幼い記憶 -2-

結局女は3日だったか、4日だったかしばらく帰って来なかった。



その間の私はなにをしていただろうか…



眼の前にあるのに掴めない夜明けの朝霧のような幼い日の記憶を手繰り寄せる。



元々は男と女の寝室であっただろう部屋が私の部屋だった。



その部屋は殺風景というには物が多く、散らかっているというには物が少なすぎた。



壁には着替えの入ったタンスと段ボール、雑多に積まれた本や雑誌などのタワー。夜になるとそれらの血の通わない冷たく無機質な城壁は幼い私の心にインクの様な青黒い恐怖感を覚えさせた。



部屋の一面を使う大きな窓にはカーテンなどはなく、その向こうには小さなベランダがあった。



まどから見える景色は2/3はベランダを覆う黄白きはくの壁で残りの1/3が私の世界だった。



そのパノラマの様な世界では祝福のような青空が見え、見守るような星が見え、私の存在を覚えているかのような月光が差し、たまにオーケストラの様な雷鳴やトマトを潰したような夕焼けがみえた。



私を楽しませてくれる窓が私はこの家で二番目に好きだった。



そんな部屋のうっすらと差し込む朝日でいつ寝たかわからない微睡みから引き戻され、包まっていた薄い掛け布団を畳み襖の隙間からリビングの様子を伺うことから私の一日が始まる。



その日は頻繁に騒々しい男女の言い合いがあるリビングは片方が居ないせいでひどく平和だった。



音を立てないよう慎重にリビングを横切り洗面所で踏み台に乗り歯を磨き、そっとまた部屋に戻る。



これが私が平和に暮らす毎朝の日課だった。



幼い私が朝起きたところで仕事が有るわけでも学校があるわけでもないのであとは部屋で空を見上げなから過ごす。



そうしているうちに男の部屋の方から音がして男がリビングに出てくる。



しばらくガチャガチャと音がした後、男の調子がいいときは朝ご飯があるし、調子の悪いときはそのまま男は仕事へ出かける。



その日は、朝ご飯が食べれたのか食べれなかったのかよく思い出せない。



しかし、昨日の今日で機嫌の悪い男は恐らく朝ご飯は作ってくれなかったであろうと思う。



そういう時私は男が出ていった後、すぐにリビングに出て台所に向かう。



広めのシンクの横に作業台、その隣に3口のコンロ。後ろを向けば眼の前にそびえ立つ冷蔵庫と右手に私の背よりも高い木製のテーブルに私がなんとか登れる椅子が四脚。



巨大な冷蔵庫の中に食べ物が沢山入っていることは知っていたが、非力で幼い私の力ではこの冷蔵庫はびくともしないことを私は以前の失敗で学んでいた。



私が狙っているのはシンクを挟んでコンロとは反対側。天井にも届きそうな食器棚があった。



その真ん中に引き出し式の棚があり、そこには炊飯器とポットが置かれている。



朝の炊飯器には大抵、炊けた白米が入っていた。



私は椅子を引きずり炊飯器の前に置き、椅子の上に立ち炊飯器を開ける。その日も炊けた白米は入っていた。



ここで焦ってはいけない、そう思いながら私は小さな手で四掴みだけ白米を口に運ぶ。それ以上だと食べた事がバレるし、それ以下だとお腹が減る。



以前、欲を出してたくさん食べたことが男にバレてお湯の張ったお風呂に投げ込まれ沈められた経験から私はバレないギリギリのライン、四掴みまで。と決めていた。



そんな食事とも言い難い生活をしていた幼い私はずっとお腹をすかせていた。



こう思い返してみるとロクに食事を食べれていない訳だが、ごく稀にまともな食事の時もあった。


例えば卵焼き。


たまに出される卵焼きは一切れが私の握り拳くらいの大きさで、生成きなり浅黄うすきの中に緑茶のような韮が刻んで入っている。


男の顔を伺いながら箸で慎重に卵焼きを掴む。


私は箸を使うのが嫌いだった。少しでも箸の握りが、掴み方が悪いとすぐに男から菜箸の様な細い長い物で手を何度も叩かれた。なにかを怒鳴られながら叩かれたと思うが何を言われてたなんて思い出せない。


激しい痛みで叩かれた手はミミズのように腫れ、その後痛くて手首をうまく動かせなくなることも多々あった。


そんな苦痛と背中合わせの緊張のまま口に運ぶ。


美味しいかどうかなんて私にはどうでもよかった。興味すらなかったのかもしれない。ただ飲み込めるものであれば何でも良かった。


幼い頃の一般的な家庭の味というものはこの韮の入った卵焼きだけだった。


あとは青い箱の子供用のレトルトカレー。今でも売っているのを見かけると、心が締め付けられる様な、懐かしい様な嘔吐感を味わう。


ある日の昼間、男を何を思ったのか子供用のレトルトカレーを買ってきて私に食べろと言った。


状況もよく理解できないままの私を椅子に座らせ、眼の前にカレーを差し出してくれた。


そのカレーは全体的に深黄こききというよりは櫨染はじぞめに近いくすんだ色をしたルーの中に星型の野菜が入ったもので知らない形の物体が入ってることに衝撃を受けたのを今でも覚えている。


甘かったのか、辛かったのか味はよく覚えていないが比較的食べやすかったように感じる。


皿の半分ほど黙々と食べ進めた頃だろうか?男は急にカレーの皿を取り上げ一口食べた後、不機嫌そうに顔を顰めそのまま流しに捨ててしまった。


そんなにカレーが不味かったのだろうか?気に入らなかったのだろうか?それとも特に反応も示さず喜びも騒ぎもしない私を見てうんざりしたのだろうか?


ともかく理由もわからないまま男の気分一つで私の記憶の中では初めてのカレー体験は終わりを告げた。


思い返してみれば不思議なもので私の中での作ってもらった食事というのは大抵男が作ったもので、女が作った物を食べた記憶がない。男よりも私に興味がなかったのかもしれない。


白黒の濃淡でしか無い私の遠い記憶の中でもそれら食べ物に関しては色があった。



リビングから見える洗面台に私の歯ブラシが見える。


それは確かに私の存在を証明するものだった。しかし同時に私の生を否定するものでもあった。


毎日食事を食べるわけでもないのに毎朝使う道具が置いてある、そんな光景がひどく歪で滑稽に思えた。

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