第6話 幻想
遠くから聞こえていたサイレンの音は、近づくにつれて不協和音のような轟音へと変わっていった。
雪を踏みしめる足音が、ザク、ザクと、自分の心臓の鼓動と同期する。
西田は走らなかった。走って駆けつけるべき義理など、もはやどこにもない。
だが、引き返すこともできなかった。まるで磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、あるいは走光性の虫のように、彼は破滅の現場へと歩を進めていた。
冷え切った夜気の中に、焦げ臭い匂いが漂い始める。
それは単なる焚き火の匂いではない。化学繊維が溶ける刺激臭、建材が焼ける埃っぽい匂い、そしておそらくは生活そのものが灰になっていく、独特の饐えたような匂いだ。
角を曲がると、視界が一気に赤く染まった。
夜空に舞う雪片が、下からの強烈な上昇気流に煽られ、炎の照り返しを受けて茜色の火の粉のように舞い踊っている。
アパートが燃えていた。
映奈の住む、あのアパートだ。
二階の角部屋、さっきまで西田が立ち尽くし、吐瀉物と情事の残り香に塗れていたあの部屋から、巨大な炎の舌が窓を突き破って噴き出していた。
ガラスが割れる甲高い音が響く。
『うわあ、すげえ……』
『やっば、これ全焼じゃん』
『誰か逃げ遅れてんのかな?』
野次馬たちの声が耳に障る。スマホを掲げ、この非日常的なスペクタクルを記録しようとする無数の腕が、炎の逆光で黒いシルエットになって揺れていた。
彼らにとって、これは対岸の火事であり、無料のショーでしかない。
西田はその群衆の後ろに立ち、呆然と炎を見上げた。
熱い。
ここからでも、顔の皮膚が炙られるような熱気を感じる。
あの中に、いるのか。
あの男が。
西田の脳裏に、串本の顔がフラッシュバックする。西田を嘲笑い、尊大に踏ん反り返り、映奈の肉体を貪っていたあの男。
彼は今、どうなっている?
先ほどのLINEの写真にあった、燃え盛る黒い塊。あれが現実ならば、串本はもう人間としての形を保っていないだろう。
吐瀉物にまみれ、汚れた下着姿のまま、ゴミと一緒に焼却されている。
西田は吐き気を催した。だが、胃の中には安っぽいシュークリームの残骸と、苦いコーヒーしかない。こみ上げてくるのは酸っぱい胃液だけだ。
「……映奈」
西田は無意識にその名を呟き、視線を巡らせた。
彼女はどこだ。
LINEを送ってきたということは、生きているはずだ。外にいるはずだ。
野次馬の壁を避けるように、西田はアパートの裏手の方、公園へと続く路地側へと移動した。
消防隊員たちが怒号を飛ばし、ホースを抱えて走り回っている。規制線が張られようとしているが、混乱の極みでまだ完全に機能していない。
その規制線のギリギリ外側、電柱の影に、一人の影が佇んでいた。
周囲の喧騒から切り離されたように、あまりにも静かな立ち姿。
映奈だった。
西田は息を呑み、足を止めた。
彼女は、薄着だった。
あの部屋にいた時と同じ、薄手のニット一枚に、下はスウェットパンツ。足元はサンダル履きだ。この極寒の二月、雪の降りしきる屋外にいる格好ではない。
だが、彼女は寒さに震えていなかった。
腕組みもせず、ただ両手をだらりと下げ、真っ直ぐに燃え盛る自分の部屋を見上げている。
炎の赤が、彼女の白い横顔を照らしていた。
頬には黒いススがこびりついている。髪は乱れ、雪が白く降り積もっているが、彼女はそれを払おうともしない。
西田はおそるおそる、彼女に近づいた。
声をかけるべきか迷った。
彼女は今、何を考えているのだろう。恋人を焼き殺してしまった絶望? 住む場所を失った悲嘆? それとも、警察に捕まることへの恐怖?
しかし、近づいて見えた彼女の表情は、そのどれでもなかった。
彼女は、まるで美しい夜景でも眺めるかのように、うっとりとした目で炎を見つめていたのだ。
その瞳の中には、ゆらゆらと揺らめく紅蓮の炎がはっきりと映り込んでいた。彼女の世界には今、その赤色しか存在していないようだった。
「……映奈」
西田の声は、爆ぜる火の音にかき消されそうに小さかった。
だが、映奈はゆっくりと顔を巡らせた。
焦点の定まらない瞳が、西田を捉える。
一瞬、誰だかわからないような顔をした。それから、ふっと口元を緩めた。
「あ、西田くん」
あまりに日常的な、気の抜けた声。
だが、彼女の視線はすぐに西田から外れ、また炎へと戻っていく。
「……ふふ、すごいね。あんなに燃えてる」
まるで花火大会で巨大な花火を見上げた時のような、無邪気な感嘆だった。
西田は言葉を失った。
背後では家が燃えているのだ。中には人間がいるかもしれないのだ。それなのに、彼女のこの反応は何だ。
西田は一歩踏み出し、彼女の目の前に立った。焦げ臭い匂いが、彼女の体からも漂ってくる。
「お前……大丈夫なのか。怪我は」
彼女は自分の頬を指先で撫でた。ススが伸びて、白い肌をさらに汚す。
「ん? 平気だよ」
彼女は夢見心地のまま答える。西田の心配など、どこか遠い国の出来事のようだ。
西田はアパートを見上げた。二階の窓からは、黒煙と共に猛烈な火柱が上がっている。もう手の施しようがないほどに燃え広がっていた。
喉が渇く。心臓が早鐘を打つ。
聞かなければならない。
最も恐ろしい、しかし確認しなければならない事実を。
「……彼は?」
西田は、串本の名前を知らなかった。ただ「彼」としか呼べないあの男。
映奈は瞳の奥で、赤い舌をメラメラと踊らせながら、ぼんやりと答えた。
長い睫毛に雪の結晶が止まり、炎の熱で溶けて雫になる。
「……中で、寝てる」
その言葉は、あまりにも淡々としていた。
まるで「部屋でテレビを見ている」とでも言うような口調。
西田の背筋に、冷たい戦慄が走った。
「寝てるって……お前、助けなかったのか?」
声が震えた。
西田自身も逃げた身だ。偉そうなことは言えない。
だが、彼は部外者として逃げた。彼女は、あそこで彼と共に生きていたはずだ。直前まで体を重ね、愛を――いや、快楽を共有していた相手のはずだ。
映奈は首を傾げた。
子供がきょとんとするような仕草で。
「だって、重いんだもん」
彼女はそう言った。
「動かそうとしたんだけどね、重くて。それに、なんかヌルヌルしてて、掴めなかったの」
ヌルヌルしてて、掴めなかった。
西田は吐きそうになった。
彼女は、目の前で倒れている男を人間として見ていなかった。ただの不快な物体、生理的に受け付けない肉塊として処理したのだ。
「救急車は! 消防車は呼んだのか!? 大声で近所の人を呼ぶとか、いくらでも……」
「だって、汚いんだもん」
映奈が西田の言葉を遮った。
「ゲロまみれで、臭くて。私の服にまで付いちゃって。……そうしたら急に、全部どうでもよくなっちゃった」
全部どうでもよくなった。
その言葉が、西田の脳内で反響した。
人の命がかかっている場面で、出る言葉ではない。
彼女は、物理的に運べなかったから見捨てたのではない。
助ける価値を見出せなかったから、ゴミと一緒に燃やしたのだ。
西田は後ずさった。目の前の女が、未知の怪物のように見えた。
かつて愛した、控えめで優しかった映奈。
チェーンロックを忘れない慎重さを持っていた彼女。
家族の死を悲しむ西田を「重い」と言って切り捨てた彼女。
それら全ての像が歪み、崩れ落ちていく。
「タバコ、吸おうと思ったの」
映奈は独り言のように続けた。瞳は相変わらず、燃え落ちる我が家に釘付けだ。
「あんなことになっちゃって、どうしていいかわかんなくて。とりあえず一服して落ち着こうと思って。……でも、手が震えちゃって」
彼女は自分の右手を見つめた。細く、白い指先。
「火のついたまま、落としちゃった。そしたらね」
西田は眉をひそめた。
手が震えた?
数分前、西田が部屋を飛び出した時、彼女はふてぶてしい態度でソファに座り、虚空を見つめながら紫煙を吐き出していなかったか。あの時の彼女に、動揺している様子など微塵もなかったはずだ。
西田は、ぞくりとした。
彼女は嘘をついているのではない。
彼女の中では、事実が既にそのように書き換わってしまっているのだ。「可哀想な私」という物語のヒロインとして、手が震えてしまったという設定に、無意識のうちに記憶がすり替わっている。
その病的なまでの自己正当化と、責任という概念の欠落が、何よりも気味が悪かった。
映奈の声が、甘く弾んだ。
「青い火がね、床を走ったの。生き物みたいにシュボッて」
西田は想像した。
昏倒する男。ゴミの山。充満する揮発性のガス。
そこに落ちる小さな火種。
爆燃現象に近い燃焼が起きたはずだ。
「すっごく熱かった。でもね、綺麗だったの。ゴミも、あの人も、全部赤く溶けて……キラキラしてた」
映奈は恍惚とした表情で言った。その瞳孔が開いた真っ黒な瞳の中で、アパートの残骸が、串本という男の残滓が、激しく燃え上がっている。
「なんか、浄化されていくみたいだった」
狂っている。
完全に、壊れている。
西田は恐怖を感じた。
だが同時に、胸の奥底で、もっと暗く、ドロリとした奇妙な感情が蠢いた。
かつて西田から映奈を奪い、勝利者として君臨していた男。
西田を見下し、嘲笑っていたあの傲慢な男が、他ならぬ映奈自身の手によって、ただの可燃ゴミとして処理された。
その皮肉な結末に、西田は戦慄しながらも、昏い愉悦を覚えずにいられなかった。
ざまあみろという単純な感情ではない。
支配していたつもりの女に、これほどまでにあっけなく、無造作に焼き殺される。男という生き物の哀れさと、女という生き物の底知れぬ不条理さ。
西田の心は、憎悪を燃やす燃料さえ尽きかけ、代わりに冷たい虚無と納得感だけが広がっていた。
そうか。俺もお前も、結局はこの女の「気まぐれ」という災害に遭っただけだったんだ。
「お前……自分が何したか、わかってるのか」
西田は絞り出すように言った。
「人が一人、死んでるんだぞ。お前のせいで」
映奈はゆっくりと西田を見た。その瞳には、罪悪感の色など微塵もなかった。あるのは、底なしの空虚だけだ。
「私のせい?」
彼女は不思議そうに瞬きをした。
「彼が勝手に飲んで、勝手に吐いて、勝手に転んで死んだだけだよ? 私はただ、見ていただけ」
彼女は本気でそう思っている。
あえて殺そうとしたわけではない。だが、彼が死に向かうのを止めもしなかった。
いや、もっと単純で残酷だ。
彼女にとって、目の前で動けなくなった男は、助けるべき人間ではなく、処分されるべき粗大ゴミに変わっていたのだ。
彼女の精神構造は、善悪や法の及ばない、もっと原始的で無機質な場所にいるようだった。
「西田くん」
映奈が一歩、西田に近づいた。
生温かい風が吹き、彼女の髪が舞う。焦げ臭さの中に、微かに彼女が愛用していた甘い香水の残り香が混じっていた。
それは、あの部屋で嗅いだ「情事の残り香」と同じものだ。
「私ね、ずっとこうしたかったのかも」
彼女はアパートを指差した。瞳の中の炎が揺れる。
屋根が崩落し、火の粉が柱のように立ち上る。
「全部なくなればいいって。あの汚い部屋も、まとわりついてくる男も、面倒な人間関係も、全部燃やして、真っ白な灰になればいいって」
彼女の言葉は、西田の胸に鋭く突き刺さった。
面倒な人間関係。
そこには、家族を失って悲嘆に暮れる西田自身も含まれていたのだろうか。
彼女にとって、西田の悲しみも、串本の欲望も、等しく「処理すべき不燃物」だったのかもしれない。
「……俺も、燃やされたかったか?」
西田は自嘲気味に問うた。
映奈は答えなかった。ただ、炎を見つめたまま、薄く笑った。
その横顔は、聖女のように清らかで、悪魔のように残酷だった。
西田の家族が死んだ時、彼は泣いた。世界が終わったと思った。
だが、彼女は今、自分の世界を自ら終わらせて、笑っている。
この決定的な断絶。
西田は理解した。自分は、この女を愛していたつもりだったが、彼女の本質など何一つ知らなかったのだと。
あるいは、彼女自身すら、自分の空っぽな内面を持て余していたのかもしれない。その空洞を埋めるために男を漁り、埋まらなければ燃やす。
串本という男は、彼女の空虚というブラックホールに吸い込まれ、文字通り燃えカスになった犠牲者なのだ。
『下がってください! 危ないですから!』
遠くで警察官の怒号が聞こえた。
ようやく野次馬の整理がつき始めたのか、数名の制服警官がこちらへ向かってくるのが見えた。
だが、群衆の波は厚く、野次馬たちはスマホを掲げて道を譲ろうとしない。警官たちがここに到達するには、まだもう少し時間がかかりそうだった。
炎の爆ぜる音とサイレンの轟音に包まれた、奇妙な空白の時間。
エアポケットのような静寂が、西田と映奈の間にだけ残されていた。
「……警察が来るぞ」
西田は言った。
「事情を聞かれる。逃げられないぞ」
映奈は動じなかった。
「うん。そうだね」
彼女はまるで他人事のように頷いた。
「ねえ、西田くん」
彼女は西田の方を向かず、炎を見つめたまま言った。その瞳は、やはり西田を映してはいなかった。
「私のこと、軽蔑してる?」
西田は彼女を見た。
ススで汚れた顔。薄い衣服。乱れた髪。
軽蔑? 怒り? 憎しみ?
どれも違う気がした。
今の彼女に対して湧き上がる感情は、もっと冷たく、乾いたものだった。
「……軽蔑する気力も残ってないよ」
西田は正直に答えた。
家族の葬儀を終え、感情をすり減らし、そして今、この地獄を見た。
彼の心はもう、キャパシティを超えて摩耗しきっていた。
映奈は「そっか」と短く呟いた。
その声には、安堵のような響きがあった。
アパートの骨組みが、轟音を立てて崩れ落ちた。
舞い上がる火の粉が、夜空を埋め尽くす。雪と火の粉が混じり合い、幻想的な光景を作り出していた。
西田はその光景を目に焼き付けた。
これが、俺たちの恋の葬式だ。
そして、見知らぬ男の火葬だ。
全てが灰になる。
警察官たちが、野次馬をかき分けて少しずつ近づいてくる。だが、電柱の影にいる二人に気づく様子はまだない。
西田は動かなかった。
灰と雪の中で、彼はただ立ち尽くしていた。
この物語の幕が引かれる前に、まだ聞かなければならないことがある気がした。
映奈の口から語られるべき、最後の真実が。
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