第5話 はいでるもの1
子供の頃から、何度もその道は通っていたはずなのに、それに気がついたのは、つい先日のことだった。
犬の散歩の途中に、何気なく見上げた、見慣れた建物のはずだった。
いつもと、なんら変わらない。
このマンションは、真理子の小さい頃にはなかったけれど、でも、ここに建って、もう十年は経つかな。
昨日も一昨日も、ここを通った。学校の行き帰りに、通るからだ。
昨日も一昨日も、気が付かなかった。でも、どういうわけか、その日は、たまたま気がついてしまった。
いつからこんなことになっていたのか、わからない。
でも気がついたとき、ちょっとゾッとした。
(汚いな)
二階建てのマンションの、二階外壁の、端。一部分。
一メートル四方か、二メートル四方か。ちょっと距離があるので、正確なことはわからないけれど。
どういうわけか、そこだけ、黒く煤けたように汚れて、元の色がわからないほどだった。
他の場所は、元の壁の色であろう、くすんだ薄い緑色なのに、そこだけ。
全体的に汚れているなら、自然に、もしくは素材による老朽化かな、と思えるのに、それは、本当に部分的な汚れに見えた。
見る角度を変えてみたけど、光の加減でそう見えているわけでもなさそうだ。
カビとか、焦げ跡にも見える。
あまりにそこだけ汚いので、なんとなく気になって、理由を考えてみた。
隣の家の木が、近くまで枝を伸ばしているので、その木から、なにかの成分が出ているのかもしれない。もしくは、そこだけ雨がやたらと当たる、とか。
後は、誰かが継続的に、なにかを流している、とか?
(誰かって、そりゃあ、ここの住人しかいないよね)
汚れている壁の近くには、角部屋の窓がある。
真上ではないけれど、手を伸ばせば汚れている場所まで、じゅうぶん届きそうだ。
(でもそれだと、こんなふうに汚れるかなあ)
汚れは、正方形に汚く見える。
(壁の内側に長く、腐ったゴミを溜めてたら、こんなふうになるとか、あるかも?)
あまり想像したくはないけれど。
こんなふうに外側にまで染み出してくるなんて、よっぽどだ。
ちなみに、その場所で、変な匂いに気がついたことはない。
すぐそばの植え込みが野良猫のトイレゾーンになっているようで、そういった意味での 『匂い』 は気にしたことがあるけれど、それも、思い返してみれば、ちょっと前までの話。
今ではもう、ぜんぜんだ。
そもそも子供の頃は、近所でしょっちゅう猫を見かけていた気がするけれど、最近は野良猫がすごく減ったと思う。
たまに、近所の飼い猫が散歩だか、脱走だかしているのを見かけるくらい。
地域で野良猫を減らそう、みたいなキャンペーンのポスターを見たことがあるので、そのせいだろう。
(やっぱり猫は、家の中で飼ってあげるのが一番だもんね)
犬が先に進もうと引っ張ったので、そんなことを考えながら、堀真理子は再び歩き出した。
西南高校一年生。彼女の家には、猫もいる。
母親が動物好きで、少し前に、保護された野良猫の里親になったからだ。
真理子自身も結構、動物好きだと思う。
そうでなかったら、毎日犬の散歩に付き合ったりはしないだろう。
(やっぱり汚いなあ)
学校帰りに、たまたまそこで立ち止まったのは、電灯がチカチカ点滅していたからだ。
多分、防犯灯。
こういう場合は町内会に連絡するのかな? などと考える。
不穏に明かりが点滅する、傘の向こうに、件のマンションはあった。
なんだかどんよりとした、重苦しい空気を感じる気がする。
恐らく天気のせいだろう。
時間はまだ、外灯がつくには早い時間だ。
でも今日は、朝から雨が降っていて、昼間から暗かったから、それで。
(汚い)
外壁全体が雨で濡れていても、そこだけ、そう思う。
雨でも、その汚れはまったく落とされないらしい。
いつから、なぜ、どうして。
ここはこんなにも、汚れているのだろう。
気になる。
自分でそれを確かめたいとか、調べたいということはないけれど。
そこまでの興味もないし。ちょっと、怖いし。
できれば関わり合いたくない。
でも、もし何のリスクもなく、真相を知ることができるなら、知りたいと思う。
(きっと、知ってみたら、大したことじゃないパターンのやつ)
そうも思うけれど、それならそれでいい、と思う。
そうであった方が、いい。
次の日も帰り道、そこで足を止めたのは、
(あ、外灯のこと、忘れてた)
思い出したからだ。
(もう一回見て、チカチカしてたら、ママに言ってみよっかな)
その日は晴れていたので、外灯がつくまでには、まだずいぶん時間があるようだったが、犬の散歩で、また通るかもしれないし、と思う。
(あの汚れは……あんまり気にしないでおこ)
そう思った、矢先だった。
ふと。
眼の前をふらふらマンションの方へ向かって飛んでいった蝶が、急に軌道を変え、『その場所』 を避けたように見えた。
(まさか、偶然でしょ)
でもこの間も、同じような光景を見た気がする。
気にしてみると、マンションに向かって伸びた植物も、そこだけ、ずいぶんと枯れているように思う。
逆側は、あんなに青々葉が茂っているのに、マンション側に伸びている部分は枝しかないのだ。
(枯れているの?)
まるでその場所だけ、空気が淀んでいるかのように……
(いやいや、考え過ぎなだけ!)
でも、だとしたら、近くの外灯がチカチカしていたのにも、なにか理由があるような気がしてきてしまう。
(負のエネルギー的な? ないない。偶然だってば)
気を取り直して、歩き出す。
でも、すぐに、
「そうだ」
思わず声を上げていた。
こういうことに、うってつけの人材が、近くにいるじゃないか。
近くなのか、遠くなのかは、よくわからないけれど。
なにしろ彼女は、ずっと近所に住んでいるだけで、疎遠になって、もうずいぶん経つ。
名前は、伊坂未遊。
真理子の幼馴染、というより、近所に住んでる同じ年の女の子ってだけ。
小学校も中学校も高校も同じだけれど、仲が良かった記憶は、一度もない。
だって、彼女は学校内でも有名な変わり者で。
昔から、ずっとそう。
考え方や言動も、ちょっと一般から離れていて、かなりのマイペース人間。
真理子にとっては苦手な人種だ。
昔は、親に言われて、あるいは学校の規則で、登下校を一緒にしたり、習い事が重なったりもあったけれど、高校生になった今では、接点などなにもなかった。
小学生以来、同じクラスになったこともないし。
そんな真理子でも、彼女の近況を一つ、知っている。
未遊は現在、オカルト研究会の、校内唯一の部員である。
ね、コレを訊くのに、うってつけの人材でしょう?
(ぶっちゃけ、あまり関わり合いたくないけど……あの子なら、なにか知ってるかも?)
未遊の連絡先は知らないが、家に行くのは簡単だ。
彼女の家は真理子のウチから歩いて一分もかからない場所にある、ちょっと古めかしい、一軒家。
なんなら、すぐそこだ。今からついでに立ち寄ることも、可能。
迷いながらも、ちょっと遠回りして未遊の家の前を通ってみると、こういう時に限って、彼女はいた。
チャイムを鳴らすまでもなく、庭で水を撒いていた。
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