ソウルアンカー

@yudedako10

第1話 電子のざわめき

 蛍光灯が、ひどく寂しい光を放っていた。

 光源にしてはあまりに心もとなく、この空間の隅々まで光が届いているとは思えない。その光は、この建物の性格を象徴しているかのようだった。地方警察署の片隅──狭く、窓も小さく、壁には意味を失った標語『明るく、元気な乙区十三ストリート!』が、時間の経過と湿気によって角から剥がれかけている。


 その薄汚れた、息苦しい四角い部屋の隅で、日宮月歩(ひのみやげっぽ)は、椅子の背を軋ませ、足を机に投げ出して座っていた。蛍光灯から発される微弱な電気が彼をかすかにざわめかせる。手元には、何日も洗っていないのかと見紛うほどに汚れたカップ。その中には、茶色い液体が、泥水さながらに揺れている。月歩は、ざわめきをかき消すかのようにその液体をときおり啜りながら、部屋の端に積まれたテレビを見ていた。


 国会中継。スーツを着込んだ男たちの山が、意味があるのかないのか、ほとんど響きのない言葉をぶつけ合っている。月歩には無関係な話題が大半だったが、彼の関心をわずかに引く話があった。電子広告規制法案の改正である。

「非物質の設備ホログラム化について十分な計画がない。私の家族が住んでいる丙(へい)区も開発が進んでいない。予算編成の修正を急ぐべきだ」

 一人の男が声を荒げる。それは、既存の物理的なインフラを全て電子的なホログラムに置き換えるという、壮大な計画の遅延に対する不満だった。

その言葉に、反論はないようだが、賛成もまたないようだった。やがて、顎に重々しい髭を蓄えた男がマイクを手に取った。

「あなたの言っているところの一部は正しい。だが丙区にもホログラム化が進んでいる地域はある。いずれ全国そのようになるだろう。一昔前の……そう、6G回線のようなものだ。時間はかかるが必ず実現するのだから、待つがよろしい」

 そして、髭の男は、意味深な一言を付け加えた。

「何かがあれば、丙区にもあいつがやってくるだろう」

 男は、それ以上の説明をせずに引き下がる。議場に人工的な拍手が起こった。


 月歩の興味はもうテレビには向いていない。この液体は、一体どういう豆や機械を使ったら、あのビターバックスのような上質なコーヒーになるのだろうかと、どうでもいいことを考えていた。

 そして、彼はポケットを探り、タバコの箱を取り出す。一本残っていることを期待して、指で側面を叩くが、虚しく箱は潰れた音を立てただけだった。


 舌打ちが喉の奥で鳴った瞬間、扉が乱暴に開く。

「ベリー、扉は蹴らないでよ!すべてが資産なのよ。し・さ・ん!」

「なに言ってんだ、織部燈花(おりべとうか)様。この間俺様がこの扉を修理しただろ? 耐久性は……まあ4%程あがったんだ。あと、角度によっては蹴っても損傷はそこまでない!」

「そしてそこ!」

 織部燈花と呼ばれた女性が月歩の手を掴んだ。

「また吸おうとしてたでしょ」

「吸ってない。見てるだけ」月歩は、空の箱を握りしめたまま答える。彼は常に、最小限の言葉で、最大限の面倒を避けたがる。

「言い訳が中学生レベルなの」

「中学生はな、タバコ吸わないんだぜ」

 燈花は月歩の反論を無視し、掴んだ手を離すと、缶コーヒーを二つ月歩の机の上にカツン、と音を立てて置いた。その手つきは、月歩の生活様式への諦観と、彼を理解できるがゆえの、わずかな苛立ちを秘めていた。

「うわっ国会中継なんて見てるの? 月歩、あんたも政治に興味あるんだ。意外~」

 燈花は月歩の横まで近づき、液晶ディスプレイを覗き込む。

「興味なんてねぇよ」

「ああ、あるわけねぇよな」ベリーは勝手に納得し、リモコンを奪い取り燈花に渡した。

 燈花はリモコンを操作し、国会中継を通販番組へと変えた。画面には、ピカピカの全自動調理器が映し出されている。

「え、この全自動調理器ほしい! ベリー、こういうの作ってよ」

 燈花は、軽口を叩きながらも、ベリーの技術力を認めている。それは、彼らが良きチームとして機能するための、衝突と信頼のバランスだった。

「もちろん作れるぜ。だがこれはニセモノだな」ベリーは画面の機械を指差した。「中敷きの下に調味料を色々仕込んでおいて、ようやく半自動化するんだ。これを全自動だなんて……笑わせるぜ」

 彼にとって、機械の嘘を見抜くことなど、呼吸をするのと同じくらい容易なことだった。技術的なこととなると、彼は一線級だと思う。なぜこんな場末の警察に所属しているのか。


 燈花は、月歩に顔を向けて、急に真顔になり、情報端末を見せつけた。

「今回の調査はね、丙地区よ。第六ホロ・ストリート。あんたがさっき見てた、ホログラム化が遅れてるって言われてた地域の中でも、特に整った場所」

 髭のおっさんが、ホログラム化が進んでいると言っていた、数少ない地域だ。

「あそこで、ホロの輪郭が溶け出している。電子広告がノイズを出しているだけじゃない。広告自体が、まるで悪意を持っているみたいに、歪んでいるみたい」

月歩は、無言でカップのコーヒーを一気に飲み干した。

「ただの機器不良だろ? 俺達に出番はあるのか」月歩の返答は、いつもの、面倒くさいものを拒絶する態度だった。彼が望むのは、平穏な、そして静かな日常だ。

「あると思う。署長は『気まぐれなバグ』って言って放置モードだったけど、私はこの現象に、あんたの言う『ざわめき』と同じものを感じる」燈花は確信していた。月歩を理解できる数少ない人間として、彼の能力が発動する予感を察知していた。

「それに、今回のノロノロ電子の異常は、多分俺の専門分野だ」ベリーが割り込む。いつもかぶっているヘルメット型の電子スコープごしに、すべてがみられている気がした。

「丙区は、ホログラム化が遅れた分、古くて複雑な電子回路が残ってる。その古さと新しさの境目で、何か悪さをしてるヤツがいるんじゃないかな。俺のドローンで、電子の『影』を全部データとして捕捉してやる」

「月歩。あんたは『違和感』を辿るだけでいいの。先陣は私が切るし、技術関係はベリーに任せて」

燈花の言葉は、月歩の特異性を知っているからこその言葉であり、この面倒な世界での彼の存在を保証しようとする。

「行くわよ」燈花が月歩に背中を向ける。彼女の役割は、命令を下し、道筋をつけ、チームを機能させることだ。

月歩は、空になったタバコの箱をくしゃりと握り潰したまま、ポケットにしまった。彼の役割は、他者に認知されない異常と対峙すること。

三人は、それぞれが持つ役割と、複雑な信頼関係を背負い、この薄汚れた部屋を出た。


蛍光灯の冷たい明滅は、もはや月歩の神経を刺さない。なぜなら、彼自身の奥底で鳴り始めた電子のざわめきが、すでに部屋の光を凌駕していたからだ。彼を呼ぶ、都市の病の音。

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