第3話 からみつくもの3
それから数日後の日曜日は、両親とも仕事でいないと、前から聞いていた。
もともと二人とも、そんなに家にいる方じゃないし、妹だって、休日はいつも部活でいない。
Aくんはのんびり目覚めた。
いつもの、よくある日曜日だった。
……はずだった。
時間を確認しようとスマホに手を伸ばそうとしたが、違和感があった。
重いのだ、右手が、とても。
とんでもなく。
前にも同じようなことがあったが、比じゃないほど。
(なにが……)
指を動かし、感触を確認すると、髪だった。
髪が、いつものように纏わりついている。
いつもとは比べ物にならないほどの、量。
もじゃもじゃという異常な感覚。
ちょっとやそっとじゃ自由になりそうにない感触。
気持ち悪い。
そして、髪だけとは思えない、重さ。
左手で枕元に置いてあるスマホを、慣れない動作で確認すると、十時を過ぎていた。
部屋は、少し開いたカーテンから差し込む光で、明るい。だから、自分の右手がどうなっているかを確認するのは容易いことだ。
ちょっと腕を動かし、ちょっと頭を動かし、視線を向け、見ればいい。
だが、その勇気がなかった。
(寝ぼけているのかもしれない……)
なんだろう、息苦しい。
もう夏は終わったはずなのに、部屋を締め切っているせいだろうか。
蒸し暑い。
左手で額を拭うと、汗が吹き出していた。
指がぐちょりと濡れている。
もしかしたら、の話だけれど。
髪。
だけじゃなかったら?
例えば、そう、あまり考えたくないけれど、例えば。
この、重さ。
右手を動かすたびに、何かを、引き摺るような。
例えば、だけど。
指に絡む髪の先に、頭がついているかのような……。
「まさか、あり得ない……」
思わず口に出す。
そんなこと、あり得ない。
あってはならない。
だがこれまでも、あり得ない状況で、髪が。
見知らぬ、髪が。
指に。
Aくんはパニックになる自分を、ギリギリのところで抑えていた。
左手で押さえたはずの心臓は、どくどくと耳元で鳴っているかのような気がする。
気持ち悪くて、胸がムカムカする。
それはたぶん、この匂いのせいもあるだろう。
まるで魚が腐ったかのような、生臭い匂い。
こんな匂いがするものを部屋に置いた記憶は、ない。
だとしたら、なにが、こんなに。
「どうすれば……」
Aくんは部屋の中を見回す。
なにかないだろうか。
この状況を打破できる、なにか。
なんでもいいのに、なにもない。
そもそも、それにはまず、右手に絡まる重さの正体を知らねばならないだろうに、それを確かめるのは、絶対に嫌だった。
もし本当に、髪に頭がついていたら?
誰かの、頭だったら?
生首なんて、映画でしか見たことがない。昔の、時代劇の。
血は出ておらず、白く、不鮮明な、長い髪がざんばらになっている首だった。
コレも?
それが誰のものであっても、怖い。
身体がついていても、怖い。
頭だけでも、もちろん怖い。
死んでいても怖いし、生きて喋っていても、怖い。
どうなっていても、怖い。
怖い、怖い、怖い。
寒くもないのにガタガタ身体が震える。
夢なら、今すぐ目覚めてほしい。
Aくんは闇雲にスマホの画面をタッチした。
なにかをしていなければ、どうにかなってしまいそうだった。
が、左手だけでは、なかなかうまく操作できない。
そもそも指が、自分でも見たことないほど震えていて、少しもしないで電話を取り落としてしまった。
大きな音を立て、床を滑ったスマホは、起き上がらなければ取れない位置にまで行ってしまう。
(どうしよう……)
どうしようもなかった。
電話があったとしても、どうしていいか分からないままだ。
Aくんの知る、『普通の心霊現象』 といえば、時間が経つと消え失せて、
「あれ? 気のせいだったのかな」
なんて思ったりするものだが、これまで、『指に絡まる髪』 は消えてなくなることがなかった。
何度か寝ぼけて、夢だったこともあったけれど、それ以外は、たぶん。
妹のものだろう、とか母親のものかも、などと現実逃避することもあったが、ごっそり髪が絡んでいた時など、誰のか分からない、床に散らばった長い髪を掃除するのが、嫌で嫌で堪らなかった。
そのために、最近じゃ百均でビニール手袋まで買ったのだ。
コロコロの粘着ローラーも買ったけれど、汚れた紙を剥がす時、結局、手で触れなければならないので、たまにしか使っていない。
とにかく、だとしたら、だ。
この重さの正体だって、時間経過でなくならないかもしれない。
じゃあ、どうすればいいのか?
(誰かに助けを求めなければ)
と、思う。
自分の無実を証明してもらわなければ。
だって本当に、それが、首なら、確実に警察沙汰になるだろう。
これが悪質なイタズラだったとしても、それはそれで警察沙汰だ。
これまで、誰かが勝手に家に入り込んで、Aくんにイタズラしている可能性を、まったく考えなかったわけじゃなかった。
だが、昼間こそ誰もいないことが多いとはいえ、家族四人が生活する家の中に、誰かが毎日のように侵入し、ひと月の間、一切、気づかれないことが、あり得るだろうか。
かと言って、身内がこんなイタズラをするとは思えないし……
Aくんは今一度、右手を引いてみた。
やはり重さは、まだある。
そこには何かが、ある。
(もう一度、寝てしまおうか)
現実逃避すら考えてみたけれど、眠れるはずもなかった。
誰かに連絡してみようにも、誰か、が思い浮かばない。
最初に思いついたのは、先日、話をした妹だったが、まさか今すぐ、学校から帰ってきてくれ、とも言えない。
大体、
(誰かの頭を持っているかもしれないって言うつもりなのか……?)
髪についているのは頭だ、と言う先入観に支配されているだけで、髪がどこかに引っ掛かって、動かないだけかもしれないじゃないか。
いや本来なら、心当たりのない髪ってだけでも、かなりヤバい出来事だと思うけれど。
とにかく、結局やはり、誰かを呼ぶなら、まず、『それ』 が、『なにか』 を確かめるべきなのだ。
下手に大騒ぎしては、いい笑いものになる。
妹に連絡したって、
「まず、なにか確認しないと」
そう言われることは分かりきっていた。
分かっているけれど……
(思い切って確認するか?)
だが、本当に、それだけは嫌だった。
想像するだけで、寒気がする。息が上がる。
こんな狭い空間で、一人、そんなことをして、どうにかなったら、どうしようもない。
とにかく髪を手から髪を振り払おう、と試みた。
振り払って、一旦ここを逃げ出そう。
思う。
だが、今日はどういうわけか、左手を使っても、普段はすぐに振り払える髪から右手が抜け出せる気配はなかった。
量が多いせいか、複雑に絡まっているせいか。
それどころか、動かせば動かすほど、締付けはキツくなり、左手にまで絡まってきそうな勢いだ。
まるで、髪が意思を持っているかのように……
(まさか、そんなこと……!)
ピンポーン……
と。
聞き慣れた、玄関のチャイムの音が鳴った。
日曜のこの時間だと、荷物が来た知らせか、母親が親しくしている近所の誰かかもしれない。
とにかく、今のAくんにとっては、誰でも良かった。
この恐怖を共有できれば、誰でも。
なるべく意識しないように、慎重に立ち上がる。
右手がずしりと重い。
確かに、重い。
全身に鳥肌が立つ。
だが、動けないわけじゃない。
みし、と床を鳴らして、歩き出す。
歩ける。
やはり、どこかに引っ掛かっていたわけでも、髪の先に全身があるわけでもないようだ。
あるとしたら、首だけ。
もしくは、首っぽい、なにかだけ。
そこに、なにがあるのか。
一人で確認することだけは、絶対にしたくなかった。
でも、誰でもいい、誰かとなら。
もつれる足に気をつけながら廊下に出ると、ドアの縁に、『ナニカ』 がぶつかったようで、がこん、と音がした。
右手に、その反動が伝わる。
やはり気のせいじゃない。
確実に、ある。
いる。
急に、笑い出したい衝動に駆られたが、堪えた。
急かすようにチャイムがもう一度鳴り、Aくんは転がるように廊下を走り出した。
ふらついて、ガコンガコンとわざとのように壁にぶつかりながら、急ぐ。
とにかく、誰でもいいんだ。
この右手に絡まるナニカを、一緒に、見てほしい。
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