけにはいかない」というメイの生真面目さと、空腹による判断力の低下が、新たな喜劇を生んだ。
「姫様、その麦の束を運んでくれれば……」
「はい、わかりました」
メイは言われた通り、麦の束を持ち上げた。一つではない。近くにあった二十束ほどを、一度に、だ。
人間の背丈の倍はある巨大な麦の山を、小脇に抱えて「どこへ置けばいいですか?」と涼しい顔で尋ねる。
「ひ、姫様!? 力持ちすぎませんか!?」
「あ、いえ、これは……テコの原理的な……体の使い方のコツで……」
さらに、興奮した暴れ牛が柵を破って飛び出してきた時だ。
村人たちが「危ない!」と叫んで逃げ惑う中、メイは逃げ遅れた子供を庇うように前に出た。
牛の突進が迫る。角が目前に迫ったその瞬間。
メイは無意識に、牛の眉間にデコピンを放った。
パチンッ。
乾いた音が響いた直後、数百キロはある巨体が衝撃波を受けたように空中で静止し、白目を剥いてドサリと倒れた。
シーンと静まり返る広場。
メイは自分の指を見て、青ざめた。(やっちゃった……!)
恐る恐る振り返ると、村人たちは口をポカンと開けて固まっている。
弁解しようとしたメイより先に、村の長老が震える手で拝んだ。
「あ、あれは……王家に伝わる秘拳『牛殺しの指弾』……!」
「すげぇ! 姫様は武術の達人でもあったのか!」
「あんな細い腕のどこにそんな力が……いや、これが王族のオーラか!」
「よっ、姫様! 日本一! ……いや、世界一!」
ドン引きされるどころか、評価は天井知らずに上昇した。
周囲が勝手にメイを美化し、何をしても「さすが姫様」というフィルターを通して解釈してしまう。
それは滑稽な光景だったが、同時にメイにとっては、生まれて初めての「肯定」される体験でもあった。
***
夕暮れ時、祭りの準備が一段落した頃。
村外れのベンチで休んでいたメイに、一人の老婆が近づいてきた。
手には、湯気の立つ木の器を持っている。
「ほれ、食いな。腹が鳴りっぱなしじゃないか」
老婆の顔は、乾燥した大地のように深い皺が刻まれていたが、その瞳は夕陽のように温かかった。
差し出されたのは、野菜と肉を煮込んだ素朴なスープ。
「……いいんですか?」
「何言ってんだい。あんた今日、誰よりも働いてたじゃないか。姫様だか何だか知らないが、腹が減ってちゃあ生きていけないよ」
メイは器を受け取った。手のひらに伝わる熱が、冷え切っていた心までじんわりと染み込んでいく。
一口、口に運ぶ。
根菜の甘みと、肉の旨味が溶け出したスープ。
派手な味付けではない。けれど、今まで食べたどんな料理よりも美味しかった。
気がつけば、メイの目から涙がこぼれ落ちていた。
「おやまあ、泣くほど腹が減ってたのかい」
老婆は優しく笑って、メイの背中をさすった。その手はゴツゴツしていて、土の匂いがした。
「何も言わなくていい。辛いことがあったんだろう? 泣きたい時は泣けばいい」
そして、老婆は決定的な言葉を口にした。
「ここを、故郷だと思っていいんだよ。ずっとここにいればいい」
その言葉は、メイの胸の奥底に眠っていた「渇き」に火をつけた。
ずっと、居場所が欲しかった。
誰かに「いていいよ」と言って欲しかった。
今のこの温もり。村人たちの笑顔。黄金色の風景。
(ここなら……暮らせるかもしれない)
「期待」という名の甘い毒が、メイの全身に回っていく。
それは、砂漠で水を求めて彷徨う旅人が、蜃気楼を見て「あそこに行けば助かる」としがみつく心理に似ていた。
もし、自分の正体を隠し通せたら。
もし、このまま「姫様」という役を演じ続けられたら。
この幸せな時間が、明日も、明後日も続くのではないか?
そう願ってしまった。願うこと自体が、苦しみの始まりだとは知らずに。
***
収穫祭のクライマックス。
広場の中央で大きな焚き火が焚かれ、人々が歌い、踊る。
炎の赤と、夜の帳が降り始めた空の群青が混ざり合う、妖しくも美しい時間帯。
メイもまた、村人たちの輪の中で手拍子をしていた。
心は満たされていた。「明日も、畑仕事を手伝おう」そんな未来の計画さえ立てていた。
その時だ。
「ママー! 木から降りられないー!」
広場の端にある大きな樫の木の上で、男の子が泣き叫んでいた。祭りの興奮で登ったはいいが、足場を失ってしまったらしい。
「危ない!」
枝がミシリと音を立てて折れる。
男の子の体が宙に投げ出された。
思考する時間はなかった。
メイは地面を蹴り、矢のような速さで子供の落下地点へと滑り込んだ。
両腕で子供をしっかりと受け止める。
「……っ!」
衝撃は殺したが、その勢いでメイ自身も転がり、地面に激しく打ち付けられた。
「坊主! 大丈夫か!?」
村人たちが駆け寄ってくる。
子供は無傷だった。「うん、お姉ちゃんが助けてくれた……」
安堵のため息が広がる。
「よかった……姫様、ありがとうございます! お怪我は……」
村長の言葉が、途中で凍りついた。
駆け寄った村人たちの足が、ピタリと止まる。
焚き火の炎が、パチパチと音を立てて燃えている。
それ以外の音が、世界から消えたようだった。
メイは、ゆっくりと顔を上げた。
地面に打ち付けられた拍子に、顔を覆っていた布が外れ、遠くへ飛んでしまっていたことに気づかずに。
揺らめく炎の光に照らされて、露わになった右目。
それは、闇夜の中でも鮮やかに発光するかのような、妖艶で、不吉なほどに美しい「紫色の瞳」だった。
「あ……」
メイの喉から、空気が漏れる。
一瞬の静寂が、永遠のように感じられた。
さっきまで「姫様」と呼んで称えていた村人たちの顔が、スローモーションで歪んでいく。
尊敬、親愛、感謝。それらが、オセロの駒が裏返るように、一瞬にして正反対の色へと塗り替わっていく。
恐怖。
嫌悪。
そして、排除への衝動。
「紫の……瞳だ……」
誰かが呟いたその声は、乾いた草に火がついたように、一気に燃え広がった。
「災いを呼ぶ魔女だ!」
「騙された! 姫なんかじゃない、化け物だ!」
「子供に触るな! 呪われるぞ!」
先ほど助けた子供の親が、メイから子供をひったくるように奪い取り、後ずさりした。その目は、汚物を見る目だった。
「いや……私は……」
メイは震える声で何かを言おうとした。けれど、言葉は喉に詰まって出てこない。
カラン、と乾いた音がした。
足元に何かが転がってくる。
それは、先ほど老婆がスープを入れてくれた木の器だった。
顔を上げると、あの優しかった老婆が、鬼のような形相で立っていた。
「出てお行き!」
老婆の声は、スープの温かさなど微塵も残っていない、氷のように冷たい響きだった。
「あんたみたいなのがいると、村が穢れる! 今すぐ出てお行き!」
石が飛んできた。
一つ、また一つ。
額に当たり、鋭い痛みが走る。けれど、胸の奥の痛みに比べれば、そんなものは蚊に刺された程度にも感じられなかった。
(どうして……)
さっきまで、笑い合っていたのに。
家族だと言ってくれたのに。
ずっとここにいていいと、言ってくれたのに。
メイが見ていた「温かい村人たち」は幻だったのか。
それとも、村人たちが見ていた「素敵な姫様」が幻だったのか。
確かなことは一つだけ。
「期待」という幻が消えた後には、残酷な現実だけが残るということ。
メイは逃げ出した。
弁解も、抵抗もせず、ただ嵐の中の小船のように翻弄され、逃げるしかなかった。
背後から浴びせられる罵声。
「塩をまけ! 二度と土を踏ませるな!」
「魔女め! 呪いを持って去れ!」
村の入り口。
夕暮れ時にはあんなにも美しく輝いていた黄金色の麦畑が、今は月明かりの下で冷たく黒ずんで見えた。
ざわざわと揺れる穂の音が、まるでメイをあざ笑う無数の囁き声のように聞こえる。
麦の壁が、メイを拒絶するように立ちはだかっている。
メイは涙を拭うことも忘れ、闇の中へと走り続けた。
振り返ることはできなかった。
振り返れば、そこにあったはずの「楽園」が、最初から存在しなかったことを認めてしまうことになるから。
人々が見ていたのは「メイ」という人間ではなかった。
彼らは「自分の理想」という鏡に映った幻を見て、それを愛していただけなのだ。
鏡が割れれば、愛は憎しみへと反転する。
それが、人の心の、どうしようもない「仕組み」だった。
冷たい風が吹き抜け、冬の足音がすぐそこまで近づいていることを告げていた。
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