雲の花嫁

水谷なっぱ

雲の花嫁

 その山奥の村には、しきたりがあった。

 百年に一度、雲の神に生贄を捧げるのだ。

 此度、選ばれたのはユイという少女だった。


「ユイ、これは神聖な儀式である。身を清め、雲神様にその身を捧げるのだ」

「はい、心得ております。司祭様」


 薄青い空には、白い雲がたなびいている。




 ユイは生まれながらにして、生贄となる定めを負っていた。

 ゆえに、村と神を結ぶ者として、ユイと名付けられた。

 彼女が選ばれた理由は、実に単純なことであった。

 彼女の生まれた年、他に生まれた赤子はすべて男児であり、しかも父は彼女の誕生直前に徴兵ちょうへいで命を落としていた。

 すなわち、後ろ盾を持たぬ母には、神事を拒むすべなどなかったのである。


 ユイが齢十八になったとき、司祭に母子共々呼び出された。


「ユイ、此度こたびの呼び出しの用件は、わかっていような?」

「はい、司祭様。心得ております」


 村の最奥の古びた神殿。

 神の像の前で、ユイはこうべを垂れた。

 司祭は満足気に頷き、後ろに控える母は肩を震わせて俯いている。


「この地を治める雲神様に、その身をささげるのだ。さすれば、後の百年、我が村は滅びを免れる」

「はい。よくしていただいた村の皆様に、この身を持って恩返しいたします」

「よろしい。ではせめてもの猶予をやろう。明日の早朝にやしろに参れ。それまでは自由とする」

「ありがたきお言葉。感謝いたします」


 ユイは深く頭を垂れたまま、母と連れ立って、静かに神殿を後にした。


「ユイ……ごめんなさい……ごめんなさい……!」

「私なら大丈夫です、母さん。そんなに泣かないで」

「おい、ユイ……本当に行っちまうのかよ!」


 そのとき、幼馴染のカイルが険しい面持ちで駆け寄ってきた。

 ユイは黙って首を横に振る。


「ええ、行くわ。それが私のお役目で、そのためにいままで生かされてきたの。知ってるでしょう」


 言葉を飲み込むカイルに背を向け、ユイは母と共に家へと戻り、その夜を静かに明かした。

 夜空には星々が瞬き、ユイは最期にあおぐ景色がかくも美しき空であることに、胸が締めつけられる思いで涙を堪えた。

 翌朝、家を出たユイの前にカイルが立っていた。されど彼女は視線を交わすことなく、ただ黙して神殿へと歩を進めた。

 涙に沈む母と別れを告げ、ユイは司祭と巫女たちに導かれつつ、社へと歩を進めた。

 身をきよめ、潔白なる衣をまとい、静かに祭壇へと身を横たえた。


「ここに、神への供物くもつを捧げます」


 司祭の声が神殿に響いた刹那、蒼穹はかげり、暗雲が渦を巻きはじめた。

 やがて巨大な竜が天より舞い降り、ユイの身をひと掬いにすると、疾風と共に空へと姿を消した。





「……ここは?」


 ユイが目を開けると、空の上にいた。

 柔らかな寝床はまるで白雲のごとく、ユイは身を預ければ落ちてしまいそうな心許なさに身を強ばらせつつも、静かに身を起こした。


「目が覚めたか」


 穏やかな声がして、驚いたユイが振り向くと、そこには男性が立っていた。

 すらりと伸びた体躯に、雪のごとき肌。髪は雲を編んだような白銀の光を帯び、年の頃は二十代の終わりかと思われた。


「……あなたが、雲神様ですか?」


 おそるおそる問いかけるユイに、男は静かに微笑み、彼女の座す雲の寝床へと身を沈めた。

 間近に座せば、ユイよりも頭ひとつ以上高くあったが、その面差しは柔らかく、威を放つどころか、むしろ安らぎを覚えさせた。


「我が名はクロード。空を司る者。君の名は?」


「わたくしはユイと申します。此度の贄として、参りました」


 ユイはごくりと喉を鳴らし、膝を正して座り直した。

 ゆっくりと頭を下げると、クロードの手が髪に触れた。


 ああ、これで私の生も終わりなのね。

 ユイはきつくまぶたを閉ざしたが、いくら待てども痛みは訪れなかった。

 それどころか、髪は指先にて優しく梳かれている。


「……あの……?」


「なんだい?」


「わたくしをお召し上がりになるのですよね……?」


「ん? 僕は神様だから、飲み食いはしない。信仰心があれば、生きていけるからね」


「では、なんのためににえをお求めになるのですか……?」


 ユイは困惑に胸を乱しながらも、村の古きしきたりを語り伝えた。

 村のための生贄として、訪れたのだと。

 そのために生を捨てて参ったことを手短に。


「ああ……。長きに渡ると、寂しいからね。妻を求めたんだよ。それがどこかで食い違ったらしい。立てるかい? 着いておいで」


 クロードは静かに立ち上がり、白銀の袖を揺らしながら、ユイへと手を差し伸べた。

 しばし逡巡したのち、ユイはその手を取った。

 触れた掌はひんやりと冷たく、どこか現し世の温もりを離れた感触であった。

 導かれた先は墓所であった。

 されど陰鬱さは微塵もなく、澄み渡る蒼穹と清冽な空気に抱かれている。


「今までの妻たちだよ。人間は脆いから、六十年もすれば朽ちてしまう」


「だから、百年おきに贄……妻を求めてらしたのですか?」


「うん。妻の実家を無碍にはできないから、村の安寧あんねいを約束していたけど……、それが年月の間にずいぶんねじ曲がったみたいだ」


 クロードは自嘲の笑みを浮かべ、その白銀の髪を風に遊ばせた。

 ユイの眼前に並ぶ墓石は、いずれも丁寧に手入れが施されていた。

 ……ユイの父の墓と同じように。

 これほどまでに死者を悼む御方を、どうして悪しき存在と呼べようか。

 重ねたままの手を、ユイはきゅっと握りなおした。


「あの、差し出がましいことを申すのですが、こちらのお墓、わたくしが手入れさせていただいてもよろしいでしょうか?」


「……いや」


 クロードは目を丸くしてから、ゆっくりと首を横に振った。

 図々しかったかしらと思ったユイが謝る前に、クロードが微笑んだ。


「一緒にやろう。彼女たちは、僕の妻だから」


「……はい!」


「君にも、そうなってほしいな。そう言ってくれたのは、君が初めてだよ」


 クロードは静やかに手を掲げ、白銀の環を差し出した。


「はい……不束者ですが、よろしくお願いいたします」


 ユイが左手を差し出すと、白銀の輪は薬指にピタリと収まる。

 彼女を見下ろす眼差しは深い青で、好きな色だと思った。

 雲上にありながら、蒼穹そうきゅうはなおも高く、深き青を湛えてユイを包み込んでいた。

 こうして、二人の生活が始まった。




「かつてはね、空の民と地の民は交流があったんだ。……ただ、地上は争いが絶えない。僕らは諍いを好まないから」


 クロードはユイの手を引きながら、穏やかに語った。

 雲の上を歩くには不思議な感覚がいる。

 柔らかく沈むようでいて、確かな足場がある。だが一歩でも踏み外せば、底知れぬ青空へと落ちてしまうような気がして、ユイの心臓は高鳴った。

 だからなのか、クロードはどこへ行くにもユイの手を決して離さなかった。

 一度だけ、彼は低く囁いた。


「ユイの手は温かいね」


 ――それが本音なのかもしれない。そう思うと、胸の奥がじんわり熱を帯びた。


「わたくしも、争いは好みません。……父は、そのために亡くなりましたから」


 小さくこぼした声に、クロードが振り返り、深い蒼の瞳でユイを見つめた。


「その分、母が愛してくれました。……けれど母は時折、一人で泣いていました。争いなんて、好きな人はきっといません」


「……ユイ、見てご覧」


 クロードに導かれ、ユイは雲の合間から地上を覗き込む。

 そこに広がっていたのは、生まれ育った静かな山村ではなく、輝く海と、そのほとりに広がる大きな街だった。

 太陽の光を跳ね返す波。

 赤や青に彩られた屋根の群れ。

 行き交う人々の姿。

 まるで絵巻物のようにきらめく景色に、ユイは息を呑んだ。


「まあ……なんて、美しい。人も、あんなにたくさん……!」


「たしかに人は争う。けれど、そればかりではない。……僕も、知ってはいるのだけどね」


「クロード様は、あの風景を美しいとお思いですか?」


「うん。美しい自然と、それに寄り添う地上の民の営み――僕はそれを、美しいと思う」


「では、わたくしと一緒ですね」


 ユイは静かに微笑み、クロードの手をそっと握り直した。

 たしかに景色は美しかったが、あまりの高さに心は怯み、大きな手に縋りたくなった。

 クロードは何も言わずに、ユイの手をさっきよりも少しだけ強く握る。

 白い雲は、二人の足元で柔らかく漂っていた。


 二人は手を取り合い、雲の彼方を共に巡った。

 雲さえ連なれば、クロードはどこへでも歩み、やがて歩法を身につけたユイもまた、彼と共に幾多いくたの世界を巡り歩いた。





 そして幾年ののち、ユイは久方ぶりに生まれ育った山村を、雲の上より覗き見た。

 ――そこでは、争いの支度をしていた。


「雲神ってのは、本当に村を守ってくれるのか?」

「ユイは、もう食われちまったのかよ」

「神様なんて、見たこともないのにあてにできるか!」


 俯く母の肩を抱いて、カイルが司祭に食って掛かっている。

 その背後には、武具に身を固めた男たちが、重々しく首を垂れていた。

 彼らの頭上に広がる暗雲のただ中で、ユイは息を呑んだ。


「……なんてこと」


「ユイ」


 静かに呼ばれて、ユイは隣りに立つクロードを見上げた。

 彼の顔には、なんの表情も浮かんでいない。


「ユイ……僕は」


 クロードが最後まで言い終える前に、カイルを先頭とした男たちが祭壇へと向かう。

 ユイが振り返ると、雲が突き破られ、槍や剣が振りかざされるところだった。


「こんなもの、僕に効きはしないのに」


 クロードは低く呟き、手をひと振りした。

 男たちは暗雲に呑まれ、地の底へと引きずり落とされた。


「ユイ、ユイ……! 必ず助けるからな!!」


 カイルの悲痛な叫びがこだまする。


「クロード様……」


「……僕がいる限り、空と地上の民は和解は難しいらしい」


「そんなこと……! わたくしは、あなたさまをこんなにもお慕いしております!」


 ユイは涙に霞む瞳で、クロードの手を強く取った。

 その手は、刃が当たったのか、いくつか切り傷ができていた。

 されど傷は瞬く間に癒え、ただ彼女と対をなす白銀の環のみが残った。


「しかし、彼らはそうは思っていないらしい」


 クロードの言うとおりだった。

 カイルを先頭に、村人たちは幾度となく雲上へ攻め入るようになった。


 そんな日々がひと月ほど続いたあと、クロードが険しい顔で呟いた。


「よくないな」


「クロード様?」


 付き従うユイはクロードの指差した先を覗きこむ。

 ――純白の雲に、深々と亀裂が走っていた。

 ユイは顔をしかめる。

 その裂け目は黒く焦げ、微かに雷光を散らし、不穏な音を響かせていた。


「これは……?」


「地上から無理に雲をこじ開けて侵入しているせいで、歪が発生しているんだ。今は小さいけれど、やがて大きくなれば嵐となり、地上を飲み込んでしまう」


「そんな……」


「ユイ。潮時だ」


「……嫌でございます!」


 クロードの手がユイの頬を撫でた。

 その手は、最初と同じように冷たくて、でも優しくユイを包む。


「悪いのは地上の民ではありませんか! クロード様は約束をお守りですのに、有りもしない火種を作って争いを起こして……! わたくしは、あなた様の妻です!!」


「ユイ。君がここにいる限り、彼らに安寧は訪れないんだよ。……それに、君だっていずれは僕より先に逝く。それが少し早まるだけだ」


「クロード様……」


 ユイは堰を切ったように涙を溢し、ただ泣くことしかできなかった。

 流れ落ちる涙は、足元の暗雲に呑まれ、影の底へと沈んでいった。

 彼女もわかってはいるのだ。

 地上に戻れば彼らが雲上へ攻め入ることはなくなり、歪もやがて収まる。

 しかし、そのためにまたもや自分が贄にされるのか?

 今度は最愛の方まで巻き込んで。


「……わかりました」


 ユイは唇を噛んだ。

 小さな拳を血がにじむほど握り締め、涙に濡れた瞳でクロードを仰ぎ見た。

 足元で暗雲がゴロリと唸り声を上げた。


「わたくし、村へ戻らせていただきます。……ですが、あなた様の妻をやめるつもりはありません!」


「ユイ……?」


 ユイは震える身を正し、気高く背を伸ばして、口元にそっと手を添えた。

 クロードは彼女を抱き上げ、耳を寄せた。


「お願いがございますの」


 聞き終えたクロードはふふっと笑った。


「承知した。我が妻よ。君は、いつまでも僕の妻だ」


「はい。……よろしくお願いいたします。最愛の方」


 二人は互いをひしと抱き締め、言葉ならぬ想いを胸に託して、別れを告げた。





 早朝、ユイは薄雲を抜けて、祭壇へと降り立った。


「司祭、司祭はおりますか!」


「こ、これは……ユイ……?」


「ユイ様、と。わたくし、彼の方の使いとして参りましたの」


 ユイは気高き女神のごとく堂々と振る舞い、司祭と巫女たちを鋭い眼差しで見下ろした。

 そのために、クロードは彼女を真の女神と見まがうほどに荘厳に着飾らせていた。


「……ユイ様、此度はどういったご用件で……?」


 事態を察した司祭が素早く膝をつく。

 混乱したままの巫女たちも司祭に倣った。


「幾度も神域を汚すその蛮行、もはや見過ごせません。神の使いとして、わたくしが直々にあなた方を監視いたします。わたくしに仇なすことあらば、神罰が下ると肝に銘じなさい」


「はは……っ。かしこまりまして、ございます」


 司祭が頭を垂れると同時に、祭壇の間に武装した男たちが現れた。

 先頭にたつ男、カイルがユイを見て目を見開く。


「ユイ……! 無事だったんだな……!?」


「無礼者」


 駆け寄ろうとするカイルを、ユイは氷のような声音で一喝した。

 カイルは立ち止まり、ポカンと彼女を見上げる。


「ユイ……? どうした……? その格好は……?」


「わたくしは、彼の方の使いとしてここにいるのです。人間風情が、頭の高い」


 ユイは左手を高く掲げ、人差し指を鋭く突きつけた。

 その薬指に嵌められた白銀の指輪が、稲妻の残光のようにチリチリと光を放った。

 ユイが人差し指を鋭く下に振り下ろすと、カイルの身体は見えぬ力に押さえつけられ、頭が無残に地面へ叩きつけられた。


「なっ……!? ユイ、やめろ……! 俺だ、カイルだ! どうして……どうしてそんな目で俺を見るんだ……!」


 床に押さえつけられたカイルの顔は苦痛と混乱で歪み、瞳には信じがたいものを見る色が浮かんでいた。


「ユイ……お前は……俺たちの仲間じゃなかったのか……?」


「これは最後の通告です。態度を改め、神への畏怖を胸に刻みなさい。次は……命はありませんよ」


「ユイ……!!」


 カイルは顔を真っ青にし、なおも「ユイ……!」と震える声で呼び続けながら、仲間の男たちに半ば引きずられるように祭壇の間を去っていった。

 入れ替わりで、ユイの母が飛び込んできた。

 ユイは目配せをして、司祭たちを下がらせる。


「ユイ、ユイなの……?」


「お母さん……!!」


 ユイは祭壇から降り、母へと駆け寄る。


「お母さん……! こんなに痩せ細ってしまって……心配をかけて、ごめんなさい……」


「あなたが無事なら、それでいいのよ……ユイ、私の子……」


 母娘が泣きながら抱き合う間に、司祭が一人で戻ってきた。

 そして、入り口に呪いをかける。

 一瞬覗いた空は、暗雲が渦巻き、雷が走っていた。


「やれやれ……。ユイ、きみ、役者だねえ……ちょっと大根だけど」


 苦笑する司祭に、ユイは気まずい思いで頭を下げた。


「う、申し訳ありません……演じるのには慣れなくて……」


「かまわんよ。こちらこそ、つらい役目を負わせてしまい、申し訳なかった」


 そしてユイはクロードとの企みを話した。

 雲の亀裂のこと。

 ユイがクロードの使いとして君臨することで村の安寧を守ること。


「ユイは、それでいいの……? その、あなたは雲神様のことは……」


 困惑する母に、ユイは柔らかく微笑みかけた。


「愛しております。あんなにもわたくしを慈しみ、守ってくださった方は、お母さんを除けばただお一人……雲神様だけです。わたくしの命も心も、すべてあの方に捧げております。……けれども、わたくしが雲上に留まれば、人は決して争いをやめませんでしょう?」


「カイルは……そうだね。最後まで君が贄となることを拒んでいたから」


「司祭様は、クロード様のことをご存知でらしたのね?」


「無論だとも。私の父や祖父……もっと前から、代々友人……というのは図々しいかもしれないが、よくして頂いていたから。しかし、なかなか今の若者には『神様』は理解し難いらしい」


 司祭の寂しそうな顔に、ユイは頷いた。

 もっともユイは、クロード様の真の御心と優しさは、己と代々の妻だけが知っていればよいと静かに思っていた。


 その後、三人は結託した。

 司祭と母は、ユイを現人神として祭り上げ、神の威光を村人に知らしめた。

 カイルは何度となく彼女に近づこうとしたが、ユイは受け入れなかった。


「ユイ……! 俺たちを見捨てて、あの雲神様と共に生きることを選ぶのか……? 俺は……ずっと、ずっとお前を守りたかったのに!」


 叫びは届かなかった。

 ユイの心には、もうたった一柱の男しかいなかったのだ。




 やがて、母が亡くなり、司祭も代替わりした。

 ユイも老いを重ね、起き上がることも出来なくなった。

 ある朝、ユイは祭壇に作らせた寝所で横になり、薄青い空を見つめていた。


「ユイ様」


「はあい」


 甲高い子供の声が、ユイを呼んだ。

 ゆっくりと顔を向けると、ひんやりとした風と司祭の幼いひ孫が、おそるおそる祭壇の間に忍び込んでくる。


「ユイさま、かみさまのおはなし、してください」

「ええ、ええ。もちろんです。それはそれは、素敵なお方なのよ」

「……そこにいらっしゃる、おにいさんみたいにですか?」

「え……?」


 ユイの体がふっと軽くなった。


「迎えに参った」

「あら……遅くなりまして、申し訳ございません」

「なに、地上の民の寿命など、僕には一瞬のことだ。……とはいえ、愛しい君を待つには、いささか永く感じたがね」


 差し出された手を取って、ユイは振り返った。

 少年が目を丸くして二人を見上げている。


「きみ、お父様を呼んでこれる?」

「うん!」

「じゃあ、ユイはお迎えが参りましたので、失礼いたしますと伝えてもらえる?」

「はい、わかりました、ユイさま。……かみさまも、さようなら」

「はい、さようなら。……生贄は、このわたくしをもって終わりでございます」

「それも、つたえる?」

「お願いします」


 パタパタと走り去る少年に背を向けて、ユイはクロードを見上げた。

 微笑みあった二人は、静かに白い雲の上へと登る。


 白い雲の上に降り立つと、風がそっと裾を揺らした。

 ユイはその胸に抱かれ、安堵のように目を閉じる。

 もう、別れも、恐れもない。

 ただひとりの夫の腕の中で、永遠に生きていけるのだから。


「これからも、ずっと一緒に」


「ええ、どこまでも」


 二つの声は静かに溶け合い、果てしない空の彼方へと続いていった。





「お願いがございますの」


 それは、かつてユイが一度だけ口にした願いだった。


「わたくし、地上に戻りましても、なおあなた様の妻を辞するつもりはございません。……ゆえに、身は朽ちても、魂を迎えに来てくださいますか?」


「……もちろんだとも。しかし、神の手に渡った魂は輪廻から外れ、未来永劫生まれ変わることができなくなる。それでも……いいのかい?」


「もちろんでございます。……わたくし、嫉妬深うございますゆえ。寂しさのあまり、わたくし以外の妻を迎えられることなど、決してお許し致しません」


「そうか。承知した、我が妻よ」


 クロードは微笑んで、ユイの願いを聞き入れた。

 その約束は、半世紀後に果たされた。


 雲の切れ間から朝の光が差しこみ、村の屋根を金色に染めていった。

 祭壇に残された寝台には、すでにユイの姿はなかったが、白布の上には一輪の白い花が静かに置かれていたという。


 人々はそれを「神が連れ帰った証」と語り継ぎ、以後、誰ひとりとして生贄を差し出すことはなかった。


 空を仰げば、やわらかな雲が寄り添い、離れず、永遠に漂っていた。

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雲の花嫁 水谷なっぱ @nappa_fake

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