彼女がくれたのは、壊れた僕に届いた“魔法”だった
詩守 ルイ
第1話:港灯りの下で、僕はもう一度息をついた
朝の港町は、パンの香りと潮風が混ざり合う、ちょっとお腹が空く空気に包まれていた。
アリア・アーデルは、石畳の通りを静かに歩いていた。手には古びた鞄。中には魔術理論の本と、昨日書きかけたノート。魔法が使えないくせに魔術の本を持ち歩くという、なかなかに矛盾したスタイルだ。
(……まあ、読むだけなら魔力いらないし)
彼はそう自分に言い聞かせながら、果物屋の前を通り過ぎる。店先には、朝採れのオレンジが山盛りになっていて、どれも「俺が一番甘いぞ!」と主張しているように見える。
「おはよう、アリアくん。今日も図書館かい?」
果物屋の老主人が声をかけてくる。アリアは立ち止まり、軽く頭を下げた。
「はい。少しだけ、調べ物を」
「まじめだねぇ。たまには海でも見て、ぼーっとするのもいいもんだよ」
「……そうですね。今度、そうしてみます」
そう言いながらも、アリアの足は港の方ではなく、町の外れにある魔術図書館へと向かっていた。ぼーっとするのは得意だが、海の前でぼーっとすると、だいたいカモメに狙われる。
(あいつら、パン持ってなくても襲ってくるからな……)
通りの先では、パン屋の店主が看板を立て直していた。昨日の風で倒れたらしい。
看板には「魔法よりうまいパンあります」と書かれている。魔法よりうまいってなんだ。
(……魔法が使えない僕にとっては、パンの方が確かに“使える”けど)
港町の人々は、アリアを特別視しない。かつて“神童”と呼ばれた少年も、今ではただの“静かに歩く青年”だ。誰も彼の過去を話題にしないし、誰も彼の魔法のことを聞かない。
それが、ありがたかった。
通りを抜けると、港が見えた。小舟がゆっくりと岸を離れ、漁師たちが網を引いている。カモメが旋回し、魚屋の少年が「また盗られたー!」と叫んでいた。日常だ。完璧な日常だ。
アリアは立ち止まり、しばらくその風景を眺めた。
魔法が使えなくても、ここでは生きていける。誰も責めない。誰も期待しない。
だからこそ、彼はこの町が好きだった。
でも——
(……それだけで、いいのかな)
胸の奥に、小さな問いが浮かぶ。
それはまだ、答えのない問いだった。
図書館の窓際の席に座ると、アリアはそっと鞄から魔力制御装置を取り出した。見た目は小型の懐中時計のようだが、実際は“魔法の暴走を防ぐための安全装置”という、なんとも物騒な役割を担っている。
(……これがないと、魔法が暴走する可能性があるって、どんな呪われた体質なんだ僕は)
彼は装置を机の上に置き、魔術理論の本を開いた。ページには「感情魔法と共鳴式の基礎」と書かれている。最近気になっている分野だ。
指先が、とんとん。
思考が深まると、癖が出る。机の端を小さく叩く音が、図書館の静けさに溶けていく。
アリアは、そっと手をかざした。魔力を流す。制御装置が反応し、青い光がちらりと灯る。
「……よし、今日は暴走してない」
それは、魔法が“ちょっとだけ”動いた証だった。
彼は小さな紙片を浮かせようとした。魔力を流し、構築式を思い描く。紙片が、ふわりと——
浮かばない。
机に貼りついたまま、微動だにしない。
「……重力、強すぎない?」
誰に言うでもなく、アリアは紙片を見つめた。魔法が使えないというより、“紙に拒否されている”気さえしてくる。
隣の席では、魔法学院の生徒らしき少年が、炎の球を軽々と浮かせていた。彼の魔法は、まるで呼吸のように自然だった。
(……あれが普通なんだよな)
アリアは、そっと視線を落とした。
かつては、自分もあんなふうに魔法を操っていた。構築式を描けば、魔力が流れ、魔法が発動する。それが“当たり前”だった。
でも今は——
魔力は流れない。構築式は沈黙する。魔法は、動かない。
それでも、彼は諦めていなかった。
(……感情魔法。もしかしたら、僕にも使えるかもしれない)
そう思って、今日も図書館に通っている。魔法が使えないのに、魔術理論を読む。矛盾しているようで、彼にとっては“希望”だった。
そのとき、紙片がひらりと動いた。風が吹いたらしい。
アリアは、そっと微笑んだ。
「……魔法じゃなくても、動くことはあるんだな」
それは、ちょっとだけ救われた気持ちだった。
図書館の静けさは、アリアにとって“思考のための避難所”だった。誰にも邪魔されず、誰にも期待されず、ただ本と向き合える時間。
けれど、ページをめくる手がふと止まると、記憶の扉が勝手に開いてしまう。
(……昔の僕って、なんであんなに元気だったんだろう)
幼少期のアリアは、魔法構築の天才だった。魔法陣の精度、演算式の速度、魔力の制御——どれも異常なほど正確で、周囲の大人たちは「この子、将来は魔導省長官だ!」と勝手に盛り上がっていた。
本人はというと、魔法陣を描きながら「この線、0.3ミリずれたら爆発するんだよな……」と冷静に呟いていた。爆発するのに冷静。今思えば、ちょっと怖い。
そして、母——レイナ・アーデル。
彼女は、魔導師としても教育者としても一流だった。が、家庭内では“魔法の鬼教官”だった。
「アリア、魔力の流れが0.2秒遅れてるわ。やり直し」
「はい……」
「その魔法陣、角度が甘い。やり直し」
「はい……」
「その“はい”の声が弱い。やり直し」
(それは魔法関係ないですよね!?)
当時のアリアは、母の期待に応えようと必死だった。褒められたくて、認められたくて、魔法を磨いた。感情を捨て、精度だけを追い求めた。
そして——事件は起きた。
ある日、学院の公開演習で、アリアは“完璧な構築式”を披露するはずだった。魔法陣は美しく、演算は正確。誰もが成功を疑わなかった。
が。
「……あれ? 魔力が、流れすぎてる……?」
次の瞬間、魔法陣が光りすぎて、爆発した。
煙と光の中で、アリアは吹き飛ばされ、観客席の一部が焦げ、母の顔が凍りついた。
「あなたは、失敗作ね」
その言葉は、今でも耳に残っている。
(いやいや、失敗作って……もうちょっと言い方あるでしょ!?)
当時は泣けなかった。泣いたら、もっと“失敗”になる気がして。だから、黙っていた。黙って、魔法を封じた。
それ以来、魔法は動かなくなった。構築式を描いても、魔力が流れない。演算を終えても、魔法は沈黙した。
まるで、心が拒絶しているかのように。
(……あの頃の僕は、魔法を“道具”だと思ってた。感情なんて、邪魔だって)
でも今は——
感情魔法という概念に出会い、少しずつ考えが変わってきている。
魔法は、感情と共鳴するもの。怒り、悲しみ、喜び——それらが魔力に影響を与える。構築式とは違う、もっと曖昧で、もっと人間的な魔法。
(……僕に必要なのは、こっちなのかもしれない)
でも、そう思うたびに、母の言葉が頭をよぎる。
「感情に頼る魔法は、誤差の塊よ」
(……誤差でも、動いてくれたらいいのに)
アリアは、そっとため息をついた。
図書館を出ると、港町の空はすっかり午後の色に染まっていた。
潮風が通りを抜け、パン屋の看板が「魔法よりうまいパン、今日も健在」と主張している。昨日は「魔法より速い焼き上がり」だった。明日は「魔法より安い」になるのだろうか。魔法、だいぶ負けている。
アリアは、通りをゆっくり歩いた。果物屋の老主人がオレンジを並べ直し、魚屋の少年がカモメとにらみ合っている。港では小舟が岸に戻り、漁師たちが網を干していた。
誰も、アリアを特別視しない。誰も、彼の過去を話題にしない。
それが、ありがたかった。
(……でも、たまに思うんだよな)
もし、あのとき魔法が暴走しなかったら。
もし、母があんな言葉を口にしなかったら。
もし、今でも魔法を自由に使えていたら——
そんな“もし”を考えるたびに、胸の奥が少しだけざらつく。
でも、今の自分には、この町がある。
パン屋の看板があって、カモメがいて、誰もが自然体で生きている。
そして、自分もその中にいる。
指先が、とんとん。
思考の癖。けれど、今日は少しだけ軽やかだった。
(……魔法が使えなくても、僕はまだ、ここにいる)
それは、ほんの少しだけ前を向いた気持ちだった。
「……さて、今日も魔法は動かなかったな」
アリアは、誰に言うでもなくつぶやいた。
その瞬間、頭上をカモメが通過し、何か白いものを落としていった。
アリアは、静かに空を見上げた。
「……魔法より、カモメの方がよっぽど自由だな」
港町の午後は、今日も平和だった。
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