第3話 全裸
床に転がったシュークリームの袋は、まるで轢死体のような無惨な姿を晒していた。
薄いビニールの中でクリームが飛び散り、カスタードの黄色とホイップの白が混ざり合い、そこに床の埃や髪の毛、乾いた吐瀉物の飛沫が付着している。
つい数十分前、コンビニの白い蛍光灯の下で、西田が震える手で選んだ「癒し」の象徴は、今やこの汚部屋を構成するゴミの一つへと成り下がっていた。
西田の視線は、その袋に釘付けになっていた。
拾い上げる気力さえ湧かない。ただ、自分の心が、あのシュークリームと同じように踏みにじられ、汚濁にまみれていくのを幻視していた。
部屋の中は、相変わらず吐き気を催すような臭気で満たされていた。
生ゴミの発酵臭、安酒のツンとするアルコール臭、そして何よりも強烈なのが、男女がまぐわった直後の、生暖かく粘り気のある体液の臭いだった。
それらが混然一体となり、部屋の中央に鎮座する石油ストーブの過剰な熱気によって、密室の中で澱んでいる。息をするたびに、その不浄な空気が肺の奥深くまで侵入し、西田の細胞の一つひとつを腐らせていくようだった。
「……おい、なんやその『この世の終わり』みたいなツラ」
万年床の上で胡座をかいた男――串本が、低い声で唸るように言った。
西田は緩慢な動作で視線を上げた。
串本は全裸だった。筋肉質というよりは、贅肉と筋肉が不健康に混ざり合った、たるんだ体を惜しげもなく晒している。その肌は酒焼けで赤黒く、背中から腕にかけて、色鮮やかな和彫りの刺青が這っていた。
串本は、西田のことなど路傍の石ころほどにも気にしていない様子で、枕元に散乱したタバコの箱を手探りで探った。
指先が空き缶を倒し、残っていた液体がカーペットに染みを作るが、彼は舌打ち一つしなかった。
シュボッ。
安っぽい百円ライターの火が灯り、串本の顔を赤く照らし出す。紫煙が上がり、部屋の淀んだ空気に新たな毒素を加えた。
「図星か? 『家族死んで可哀想な俺を、神様はなんで救ってくれへんのや』って顔に書いてあるで、自分」
煙を長く吐き出しながら、串本はニヤリと笑った。黄ばんだ歯が見えた。その双眸は、爬虫類のように冷たく、それでいて獲物をいたぶる愉悦に満ちていた。
西田は言葉を失ったまま、立ち尽くしていた。
否定することも、肯定することもできない。図星だったからだ。
家族全員を一瞬で奪われた交通事故。
警察での身元確認。
冷たい安置所。
通夜と葬儀の、終わりのないような喧噪と静寂。
この三日間、西田は悲劇の主人公だった。世界で一番不幸な人間だと思っていた。だからこそ、救済が必要だと信じていた。映奈という聖域に逃げ込めば、傷ついた羽を休めることができると、疑いもしなかった。
だが、目の前の男は、そんな西田の「被害者意識」を、鼻で笑い飛ばそうとしていた。
「家族死んで、女寝取られて。俺はなんて不幸なんや。ホンマ傑作やな、兄ちゃん」
串本はタバコを持った手をひらひらと振った。灰が万年床の上に落ち、隣で眠る映奈の白い肩にかかったが、彼は払おうともしない。
ドクン、と西田の心臓が跳ねた。
今、この男はなんと言った?
「……な、んで」
乾ききった喉から、掠れた声がようやく漏れ出た。錆びついた蝶番がきしむような、酷い音だった。
「なんで……知って、いるんだ」
家族が死んだこと。
西田が葬儀を終えてここに来たこと。
西田は映奈に、家族の事故のことをLINEで伝えていた。だが、返信は短く、そっけないものだった。
『大変だったね。落ち着いたら連絡して』
それだけだった。
電話は繋がらなかった。彼女も忙しいのだろう、あるいは動転しているのだろうと、西田は自分に言い聞かせていた。
この男は、西田の友人でもなければ、親戚でもない。今日初めて会った、映奈の部屋に土足で上がり込んできた侵入者だ。
なぜ、彼が西田の訃報を知っているのか。
串本は面白そうに口角を歪めた。吸い殻を、飲みかけのストロング系チューハイの缶にジュッと押し込む。
「なんでって、そらお前」
串本は親指で、隣の肉塊を指差した。
「コイツから聞いたに決まってるやろ」
指差された先には、映奈がいた。
彼女はまだ、毛布にくるまって顔を伏せている。だが、その背中のラインは、西田がよく知っている愛しい恋人のものだった。華奢で、白く、守ってやりたくなるような背中。
しかし今、その背中は、西田にとって見知らぬ「他者」の背中のように見えた。
「映奈が……話した、っていうのか」
「おうよ。ペラッペラ喋っとったで。酒のツマミにな」
串本は新しい缶チューハイを開けた。プシュッという炭酸の抜ける音が、静まり返った部屋に響き渡る。彼は一口あおると、げっぷ交じりに続けた。
「『彼氏ん家、事故で全滅したんだって。マジ無理、重すぎ。死人の臭いが移りそうで怖い』……ってな。泣きついてきたんやで?」
西田の頭の中で、何かが音を立てて崩れ落ちていった。
無理。
死人の臭い。
それが、映奈の感想だったのか。
西田は、彼女を巻き込まないように気を使っていたつもりだった。葬儀の手伝いを頼むこともせず、ただ「終わったら会いたい」とだけ伝えていた。それが彼女への優しさだと思っていた。
だが、彼女にとっては、家族を失った西田の存在そのものが「重荷」であり、忌避すべき「汚染源」だったのだ。
「せやから、コイツは逃げてきたんや。俺んとこにな」
串本は勝ち誇ったように言った。
「『死人の話なんて聞きたくない。忘れさせて』言うて、自分から股開いてきたんやで? 傑作やろ」
西田の視界が揺らいだ。
信じたくなかった。映奈はそんな冷酷な人間ではないはずだ。彼女は優しく、繊細で、他人の痛みに寄り添える女性だったはずだ。これはこの男の出まかせだ。西田を傷つけるための、悪意ある嘘に違いない。
「……嘘だ」
西田は呻いた。
「映奈が、そんなこと言うはずがない。彼女は……」
「あぁ? まだ夢見とんのか、ボケが」
串本は苛立ったように鼻を鳴らすと、いきなり映奈の髪を鷲掴みにした。
「おい、映奈。起きろ」
乱暴に揺さぶられる。布団から白い肢体が露わになる。
それでも映奈は動こうとしなかった。死んだふりをしているかのように、頑なに顔を背けている。
「チッ、いつまで寝たフリしとんねん。バレとんぞ」
串本は容赦なく、彼女の頬を軽く叩いた。ペチ、ペチ、という乾いた音が、西田の神経を逆撫でする。
「彼氏くんがお見えやぞ。感動のご対面や。起きて挨拶せんかい」
暴力的なまでの強制力。
しばらくの沈黙の後、観念したように、あるいは単にその状況に飽きたかのように、映奈がゆっくりと身じろぎをした。
シーツが滑り落ちる。
西田は息を呑んだ。
露わになった彼女の体には、情事の痕跡が無数に刻まれていた。首筋や鎖骨に残る赤い鬱血痕。太腿についた手形の赤み。それは、彼女がこの男にいかに激しく、そして無防備に蹂躙されたかを物語る刻印だった。
西田が大切に、壊れ物を扱うように触れてきた彼女の肌は、今はただの肉として扱われていた。
映奈が、のっそりと上半身を起こした。
乱れた黒髪の隙間から、彼女の顔が見えた。
西田と目が合った。
その瞬間、映奈の瞳が微かに大きく見開かれた。
小動物のような怯えと、反射的な拒絶。まるで、見てはいけない亡霊と遭遇してしまったかのような、動揺の色が走った。
西田の胸に、わずかな期待が去来する。彼女もまた、苦しんでいたのではないか、と。
だが、それは瞬きするほどの一瞬のことだった。
彼女はすぐに視線を逸らし、感情のスイッチを切るように瞼を伏せた。次に顔を上げたとき、その瞳は深海のように濁っていた。
そこにはもう、西田への愛情も、家族を失った恋人への憐憫もなかった。
まるで、道端で死んでいるネズミを見るような目だった。見たくはないが、視界に入ってしまった異物を見る目。
「……あーあ」
映奈の口から漏れたのは、溜息混じりの、諦めに似た一言だった。
彼女は眉間に皺を寄せ、だるそうに髪をかき上げた。その仕草には、西田に対する罪悪感よりも、「バレちゃった、めんどくさい」という徒労感が色濃く滲んでいた。
西田は、心臓を素手で握り潰されたような感覚に襲われた。
映奈は知っていたのだ。
西田が来るかもしれないことを。あるいは、西田が今、地獄の淵に立っていることを。
すべてを知った上で、彼女はこの男を選んだ。
西田の悲しみを受け止めることよりも、この下品な男と快楽に溺れ、脳を溶かすことを選んだのだ。
「ほら見ろ。起きとったやろ」
串本は愉快そうに笑い、映奈の肩に腕を回した。太い腕が、彼女の華奢な体を抱き寄せる。
「な、映奈。お前、彼氏になんて言うてたっけ? 『重い』やったか? それとも『辛気臭い』やったか?」
映奈は串本の腕を振り払おうとはしなかった。むしろ、寒さを凌ぐかのように、その醜い肉体に体を預けた。
「……もう、いいでしょ」
映奈が呟いた。その声は低く、西田が聞いたこともないほど冷え切っていた。
「やめてよ、トシくん。……いじめないであげて。彼、今そういう状態じゃないから」
トシくん。
名前で呼んでいる。
その親密な響きと、西田をまるで「壊れてしまった哀れな動物」のように扱う言葉。
それは西田を庇っているようでいて、その実、対等な人間としての尊厳を剥奪し、完全に突き放す残酷な宣告だった。
「ハッ、死に損ないの幽霊には用はないってか」
串本は悪びれもせず、映奈の耳元に顔を寄せた。
「死人は生き返らんけど、こっちはビンビンに生きとるからなぁ? 悲しい時は泣くよりイくほうがええ薬になるんや。せやろ?」
串本の手が、映奈の胸元へと這っていく。
西田の目の前で。
西田は叫びたかった。「やめろ」と。「触るな」と。
だが、声が出ない。
金縛りにあったように体が動かない。
映奈の反応が、西田を凍り付かせていたからだ。
彼女は、串本の手を拒絶しなかった。
嫌がる素振りさえ見せなかった。
むしろ、吐息を漏らし、目を細めて、その感触を受け入れていた。
西田という恋人が、目の前で見ているにもかかわらず。
家族の葬儀を終え、喪服のままで立ち尽くしている西田の前で。
彼女は、西田への配慮などとうに捨て去っていた。羞恥心さえも、この部屋の悪臭とともに麻痺してしまったのだろうか。それとも、西田の存在自体が、彼女にとってはもう「どうでもいい背景」の一部でしかないのだろうか。
串本は西田を見据えたまま、見せつけるように映奈の唇を奪った。
水音が響く。
濃厚で、下品で、生々しい音。
西田の脳裏に、映奈との淡い思い出がフラッシュバックした。
初めて手をつないだ公園。
照れながら交わした、触れるだけのキス。
「大切にしてね」と微笑んだ彼女の顔。
それらの美しい記憶が、目の前の光景によって上書きされ、黒く塗りつぶされていく。
映奈は「被害者」ではなかった。
無理やり連れ込まれたのでも、脅されたのでもない。
彼女は「共犯者」であり、もっと言えば、西田の心を殺す「加害者」だった。
西田の不幸から目を背けるために、彼女は自ら堕落することを選んだ。
西田の悲しみが深ければ深いほど、彼女はその反動で、より強く、より汚らわしい快楽を求めたのだ。
西田の家族の死は、彼女にとって「セックスのスパイス」でしかなかったのかもしれない。
「……っ、ふぅ」
唇が離れると、映奈は艶めかしい息を吐き、とろんとした目で串本を見上げた。その表情は、西田に向けたことのない、メスの顔だった。
串本は満足げに西田を見た。
「見たか? これが答えや」
串本はあぐらをかいた膝を叩いた。
「お前の居場所なんか、ここにはないんや。お前は過去の遺物。シケたツラした疫病神や。ここにおるのは、今を生きてる俺らだけや」
部屋の空気はいっそう重く、そして熱を帯びたように感じられた。
ストーブの熱気ではない。人間の業が発する、どす黒い熱気だ。
西田は一歩、後ずさった。
足元で、何かがぐしゃりと音を立てた。
さっき自分が落としたシュークリームの袋だったかもしれない。あるいは、別のゴミだったかもしれない。
もう、どうでもよかった。
西田の中で、映奈への執着が、音を立てて崩壊していった。
愛していた女性は死んだのだ。家族と一緒に、あの事故で死んだのだと思うことにした。
目の前にいるのは、映奈の皮を被った、欲情とエゴの塊だ。
西田の目から、涙は出なかった。
代わりに、乾いた虚無だけが広がっていく。
串本はそんな西田の様子を見て、さらに調子づいたようだった。彼は手を伸ばし、床に転がっていたストロング缶を掴むと、残りを一気に喉に流し込んだ。
「ぷはぁ! うめぇ!」
彼は大げさに叫び、空き缶を握り潰した。
その顔はアルコールのせいで赤く上気し、目は血走っていた。過剰なアルコール摂取と、歪んだ征服欲によって、彼の精神状態もまた、正常な軌道を外れ始めていた。
「おい、兄ちゃん。せっかく来たんやから、もっとよう見てけや。俺らの愛の巣をよぉ」
串本はふらつきながら、万年床からずり降りるようにして立ち上がった。
全裸の巨体が揺れる。
「なぁ映奈、お前言うてたもんな? 『優しいだけの彼氏より、乱暴なトシくんのほうがずっとイイ』ってよぉ」
言いながら、彼は西田の方へ歩み寄ろうとする。だがその足元は覚束ない。
万年床の周囲は、読み捨てられた雑誌やコンビニ弁当の空き殻、空き缶が地層のように堆積しており、まともに歩ける状態ではなかった。串本の裸足が、無造作に散らばったゴミを不快な音を立てて踏みしめる。
映奈は答えず、ただ虚空を見つめながら、シーツを体に巻き付けてタバコを探し始めていた。彼女の世界には、もう串本さえも映っていないのかもしれない。ただ、不快な現実から逃れるための道具として、そこにいるだけ。
西田は、この地獄絵図を網膜に焼き付けた。
一生忘れないためにではない。
二度と思い出さないために、ここで全てを終わらせるために。
だが、地獄の底はまだここじゃなかった。
この部屋の主導権を握り、勝ち誇っているこの男に、破滅の足音が近づいていることに、西田はまだ気づいていなかった。
「おら、どないした……ん?」
不意に、串本の言葉が途切れた。
にやついた表情が強張る。
酒焼けで赤かった顔色が、みるみるうちに土気色へと変貌していく。
彼は大きくよろめき、喉元を太い手で押さえた。喉仏が、何かをこらえるように不自然に上下動を繰り返す。
「ウッ……」
漏れ出た呻き声には、生理的な苦悶が混じっていた。
串本が、よろりと体勢を崩した。
アルコールが限界を超えて回ったのか、胃袋の中の不浄が逆流を始めたのか、その巨体が大きく傾ぐ。
すぐ脇、部屋のど真ん中に鎮座した旧式の石油ストーブが、ゴーゴーと不気味な音を立てて燃え盛っている。
その赤い炎が、吐き気をこらえて痙攣する串本の背中を、まるで死神の鎌のように照らしていた。
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