渇きの行方

kumanomi

線を辿る


「あなたは自慢の子」




 眠剤をラムネのようにあおって、水で飲み干して、ベッドに横になる。


 グラグラするくらいの眠気がやってくるまでの間にいつも木霊する声。優しくて柔らかい声。

 思い出すなんてものじゃない。何度も聞いたその声は、刻み込まれたように、今まさに目の前で発されたように聞こえてくる。

 その度に、歯を噛み締める。顎がわなわなと震えそうになる。


「大丈夫?薬飲んだ?」

 優しく背中から声が聞こえる。そして優しく、少し筋肉質な腕が私を包む。

「うん、飲んだ。怖いの」


 半分ほんとで、半分嘘。

 こわいのはほんと。

 でもその怖さが“たったこれくらい”で収まると思われると虫唾が走るのも本音。


 だから分かりやすく怯えてるフリをする。

 せっかく眠気でグラついていた脳みそが少し覚醒してしまう。


 私の歯ぎしりの音をいつになったら、黙って放っておいてくれるんだろう。


 あ、私、今ムカついてんだって、遅れて思った。





 寝れなくなったのはいつからだろう。そもそもちゃんと寝れていた頃なんてあったんだろうか。


 夜が嫌い。


 訂正。明るい夜が嫌い。

 白色光がビカビカ光る中で、暮らす夜が本当に嫌だった。


 ママはいつまでも女だった。


 私は産まれたんじゃない。ママから見れば“ひり出された”ようなものだろう。


 どこかの誰かに、乱暴にぶち込まれて、かき回されて、吐き出されて、塗りつけられて、ひり出されたのが私だ。


 そしてまたその様を見せられる。

 白色の光の下で。


 嫌な水音と、肌がぶつかる音。

 愛してる、好きの逝けばすぐに忘れるような軽い言葉。




 目のやり場に困って視線が泳いでいると、ママが連れて来た男と目が合う。


「何見てやがる」


 髪を捕まれたり、顔をはたかれるだけだったらまだまし。落ち着けばすぐにまたママを使い始めるから。

 最悪なのはガキにも欲情する男。粘液まみれの汚らしいものを口に押し付けて来られたときは最悪だった。

 泣きながら、必死に歯を噛み締めて口を開かなかった。


 そして全部が終わって男が帰ったあと。

 ぱちりと部屋の電気を暗くして、ママは泣き叫ぶ私を抱きしめてこう言う。


「あなたは自慢の子」




 全てに絶望し、女という性に絶望し、乾燥したまま生きた私も大学にまで行き、彼氏ができた。


 乾燥しきった私は本をよく読んでいた。特に文学が好きだった。

 クズはウチのママだけじゃなく、チンポを口にねじ込まれそうになる幼少期を過ごしたのも自分だけじゃないことが分かったからだ。

 でも私は安心したわけでもなく、感動したわけでもなかった。


 おかしかった。法とか正義や警察ってのはただ働きしてるんだなって思った。

 これが笑えなくてなんだってんだ。

 


 そんな病んだ顔に無駄に文学知識をつけた私に、なぜ彼は惚れたんだろう。


 変わった女が好きだったんだろうか。

 髪は毛羽立って、睨むような目つきがデフォルトで、明らかにビタミンの足りてない青っ白い肌のどこに欲情したんだろう。


 きっかけは確か好きな作家だった気がする。

 好きな作家が合うだけでどうして好きになれるんだろう。




 でもまあ、ものは試しか、と思った。

 私が笑った文学でも、みんな恋愛だけはしていた。

 何か私の不感症な人生にも刺激はあるかもしれない。




 私にとっての“唯一”の刺激物がある。


「ふーっ、ふーっ」

 

 何もかもが無味乾燥に感じられると、肌は鎧になるらしい。触ってもつねっても、何も感じない。


 でも、見て、見てよ。


 慣れた手つきはそこに線でも見えるようにカミソリを動かす。


 赤黒い血が流れ出る。生きてる証拠。痛み。血の香り。生きてる香り。


 粘液の交わりや、肌の重なり合いなんて穢らわしいものじゃない美しくて聖なる時間。


 私はこの時だけ生きていることを実感し、私の身体の確かさを実感する。


 何が嫌なことは寝れば忘れる、だ。

 バカ女ども。


 この痛みと美しさを忘れないことが生きるってことじゃないか。




「危ないからやめよ」

 ある日、喫茶店で珈琲を飲んでる時にそう言われた。

「あの、外なんだけど」

「それくらい本気ってことっ!」


 ちっちゃい“つ”がつく厚かましさが凄くウザかった。

 そういうことを世間では優しさとかひたむきさって言うんだろうか。


「分かったから、一旦、外出よ」

 私がそう諭すと、泣きそうな彼はこくこくと頷いて、会計をしたあとに続いた。




「で、何で?」

 改めて聞くと、私のリストカットとやらが心配らしい。私は名前なんてつけたことない。

 流行りか何かを真似ている馬鹿なことのように言われたのがより一層腹が立った。

「何、あたしがヤラせないから腹が立ってんの?」

「それは俺も納得してるって!」

「じゃあ何?死ぬわけでもないんだしほっといたら?」

「夜だって寝るとき辛そうじゃん……」


 本当にうざい。


「あのさ、ハッキリ言っとくけど今の私が私だから! 

 健康な時とか無いから!ずっとこうだから!」

「俺が、君を必ず今の君と違う君にするから……!」


 分かり合えないと思った。この人は健康すぎる。文学読んどいて、そんな真っ当な神経を持っていることに驚きだった。


 まだ彼は何か言いたげだったけど、私は彼を置いて帰った。




「今日そっちの家行っていい?」


 昼食時にスマホが鳴る。彼からだった。


 言い合いをして1週間が経った。

 その間、私達は一言も話さなかった。


 今思えば、彼はフツーの家のフツーのお坊ちゃんだ。その事も分からず、異常者の価値観を振りかざした私が悪かった。

 女らしく「アリガト…ウレシイ…」くらい鳴いとけば良かった。そういう鳴き声があることくらいは私でも知ってるはずだろう。


「いいよ!仲直りしよ?」

 最後にウルウル目の絵文字もつけて送信する。さて、どうやって普通の女の子の仲直りをするかを考えなければならない。





 そして夕方、彼が来た。


 部屋に入るなり、彼は言った。


「カミソリ、貸して」


 私の顔がゆがむ。

「あのさ、それなら私……」

「いいから貸して」


 苛立ちのまま私はカミソリを渡す。

「よく見てて」


 彼は危なっかしい手つきでカミソリを引いた。でも勉強したんだろう、吹き出すほどではない。

 彼の腕から赤黒く血が流れ始める。


「見てよ、痛いよ? 

 こんな危ないことしてるの、君は。自分でやってるだけだと分かんないでしょ!

 だから、も……」


 痛みと血の流血に耐えるために、目を閉じながら懸命に語る彼の口が止まる。

 私を見たからだ。




 胸が高鳴った。


 私のために、彼は自分の身体を破壊した。


 しかも鎧のように、不感な私の肌じゃない。

 血色も良く、敏感で、健康な柔肌の皮膜を断ち切ったんだ。


 なんて、なんて、無防備で可愛いんだろう。




 彼が呆然とし、その手からカミソリが落ちそうになる。

 その手を握り、止める。


「私、間違ってた。あなたの言う通りだった。私は今の私がずっと続くって思ってた」

「え?……へ?」

「私のために壊れてくれたんだね。怖かったね。ううん、でも大丈夫。

 私、もっと安全に壊してあげられるよ?」


 カミソリをそっと取り上げて、今度は腕の外側をさっと切る。


 浅く血が滲み始める。

「ここから始めるの。ね、全然怖くないでしょ? あ、ごめんくらくらするね?」


 冷蔵庫からペットボトル水を持ってきて、蓋を開ける。

 頭を撫ぜながら、ゆっくり飲ませる。


 弛緩仕切って、だらりとした身体からは抵抗の意図すらない。それとも恐怖がそうさせてるんだろうか。


 


 私に乱暴した男の気持ちがわかってしまった。

 これは気持ち良すぎるかも。我慢出来ないのも分かっちゃうなあ。




 こうして私は彼と会うたびに、切り刻み、介抱した。

 彼は切り刻まれるたびに勃起して、射精した。


 いいことだと思う。

 私も興奮するし、彼も興奮する。


 私だけの文学。

 私だけの表現。




 恋はしてみるものだと、そう思った。

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