あの日のチューハイと親友の真実
舞夢宜人
第1話 視線の高度と、得体の知れない安堵
四月の夜気は、まだ冬の余韻を含んだまま、若者たちの熱気で白く濁っていた。大学近くの格安居酒屋は、新入生歓迎コンパの喧騒で飽和している。安っぽい揚げ油の匂いと、床にこぼれたビールの酸っぱい匂いが混ざり合い、鼻腔の奥にねっとりと張り付く。佐倉悠真は、その騒音の渦中にありながら、まるで深海に沈んだ潜水艦の中にいるような閉塞感を覚えていた。周囲では出身地や趣味を尋ね合う定型的な会話が飛び交い、愛想笑いの仮面が次々と消費されていく。悠真もまた、その薄っぺらい儀式に参加し、適当な相槌を打ちながら、ジョッキの縁についた水滴を親指で何度も拭っていた。喉に流し込む冷めたビールは、渇きを癒やすどころか、胸の奥にある空洞を冷たく際立たせるだけだった。
「ねえ、君も工学部?」
隣に座った茶髪の男が、馴れ馴れしく肩を組んできた。酒臭い息がかかる。悠真は反射的に体を強張らせつつも、口角を無理やり引き上げて頷いた。高校時代の記憶が、不意に脳裏をよぎる。友情という名の脆い硝子細工が、恋愛という熱病であっけなく砕け散った日々のことだ。だからこそ、この新しい場所では、もっと強固で、もっと純粋なものを求めていた。性別の壁も、恋愛の泥沼も存在しない、透明で硬質な関係性。だが、目の前で繰り広げられるのは、欲望と見栄が透けて見える浅ましい求愛のダンスばかりだ。悠真は愛想笑いを維持することに限界を感じ、トイレに立つふりをして席を外した。
店の奥にある狭い通路は、換気扇が壊れているのか、熱気が澱んでいた。古びたポスターが剥がれかけた壁に手をつき、深く息を吐き出す。孤独ではない。ただ、求めている「何か」が見つからない焦燥感が、胃の腑を重く圧迫しているだけだ。そう自分に言い聞かせ、顔を洗うために洗面所へと向かった時だった。
その人物は、手洗い場の鏡の前で、前髪を弄っていた。
悠真の足が止まった。視線が吸い寄せられる。まず目に飛び込んできたのは、その背の高さだった。雑多な人混みの中では埋もれてしまう自分の視線が、水平に、何の障害もなくその人物の瞳と交錯したからだ。身長百八十センチ。自分と全く同じ高さにあるその瞳は、喧騒を遮断するような涼やかな切れ長だった。色素の薄い茶色の瞳孔が、鏡越しに悠真を捉える。
「……すごい人混みだね」
鏡の中の彼が、苦笑いを浮かべたまま言った。その声は低く、しかし耳に心地よいハスキーな響きを含んでいた。男にしては線が細すぎるようにも見えたが、パーカー越しに覗く鎖骨のラインや、整いすぎた顎の輪郭は、中性的な美しさを放っている。少女漫画から抜け出してきたような「王子様」然とした風貌だが、その立ち姿には、周囲の浮ついた空気とは一線を画す、凛とした孤独が漂っていた。
「ああ、空気が薄くて酔いそうだ」
悠真は自然と本音を漏らしていた。普段なら初対面の相手に弱音など吐かない。だが、同じ目の高さを持つこの相手には、なぜか防衛本能が働かなかった。彼は濡れた手をハンカチで丁寧に拭きながら、くるりと振り返る。その動作の一つ一つが洗練されており、無骨な男ばかりの工学部において、異質な輝きを放っていた。
「僕は柊木。柊木翠。君は?」
「佐倉悠真」
翠と名乗った彼は、にっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。その瞬間、クールな印象が崩れ、人懐っこい少年の顔が覗く。そのギャップに、悠真の心臓がトクリと小さく跳ねた。それは恋などという甘ったるいものではなく、もっと切実な、パズルの最後のピースを見つけた時のような衝撃だった。
「悠真、か。いい名前だ。ねえ、ここから抜け出さない? もっと静かな場所で、まともな酒が飲みたい気分なんだ」
翠の提案は、悠真が心の奥底で叫んでいた願望そのものだった。断る理由はなかった。いや、断れば、この得体の知れない安堵感を二度と手に入れられない気がした。
「同感だ。コンビニでチューハイでも買って、公園に行こう」
二人は共犯者のように視線を交わし、喧騒の渦巻く居酒屋を後にした。夜風が火照った頬を撫でる。並んで歩く二人の影は、街灯の下で長く伸び、驚くほど似通った形を描いていた。歩幅も、視線の高さも、呼吸のリズムさえもがシンクロしている。悠真はポケットの中で拳を握りしめ、掌に滲む汗を感じた。これだ。俺が求めていたのは、この対等な共鳴だ。
近くの公園のベンチに腰掛け、缶チューハイのプルタブを開ける。プシュッという小気味よい音が、静寂な夜に響いた。
「乾杯」
「乾杯」
安っぽいレモン味の炭酸が、喉を刺激しながら流れ落ちる。だが、先ほどまで感じていた不快な味とは全く違っていた。隣に座る翠は、長い脚を組み、夜空を見上げている。その横顔はあまりにも整っており、月光を浴びて白磁のように輝いていた。
「俺さ、ずっと探してた気がするんだ」
酔いのせいにして、悠真は言葉を紡いだ。
「何を?」
「誰かに合わせたり、背伸びしたりしなくていい相手。ただ隣にいるだけで、自分が自分でいられるような……そんな親友を」
翠が視線を戻し、悠真をじっと見つめた。その瞳の奥に、一瞬、揺らぎのような光が差したのを悠真は見逃さなかった。それは喜びのようでもあり、どこか怯えを含んだ諦念のようでもあった。だが、翠はすぐにその感情を飲み込み、軽快に肩を竦めてみせた。
「奇遇だね。僕もだよ、悠真。女の子と話すより、君みたいな奴と飲んでる方が百倍楽しい」
「はは、違いない。女は面倒だからな」
「……そう、だね。面倒だ」
翠の声が、ほんの僅かに沈んだ。しかし、悠真はその微細な変化に気づくことはなかった。目の前にいる「最高の男友達」との出会いに、胸が高鳴りすぎていたからだ。この夜、悠真は確信した。過去の裏切りも、孤独も、すべてはこの出会いのためにあったのだと。隣に座るこの美しい友人が、決して超えてはならない境界線を隠し持っていることなど、知る由もなかった。
二人の影が重なり合う。それはまるで、一つの檻の中で寄り添う二匹の獣のようだった。友情という名の檻の鍵は、まだ固く閉ざされたままである。
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