三国志 女人伝 貂蝉 ~人前での辱めにはもう耐えられません! 呂布を手を組み暴君暗殺を企てます~

藤原やすみこ

第1話 かごの鳥

 男に生まれたかった……


 それは心臓に巻きつく黒い願望。


 美しい顔は祝福だと、人はうらやみます。


 しかし、わたくしにとって美貌びぼうなど、のろいでしかありません。


 王允様によって献上されて以降、わたくしは董卓様の御屋敷に移されました。


 絶世の美女──そんな飾り文句のついた、ひとつの贈り物。


 気まぐれに訪れる館のご主人様に眺められ、呼びつけられ、気まぐれに抱き寄せられる。


 わたくしはこの御屋敷で、籠の鳥のように飼われております。



 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 その夜も、呼び出しは唐突でした。


 侍女にうながされて寝所へ向かう廊下は、やけに長く感じられます。


 灯りに揺れる影が、ひどく歪んで見えました。


「来たか、貂蝉ちょうせん


 低い声が、薄暗い寝室に落ちます。


 厚い胸板を持つ巨体が、当たり前のように手招きしました。


 逃げ道はとうにありません。ここへ連れて来られたときから、一度も。


 近づけば、衣のそでをつかまれ、強い力で引き寄せられました。


 汗のにおいが鼻を刺し、肌にまとわりつく重みから逃げることはできません。


 それでも、びた声がわたくしの口から絶え間なくれ出ていきます。


 心は冷たいのに、身体は違うふるまいをする。

 この矛盾が、いちばん嫌でした。


(やめて……こんな自分、知らない……)


 強く目を閉じても、圧し掛かる董卓様の重みは消えてくれません。


 太い腕が肩と背を押さえつけ、逃げ道をふさぐように力をこめてきます。


 そのとき──


 ふと、窓のすき間から月の光が差し込みました。


 闇に沈んでいた寝所に、冷たい光が一筋。

 乱れた衣の隙間から覗く肌を、容赦なく照らし出しました。


「ほれ、外からも見えておるぞ」


 董卓様が、おもしろがるようにささやきました。


 寝所の外には、夜番の衛士たちが控えているはず。

 薄い戸一枚の向こうに、人の気配があります。


 その視線を想像した瞬間、稲妻のような羞恥が胸を貫きました。


「いやっ……見ないで……」


 思わず胸元をかばうように腕を寄せると、荒い手がその腕を乱暴に払いのけました。


「隠すでない。見せよ。さらせ」


 短い言葉が、むちのように背中を打ちます。


 抵抗できぬまま腕を下ろすと、月夜の冷気が胸元をなで、痛みに似た熱さが広がりました。


 恥ずかしさで、顔が焼けるように熱くなります。


 それでも逆らえば、もっとひどい目にうとわかっているため動けません。


(どうして……どうして、女なんかに生まれてしまったの……)


 心の中のつぶやきは、誰にも届きません。


「ははっ。震えておるな」


 董卓様は、わたくしの頬を指でなぞりました。


 その指先には、やさしさもいつくしみもありません。そこにあるのは、ただ玩具を見る目だけ。


「外では呂布が、耳を澄ませておるぞ」


 耳元へ落ちた声に、心臓が跳ねました。


「……え?」


「扉の向こうでな。今夜の『なき声』、聞き逃すまいとな」


 呂布将軍の顔が、脳裏に浮かびました。


 董卓様の護衛隊長。

 戦場では鬼神のように暴れ、百戦錬磨の猛将として知られる人。


 その人が、扉一枚隔てた向こうにいると思うと──。


(そんな……いや……)


 想像しただけで、全身がかっと熱くなりました。

 恥ずかしい。情けない。消えてしまいたい。


 それなのに、喉から押し出される声は止まってくれません。


「嫌がれば嫌がるほど、面白いわ」


 董卓様は、わざとらしく笑いました。


「女の泣き声など聞き飽きた。もっと無様に鳴いてみせよ。豚のようにな」


「そ、そんな──」

 言い返す前に、頬を軽くはたかれました。


 痛みはさほど強くありません。


 ですが、笑い声に混じるあざけりが、胸の奥を深くえぐります。


「ぶふうっ、ぶうぅぅ!」


 命じられるまま、喉の奥から声を絞り出しました。

 それは、自分でも耳を塞ぎたくなるほど、みっともなく震えた声でした。


「あーはっはっは。貂蝉よ、恥ずかしくないのか?」


 わたくしの声を聞く董卓様は、心底愉快そうに笑うのです。


(恥ずかしくないはず……ないでしょう?)


 叫びたくても、声になりません。


 歌や舞を笑われるのは構いません。

 未熟だった己を責め、さらに芸を磨けばいいのですから。


 けれど、これは違います。


 笑われているのは、わたくしの歌でも舞でもなく──

「女」という存在そのものなのですから。



 どれほど長い時間が過ぎたのか、もうわかりません。


 わたくしの震えも涙も、董卓様にとっては酒肴しゅこうのひとつ。


 そう思い知らされるたび、胸の奥で何かがすり減っていくのです。


 長い、長い夜でした。


 やがて、重くのしかかっていた気配がふっと遠のきます。


「ふん……よい具合であった」


 耳元でそんなことを言うと、董卓様は、さっさと身支度を整えました。


 わたくしのほうを、振り返りもしません。


 このまま背を向けられたら、本当に「物」として使い捨てられてしまう──


 そう思った瞬間、口が勝手に動きました。


「……いかないで……」


 自分でも驚くほど、かすれた声でした。


 しかし、その一言は、薄い空気にあっけなく飲み込まれていきました。


 戸が開き、重い足音が遠ざかっていきます。

 戸が閉まる音だけが、妙にはっきりと耳に残りました。


(ほんのひとときでもいい──)


 そっと、胸の内でつぶやきます。


(女として、とうとばれたかった)


 その願いは吐息にまぎれ、夜の闇に消えていきました。


 じんじんと痛む首筋に、先ほど強くつかまれた傷跡の感触が残っています。


 そのうずきだけが、わたくしがまだ生きている証のようでした。


 ――いっそ人であることを忘れられたなら。


 女に生まれたこと。それは呪いなのでしょうか。

 それとも、いつか祝福に変わる日が来るのでしょうか……。


 服に手を伸ばす力すらなく、乱れた衣のまま枕を濡らす夜が、また訪れるのでした。



****

R-18版もあります。

https://novel18.syosetu.com/n9754lj/

趣向に合わせお好きな方をお読みください。

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