1章 -Fly By Day-

1-1 開店準備

夜明け前の色が、まだ街から抜けきらない時間だった。


シャッターを半分だけあげると、ひやりとした海風が足もとを撫でていく。

通りはまだ人影もなく、波の音と港のトラックのエンジンが、遠くで薄く重なっていた。


この静けさが好きで、店主の 水澄遥みすみはるかは、毎朝ほとんど誰よりも早く店に来る。


店の照明をひとつ点ける。

真空管アンプのスイッチを押すと、低い唸りに混じって、小さく“カララ…”とガラスが震えるような音が立つ。

この店がゆっくりと目を覚ますときだけ生まれる、小さな癖のような音だ。


次に、遥はサイフォン器具を棚からそっと取り出した。

アルコールランプの芯を整え、マッチを擦ると、ぱち、と一瞬だけ鋭い光が揺れる。


淡い炎が安定すると、フラスコの下でじわりと熱が広がり、やがて水が小さく震えながら、ぽこ、ぽこ、と呼吸を始めた。

規則的なその音が、静かな店の空気に温度を与えていく。


豆を計量し、手挽きのミルへ落とす。

ハンドルを回すたび、ザラザラとした粒が砕け、その音がサイフォンの音と混じり合って、朝の店内にちいさなオーケストラができあがる。


上のロートに粉をそっと入れ、

フラスコの湯が登り口まで届くのを待つ。

ぼんやりとした熱のゆらぎが、ガラス越しに歪んで見えた。


カウンターを拭きながら、遥はふと窓の外を見やった。

くすんだ建物の壁、柔らかい海の気配。

今日も、気負わない朝だ。


それでも――と、胸の奥で思う。


「今日も誰かの“ちょっとだけ降りる場所”になれたらいいんだけどね」


独り言は、サイフォンの音と一緒に、やさしく店内へ溶けていった。


テーブルの向きを直し、窓ガラスの指紋を拭き取っていると、外が一段階だけ明るくなる。

始発フェリーのアナウンスが、風に揺られて届いた。


ちょうどコーヒーが上のロートへ持ち上がり、深い香りがふわりと広がる。

遥はそれをそっと攪拌し、抽出のタイミングを待った――

そんな落ち着いた朝のリズム。


開店まで、あと数分。


そのとき、扉の向こうで、制服の生地が擦れるような気配が、ゆっくりと近づいてきた。

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