悪霊アイドル、踊る
@kossori_013
第1話 最低の死、最悪の再生
悪霊アイドル、踊る
第1章「最低の死、最悪の再生」
腐臭というものは、一度嗅いだら二度と忘れることができない。それは生命が死へと移行する過程で発する、甘ったるくも酸っぱい、吐き気を催す異臭である。葛城透が自室で死亡してから発見されるまでの期間は、正確には九日間であった。
六月の湿度の高い空気が、密閉された六畳一間のアパートを満たしていた。カーテンは閉め切られ、床にはスナック菓子の袋とペットボトルが散乱し、壁際には開封されたままのゲームソフトが積み上げられている。その中央で、葛城透は仰向けに倒れていた。百七キロの肉体は、死後の変化により膨張し、皮膚は青黒く変色していた。口からは体液が流れ出し、眼球は濁って虚空を見つめている。
発見したのは大家だった。家賃が三ヶ月滞納されており、携帯電話も不通。ドアの隙間から漏れ出す異臭に耐えかねた大家が、警察を呼んだのである。
ドアが開かれた瞬間、腐敗臭が廊下に溢れ出した。警察官も大家も顔をしかめ、鼻を押さえた。部屋の中は、死と怠惰と孤独の痕跡で埋め尽くされていた。パソコンの画面には掲示板の書き込みが表示されたまま固まり、床には踏み潰されたポテトチップスの欠片が散らばり、壁には何かを叩きつけた痕が無数に残されている。ゴミ袋は満杯で、中身が溢れ出し、部屋の片隅で別の腐敗を始めていた。
死因は心不全。長年の不摂生が心臓に負担をかけ続けた結果だった。二十七歳という年齢にしては、あまりにも早すぎる死であった。しかし葛城透の人生を知る者ならば、むしろ遅すぎたと言うかもしれない。
警察官の一人が、クローゼットの扉を開けた。中には畳まれていない衣類が山積みになっており、その奥に、丁寧に保管されたポスターの筒が並んでいた。何かのアイドルグループだろうか。警察官はそれ以上詮索せず、扉を閉じた。
検視が終わり、遺体が運び出された。残されたのは、臭気と汚れと、誰も触れたがらない遺品だけだった。
透は、自分が死んだことに気づくまで、しばらく時間がかかった。
目を開けると、見慣れた天井があった。いつもの六畳一間。いつもの散らかった部屋。違和感はなかった。いや、一つだけあった。身体が軽いのだ。
起き上がろうとして、透は奇妙なことに気づいた。床を蹴る感覚がない。いや、正確には床に足がついていない。ふわりと、まるで水中にいるかのように、身体が浮き上がった。手を伸ばせば天井に届きそうで、しかしそれは夢の中の感覚に似ている。現実味がない。
「……は?」
透は自分の手を見た。透けている。薄く、しかし確かに存在している。五本の指が、カーテンの隙間から差し込む朝日を透かして微かに光っている。血管は見えない。骨も見えない。ただ、輪郭だけがぼんやりと存在している。
「嘘だろ」
呟いて、透は部屋を見回した。そこで初めて、自分の死体を発見した。
床に転がる、膨張した巨体。青黒く変色した皮膚。開いた口から垂れ下がる舌。それは紛れもなく、葛城透自身だった。着ているのは三日前から着替えていない灰色のTシャツで、腹部は膨張によって破れかけている。
「うわあああああああああああああ!」
透は叫んだ。しかし声は空気を震わせず、ただ虚しく響くだけだった。壁に反響もせず、耳に届く音も奇妙に平坦で、まるで水中で叫んでいるかのようだった。
パニックに陥りながらも、透は状況を理解しようとした。これは夢だ。悪い夢に違いない。目を覚ませば、いつもの朝が来る。母親の怒鳴り声が聞こえて、うるさいなと思いながら二度寝する。そういういつもの日常に戻れる。
しかし目を閉じて、開けても、状況は変わらなかった。自分の死体は床に転がったままで、自分は透明な存在として、部屋の中を浮遊している。試しに壁に手を伸ばすと、抵抗なくすり抜けた。感覚がない。触れている実感がない。
「死んだのか……俺」
透はゆっくりと、その事実を受け入れた。
不思議と悲しくはなかった。むしろ、どこか納得していた。この生活を続けていれば、いつかこうなるだろうとは思っていた。ただ、こんなに早く来るとは思わなかっただけだ。医者には五年前から、このままでは三十まで生きられないと言われていた。その予言は、正確だった。
部屋を見回す。ここで過ごした五年間。高校を中退してから、透はこの部屋に引きこもっていた。外に出ることはほとんどなく、コンビニに行くのも月に数回。食事は宅配ピザとカップ麺とスナック菓子。睡眠時間は不規則で、昼夜逆転の生活。やることといえば、ネットの掲示板に悪口を書き込むか、オンラインゲームをするか、違法にダウンロードしたアニメを見るか。そして、くだらないウイルスを作ってばらまき、誰かが困る様子を掲示板で眺めて、歪んだ優越感に浸る。
透には友人がいなかった。いや、正確には、いたことがあった。中学まではいた。しかし高校に入ってから、透は人間関係を全て断った。理由は単純だった。劣等感に耐えられなかったのだ。
長兄の葛城陽介は、有名大学を卒業して大手商社に就職し、美人の妻と二人の子供に恵まれていた。次兄の葛城大地は、音楽大学を首席で卒業し、プロのオーケストラでトランペット奏者として活躍している。二人とも背が高く、顔立ちも整っていて、何より自信に満ちていた。
それに比べて透は、何もなかった。勉強はできなかった。運動もできなかった。容姿に自信もなかった。中学の頃から太り始め、高校に入る頃には既に八十キロを超えていた。母親は看護師として忙しく働いており、透の食生活を管理する余裕はなかった。透は自分でコンビニ弁当を買い、スナック菓子を食べ、炭酸飲料を飲み続けた。
そして、誰にも言えない秘密。部屋の隅に隠してあるポスターとダンス動画のコレクション。
透は、男性アイドルグループが好きだった。
いや、好きという言葉では足りない。憧れていた。嫉妬していた。羨んでいた。そして、同時に軽蔑していた。
五人組のアイドルグループ『STELLAR』。彼らはテレビで輝き、何万人ものファンに愛され、才能と美貌を持ち、この世の全ての幸運を手にしているように見えた。透はそれが許せなかった。なぜ自分ではなく、彼らなのか。同じ人間なのに、なぜこんなにも差があるのか。掲示板には、彼らを貶める書き込みを何度もした。しかし、どれだけ悪口を書いても、彼らの人気は揺るがなかった。
だが同時に、透は彼らの踊りに魅了されていた。キレのある動き、完璧な同調、観客を惹きつける表現力。それは透が決して持つことのできないものだった。YouTubeで彼らのライブ映像を繰り返し見ては、振り付けを覚えた。そして夜中、誰も見ていない時、透は一人で踊った。鏡の前で身体を動かした。もちろん、百七キロの巨体では、アイドルのようには動けない。息は上がり、汗が噴き出し、膝が痛む。それでも透は踊った。踊っている時だけ、自分が別の何かになれる気がした。醜い自分を忘れられる気がした。
そんな姿を、母親に見られた日。
それは一年前の夏だった。夜中の二時、透はヘッドホンをつけて踊っていた。汗だくになりながら、必死に身体を動かしていた。鏡の中の自分は醜かったが、それでも透は踊り続けた。
ドアが開いた音に気づいたのは、母親が部屋に入ってきてからだった。
透は凍りついた。
母親もまた、立ち尽くしていた。
二人の視線が交錯した。母親の目には、驚きと、そして何か別の感情があった。それは憐れみだったかもしれないし、安堵だったかもしれない。息子にも好きなことがあったのだと、そう思ったのかもしれない。
しかし透には、それが屈辱だった。
恥辱だった。
全てを見られた気がした。自分の惨めさを、弱さを、醜さを、全て晒してしまった気がした。
透は母親を殴った。
それは衝動だった。恥辱と怒りと、言葉にできない感情が、拳となって母親に向かった。母親は倒れ、頬を押さえて呆然としていた。透もまた、自分が何をしたのか理解するのに時間がかかった。
その日から、全てが壊れた。母親は透を恐れるようになり、透もまた、母親と顔を合わせることを避けるようになった。会話はなくなり、食事も別々になり、同じ家に住んでいながら、二人は完全に断絶した。
長兄と次兄は、それを知って激怒した。電話で説教され、たまに帰省した時にも説教された。透はそれがたまらなく嫌だった。お前らに何がわかる。お前らは成功者だ。勝ち組だ。俺の気持ちなんてわかるはずがない。
そうして透は、ますます部屋に引きこもった。ネットの世界に逃げ込んだ。匿名の掲示板で、他人を罵倒し、ウイルスをばらまき、些細な優越感を得ることで、自分の存在を確認した。
透は、自分の死体から目を逸らした。見たくなかった。あれが自分だとは認めたくなかった。あんな無様な姿で、あんな惨めな死に方で、自分の人生が終わったなんて。
ふと、部屋の隅に目が行った。姿見が置いてある。生前、透は鏡を避けていた。自分の姿を見るたびに嫌悪感が湧いたからだ。しかし今は、確認したかった。死んだ自分は、どんな姿をしているのか。
透はゆっくりと鏡に近づいた。
そして、鏡に映った自分の姿を見て、絶句した。
「……嘘だろ」
そこに映っていたのは、透が知っている自分ではなかった。
痩せていた。いや、痩せているというより、適正な体型だった。百七キロの脂肪が消え、骨格と筋肉だけが残っている。顔も違った。生前は脂肪に埋もれていた輪郭が、シャープに浮き出ている。鼻筋は通り、唇は形良く、目は大きく、睫毛は長い。頬骨の位置、顎のライン、全てが整っている。
それは、透が夢見ていた自分の姿だった。いや、透がそうあるべきだった姿だった。
「なんだよ、これ……」
透は鏡に映る自分を見つめた。薄く透けた身体。しかしその輪郭は美しかった。生前、鏡を見るたびに感じていた嫌悪感はなかった。むしろ、見とれてしまいそうだった。
「俺、こんな顔だったのか……」
透は笑った。乾いた、自嘲的な笑いだった。
「今更かよ。死んでから気づいても、意味ねえよ」
もし生前、この姿だったら。もし脂肪に埋もれていなかったら。透の人生は違っていただろうか。友人ができただろうか。恋人ができただろうか。兄たちのように、堂々と生きられただろうか。
いや、無理だ。透は首を振った。顔だけの問題じゃない。中身が腐っていた。性格が歪んでいた。どんな姿をしていても、透は透だった。
「全部、遅すぎたんだよ」
透は鏡から目を離し、部屋を見回した。ここには何もない。もう何も。これから先も、何もない。
ふと、窓の外が気になった。透は壁をすり抜けて、外に出た。
六月の朝。太陽は昇り始め、空は青く澄んでいた。街には朝の気配が満ちている。通勤する人々、学校に向かう子供たち、開店準備をする店員たち。車が走り、鳥が鳴き、風が吹いている。
生きている人々。
透は、その光景を見下ろしながら、胸の奥に熱いものが湧き上がるのを感じた。
それは羨望だった。嫉妬だった。そして、怒りだった。
「なんでお前らは生きてるんだよ」
透は呟いた。
「なんでお前らは幸せそうなんだよ」
声は誰にも届かなかった。風に乗ることもなく、ただ虚空に消えた。
透は、自分の中に渦巻く感情を自覚した。それは未練だった。執着だった。そして、恨みだった。生きたかった。認められたかった。愛されたかった。でも、それは全て叶わなかった。
「俺は……このまま消えるのか?」
そんなのは嫌だ。認めたくない。せめて、せめて何か。何か一つでも、爪痕を残したい。この世界に、自分が存在していた証を残したい。
「呪ってやる」
透は決意した。
「この世の幸せな奴らを、全員、呪い殺してやる」
その瞬間、透の身体が変化した。いや、正確には、透の周囲に黒い靄が立ち上った。それは悪意の塊だった。負の感情が、実体化したものだった。空気が重くなり、気温が下がった気がした。透の指先から、黒い煙のようなものが這い出ている。
透は笑った。今度は心の底から。歪んだ、しかし確かな喜びを伴った笑いだった。
「そうか。俺、悪霊になったのか」
それならそれでいい。どうせ生前もろくなことはしてこなかった。ネットで他人を傷つけ、ウイルスをばらまき、母親を殴り、引きこもって腐っていた。それなら死後くらい、もっと盛大に悪いことをしてやる。遠慮なんてしない。誰にも文句は言わせない。
透は街を見下ろした。誰から呪おうか。あの幸せそうなカップルか。それとも、楽しそうに笑っている学生たちか。考えるだけで楽しくなってきた。心が躍った。生前には感じたことのない、純粋な高揚感だった。
その時、透の視界に、一人の女性が入った。
長身で、黒髪のロングヘア。高級ブランドのスーツを着こなし、颯爽と歩いている。姿勢がいい。自信に満ちている。美しい。そして、何より、幸せそうだった。まるで世界の全てが自分のものだと言わんばかりに。
透は、その女性を見た瞬間、激しい嫉妬を感じた。
なんだ、あいつは。なんでそんなに堂々としている。なんでそんなに幸せそうなんだ。
「お前だ」
透は決めた。
「お前から呪い殺してやる」
透は、その女性の後を追い始めた。黒い靄を纏いながら、空中を滑るように移動する。女性は透の存在に気づかず、軽やかな足取りで歩き続けている。
透は笑った。
これから、お前の人生をめちゃくちゃにしてやる。お前が味わったことのない恐怖を、絶望を、苦しみを、全部味わわせてやる。そして最後には、呪い殺してやる。
葛城透の、悪霊としての人生、いや afterlife が、今、始まろうとしていた。
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