あるSYについて
※※※
「ではこちらにお名前を……あっ」
「宅配です。こちらの名前を確認してください。……いや、それにしてもすごいですね。漢字まで一緒だなんて」
ある日から、世界は酷く居心地が悪いものになった。
小説に、映画に、動画に、SYという名を見ない日はない。それだけ有名で、だからこそ嫌だった。
宅配伝票に書かれた名前とこちらの顔をじろじろと見比べてくる失礼な配達業者からひったくるようにして荷物を受け取り、乱暴にハンコを押す。やや慌てた表情でハンコの押された紙をひっこめる様子に少しだけ溜飲が下がった。
家の中に戻り、ため息をつく。築四十年を迎える一軒家に廊下の軋む音だけがむなしく響いた。
宅配業者の言動を思い出し、SYは乱暴に段ボールに張り付いたガムテープを引っぺがす。ああいった対応は珍しいものではなかった。今日の午前中だって役所で書類を書いた際、受付の女性は露骨に驚いた顔をしていた。
それだけSYという名前は有名だった。
悪役として。
「なんだっていうのよ」
段ボールの中に入っていた大容量のシャンプーとリンスを大げさな緩衝材から救い出しながら、SYは呟く。子供が独り立ちをしてから、ひとり言が多くなった。
人並みの家庭に生まれ、職に就き、結婚し、子供をひとり育て上げた後はパートでお喋りをしながら日々の稼ぎを増やす日々。面白味がないと言われこそすれど、けしてSYの人生は後ろ暗いものではない。
だが、ここ最近有名になってきた創作の中のSYは違っていた。
ある時は主人公の最初の壁となる犯罪者。
ある時は閉鎖的な学園でおきた事件に関係する教師。
ある時は主要キャラクターの過去に大きな傷をつけた親。
すべてが同じ小説家の手による作品だった。ここ数年で有名になった若手作家で、ジャンルを選ばず書き上げる手腕と、何故か毎回同じ名前の悪役を出すという謎めいた行動に一部カルト的な人気があり、今や映画にアニメ原作にと引っ張りだこだという。
シャンプーたちを風呂場そばの棚に並べた後、SYはささくれだった気分をなだめようとテレビリモコンに手を伸ばす。世間一般でテレビはオールドメディアと揶揄されるが、SYの世代にとってはまだ立派な娯楽のひとつである。
ぷつりと電源がつき、繰り返されるミステリードラマの特番があるという宣伝が流れ、俳優がにこやかにこちらへ向かって手を振った後、
『あの人気作品がついに映画化!』
SYは即座に電源ボタンを押した。リモコンをソファーに放り投げ、代わりにスマホで動画サイトをスクロールし、短くまとめられた動画に流行りの音楽をくっつけたものに目を通す。
『SY考察! SYという名前に隠された恐ろしい秘密三選!』
三十秒も続かなかった。
スマホも置き、SYは色あせて端っこが折れ曲がっている雑誌を手に取り、腰を下ろす。どこを見てもSYという名前が飛び込んでくる中で、過去の情報だけが安心できる場になりつつあった。
「おはようございます! あっ、ちょっとちょっと。これ、よかったら。おいしいんですよ。このお菓子」
気づけば夕方で、急いでパート先へと足を運んだ。挨拶をしながら正面入り口から厨房を通り抜け、更衣室を含め三畳ほどのバックルームで油にぬめった床から靴を引き上げる。
先客は勤怠用のパソコンの前に座っていた。指さす先を見れば壁に押し付けられるようにして置かれた狭いテーブルの半分を菓子箱が陣取っている。中身はすでに数個とられた後だった。
軽く会釈をしてから更衣室に引っ込み、ロッカーに黒のリュックを押し込む。それでもう話は終わりだと示したつもりだったが、最近シフトが重なるようになったパート仲間は話したりないらしく、壁越しに会話を続けてきた。
「息子たちが旅行に行ってね、そのお土産なんですよ。夫婦で二泊三日の温泉旅行ですって」
「へえ、いいわねえ」
「いいわよね、若いって。……そういえばそっちの娘さん、ご結婚の予定は?」
「こっちはずっと仕事仕事って、全然よ」
「あらぁ、いいじゃないですか。バリキャリって感じで」
何が結婚だ。お前の息子はできちゃった婚のくせに。
心の中で愚痴りながら、SYは着てきた服を雑に押し込める。
選択の自由が多くなった昨今ではあるが、それでも結婚というのは一種のステータスであることに違いはなかった。できたものは良く、できないものは劣っている。そんな昔ながらの価値観がSYたちの間ではまだ鍋底の焦げのようにこびりついている。
制服に着替え、SYは菓子箱から菓子を拝借し、同僚を押しのけるようにして勤怠をつけた。少しは嫌がるかと思ったが、いかにもいいとこ育ちでマイペースを許容されてきた奥さんといった雰囲気のパート仲間は表情ひとつ歪めない。そのくせ仕事はきっちりとこなすので、もうSYにできることはなかった。
もっと卑屈そうで、自信がなさそうで、要領が悪かったらよかったのに。
それだったら指摘という形で、もっとあれこれ言えたのに。
SYの脳裏に数年前、入社してから数か月で辞めていった社員の顔がおぼろげに浮かぶ。
自身の娘と同じくらいの年齢の社員は、はっきり言ってできない子だった。仕事は遅い。掃除は細かな汚れを見つけられない。いつもおどおどとして自信がなく、わからないことがあると気安く声をかけてくる。
やる気がないのだと思った。自分たちよりよほどいい給料をももらっているくせに、仕事というものの責任がわかっていない。
だからSYは指導に精を出した。
こちらを呼ぶ声小さいからとはあえて無視し、「忙しいのに呼んでもくれないなんてね」と聞こえるように話し、声の小ささを教えてやった。
ミスを重ねることがいかにいけないことなのかわからせるためにミスのたび「あの子なにもできないのね」と周りと話し、伝票の内容を間違えたときは「あの子が嘘をつくもんで」と言動の不注意さを戒めた。
自身がつけ麺のつけダレにごま油を間違えて二重に混ぜてしまった時は焦ったが、それも事前の仕込みをあの新入社員がやったせいだとわかれば即座に対応し「余計な手間を増やしてくれちゃって」と周りに話した。マニュアル通りではあったが、現場はそれだけでは回らない。ごま油がすでに入っているともっとわかりやすくせず、マニュアル通りにすればいいというその精神が駄目なのだと教えてやった。
何度も何度も繰り返した。些細なミスだって、見逃さなかった。何かするたびに同僚と耳打ちしあった。もっと優しくしてやれと店長から苦言を呈されてはいたが、その程度では指導にならないと思ったのだ。
だというのに、新入社員は辞めてしまった。きっと元々成長できない人間だったのだろうから仕方がない、とSYは思う。が、堂々と指導できる人物がいなくなったことはSYの心に少なくないストレスを生んだ。だというのに、あの一件以降、新しい新入社員はあてがってもらえず、入ってくるパートはSYより要領がいい人物ばかり。
SYは思う。
あの子、もっと
「──でね。あっ、そうそう、知ってます? 次の新作の話!」
「えっ?」
「ほら、最近話題でしょう? 小説から映画になったっていう」
「あ、え、ええ」
「あの作家さんの新作が出たらしいんですよ!」
「はあ」
手洗いを終えた途端、横から挟まれた言葉にSYはわかりやすく顔を顰める。まさか仕事先でまで、あの作家の話を聞くとは思わなかった。
パート仲間といえば好きな情報以外は脳に入れない主義なのか、SYのしかめっ面に気づいた様子もなく楽しそうに話題の作家の話を続ける。
「あっ、そういえばあなたの名前って、あの例のキャラクターと同じよね? 漢字もそっくり一緒なんて、偶然ってすごいわぁ」
「例のって、あの悪役のことでしょ? 同じなんて、ねえ?」
「ええっ、そうかしら? なんかこういうのって、創作が現実に侵食してきてるみたいで、わくわくしません?」
SYは付き合っていられないと顔を背け、用意された非接触型の体温計を慣れた手つきで使い、自身の体温を測る。その間もパート仲間はキャラクターと同じ名前なんて羨ましいだとかべらべらと一方的に話し続けた。
カルト的人気があることは知っていたが、こうして身近で目にするとやはり寒気がする。悪人と同じ名前で羨ましいなど、どうして思えようか。
顔を背けながらSYはスチールラックに紐でひっかけられたボールペンを手に取り、体温計に映った数字を流れるように記入する。
「あっ、あっ、それに、ほら見てくださいよ! 次の作品の情報!」
さすがに、見なければ角が立つだろうと思った。
仕方なくSYは言われるままに体温表から顔を上げ、こちらに向けられたスマホの画面に視線を移した。一瞬でも見れば満足するだろうと業務的に画面の文字を追いかけ、
『パート殺人鬼』
手からボールペンが滑り落ちる。
「次はミステリーで、なんと犯人は最初からSYってわかってるんです。今回のSYはパート業務をする一般的な主婦に見せかけた殺人鬼で、何人も新入社員を殺してるんですね。で、謎に包まれた犯行手段や、SYの精神を紐解いていくことに焦点を当てた作品らしくって」
皿がぶつかり合う音が、食洗器が上がる音が、雑多な客の足音が油が跳ねる音が指示を飛ばす店長の声が、何もかもが、遠い。
ペン先が床で跳ね返り、コロコロとつま先に向かって転がる。
「ね、職業まで一緒なんて、すごい──」
これまでも、似ていると思ったことはあった。そのたびに勘違いだと信じてきた。
だが違う。これはきっと、偶然なんかじゃない。
おそらく近づいてきているのだ。あちらのほうから。
狙っているのだ。SYが悪人として有名になることを。
そう思った瞬間ぐにゃりと床が崩れた感覚に、SYは制服が汚れるのも構わずに膝をつく。肺の底が急に圧迫されたかのように呼吸が浅くなり、視界がぼやける。
それは間違いなく、SYにだけ向けられた刃に違いなかった。
「だ、大丈夫ですか? 店長さんに伝えてきましょうか?」
気遣うような言葉にSYは震えながら首を振ることしかできない。
おそらく例の小説家がSYを犯罪者だと糾弾していることは確実で、しかし思い当たる節などあるわけがなかった。SYはただ普通に、生きてきただけなのだから。
意味のわからない悪意が恐ろしい。得体のしれない憎悪が恐ろしい。変わっていく自身の名前の意味が怖くてたまらない。
きっとSYより若く、カリスマ性がある例の作家はこれからも作品を作り続けるだろう。SYという名前を使って。刷り込み続けるのだろう。これからも。ずっと。SYにしかわからない犯行声明は、もしかしたらいつしか、ただのSYを見る目すら変えてしまうかもしれない。
──創作が、現実に侵食してくる。
この名前が飲み込まれてしまう日も、きっと近い。
遠い視界の中でSYは考える。自分は、こんな苦しみを受けるようなことをしただろうか。一体
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