ナカミ・ウチ


 

 この卵のナカミには、ウチには、あなたは辺り一面にいます。


 卵が何の卵なのか。どういった意味での卵なのかは分かりません。それに、あなた。いる――というよりは漂っている。きっとこの言葉が相応しいでしょう。

 あなたは此処ここにも彼処あそこにも彼方あちらにもいます。あなたは何処どこにでもいるのです。あなたは至るところにいるのです。


 けれどもあなたは、此処ここのあなたと彼処あそこのあなたと彼方あちらのあなたとけっして目を合わせません。言葉も交わさず、指と指が触れ合うことすらありません。あなたは、あれだけ何処どこにでも――つまり至るところにいるというのに孤独なのです。これはあなたであり、あれはあなたであり、あちらはあなたであるからです。何処どこまでもあなた。

 

 だって、意思の疎通というのはが行うことでしょう?自身と自身で行えるはずがありません。だから、目は合いませんし、言葉も交わしませんし、指と指も触れ合いません。自身でありながら誰よりもずっと赤の他人なのです。

 

 もちろん、自身に向かって語りかける、ということだってあるでしょう。

 けれどもそれは、あなたに向かって語りかければよいのです。彼処あそこ彼方あちらのあなたである必要はありません。数ミリ動くのだってエネルギーは消費されるのですから、あなたが此処ここにもいるならば、は、此処ここのあなたに対して行うのが一番、エネルギー効率の良いと言えるでしょう。省エネです。かつてこの省エネのために一生を研究に費やした学者がいたというくらいなのですから、エネルギー効率を念頭に置くことは非常に重要なことです。

 

 此処ここ彼処あそこ彼方あちらを決める基準は何か。


 誰かがそんな疑問を浮かべるかもしれません。けれども――その答えは決まっています。さあ、わかりません。そんな風な返事だと。あなたはどういうわけか無意識的に、今、こうしてお話している――いえ、あなたに主体というものは無いのですが――仮に主体、としましょう。その主体を、「此処ここのあなた」と呼んでいるのです。もしかしたら、あなたは彼処あそこのあなたに語りかけているのかもしれないですし、彼方あちらのあなたとお喋りしているのかもしれません。けれども、それは大きな問題ではありません。あなたは、あなた。多少エネルギーを無駄遣いしたところで、あなたはあなたであることに変わりません。


 ですがここで初めて、問題が発生しました。


 あなたの質量に変化があったのです。あなたで満たされていた世界に、あなたのようで、あなたではな無い何かがポコンと現れたのです。

 変わりに彼処あそこのあなたと、彼方あちらのあなたがいなくなりました。何処どこ彼処あそこ彼方あちらなのかはあなたにも分かりかねますが、とにかくこれは由々しき問題です。誰かが、いずれかのあなたがエネルギーを浪費した!魔女裁判です。

 

 あなたは、彼処あそこのあなたと、彼方あちらのあなたと「あなたじゃない、君じゃないのか」と疑い合いました。隣から隣へ彼処あそこから此方こちらへ、彼方あちらから此方こちらへ。ザワザワ、ザワザワ、あなたたちは大騒ぎです。

 

 するとまた、ポコン!

 

 世界の、あなたたちの質量に変化が現れます。この中にきっとオオカミがいるに違いありません。いったいどのあなたが、こんな恐ろしいことを。

 

 ポコン!ポコン!ポコン!

 

 次々に、新しい何かが現れ、質量を変えていきます。新しい何かはあなたたちよりも一回り、二回り大きいように思われます。それも、新しく生じる都度に大きく。まるで減った分を埋め合わせるためと言わんばかりの大きさです。

 

 ポコン!ポコン!ポコン!


 魔女裁判はそれでも続きます。裏切り者は誰だ。ユダは誰だ。そう誰かが叫ぶ都度にポコン!新しい何かが世界を埋めていきます。エネルギーを消費し、質量を揺らがせます。大小(あなたより小さなものは無いのですが)のあなたでは無い何かが世界をひしめいて行きます。

 あなたはだんだん、あなたがあなたのままである自信を失います。あなたはいったい、何方どちらのあなたなのでしょう。無意識に定まっていた座標は消え、あなたは、変化の止まらない世界で漂います。

 

 新しいそれらは次第に輪郭を複雑にしていきました。

 ふわふわ漂っていたはずの世界はしっかりと根付いた何かや、その上を飛び回る何か、隣を駆け巡る何か――あらゆる何かを飲み込み、取り込んでゆく。するとしだいにその何かの行動も複雑になっていきます。

 魔女裁判もまた、乱雑さを増しています。

 何がどう裏切られ、その度合いはいかほどで、どれほどの罰則が相応しいのかと、つらつらと長ったらしい主張が辺り一面からの聞こえてくるかもしれません。

 

 そしてあなたは気が付くのです。

 それはきっと、目が覚めたようなでしょう。


 あなたは、彼処あそこのあなたでも、彼方あちらのあなたでもなく、それどころか此方こちらのあなたでもないのです。

 

 あなたは、あなた。

 

 それも彼処あそこのあなたでも、彼方あちらのあなたでも、此方こちらのあなたでもない、あなたはあなたなのです。

 エネルギーを消費し続けたあなたは、最早もはやあなたという「」としてのあなたと成ったのです。

 きっと、あなたは魔女裁判で厳しい罰を下されることでしょう。


 

 ――いいえ。

 罰の下されないあなたは存在しないのかもしれません。けれども、そうして残ったのがいまの卵です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る