ソファで寝るナマケモノ

やまなし

第1話 何でこんなことになったんだろうね

[注意事項]

 本作は、児童虐待をテーマとしており、精神的に負担のかかる描写が含まれます。

 登場人物の行動や思想は、いかなる犯罪行為も肯定・推奨するものではございません。

 読者の方々には、これらのテーマについてご留意の上、ご自身の判断でお読みいただくようお願いいたします。



 職員は私の正面に座り、何も書かれていないノートを開いたまま、ただ私を見つめていた。

「今日話したくないなら、それでも構いませんよ。沢渡さわたりさん。」

 私は職員の顔ではなく、ガラス戸に映った自分の顔を見た。ここにいる自分は、もうあの時の私ではない。

「何でこんなことになったんだろうね。」

 私の呟きは、部屋の中にいる誰にも向けられていなかった。この部屋に来る、ずっと前の自分に向けていた。

 ソファで寝転がる母の代わりに、家事をすべてやっていた頃の自分だ。

 


 私のお母さんは、家事をしない。

 いつもソファで寝転がり、ポテチをつまみながらテレビを観ている。

 洗濯はしないし、料理も作らない。お米すら炊かない。だから私の朝ごはんは、前日に買ってあったコンビニのパンであることが多い。

 散らかった部屋で私は小さなため息を吐きつつ、洗濯物を畳む。

 でもそれが当たり前だから、おかしいと思わないようにしていた。

 だって、それが私の生活だったから。


 今日も学校に行く。いつものように、クラスの人達に鼻をつまむ仕草をされた。

 でも仕方ないじゃないか。洗濯できない日もあるのだから。

 それで周りの席の人に「制服ちゃんと洗ってるの?」だなんて言われてから、こんな日が続いている。

 だけどそんなに辛くなかった。なんなら家事を頑張っている自分を偉いとすら思っていた。

 それに、私には美鳥みどりがいるから。美鳥だけ、いつも私と話してくれる。

 美鳥は私のように嫌われてるわけじゃない。何なら他にも友達は沢山いるのに、私とも仲良くしてくれるのだ。

 でも、そんな美鳥の秘密を知っているのは、私だけだ。


 そしてある日、美鳥とこんな話をした。

「今日の夜ご飯、どうしようかなあ。」

 美鳥は私の言葉に、目を丸くした。

「え、『夜ご飯何かな』じゃないの?」

「だって作るの私だし。何か変なの?」

 私の言葉に、美鳥が気遣わしげな表情になっていく。

「嫌な気分にさせたら申し訳ないんだけど、お母さん普段何してるの?」

 何が嫌な気分になるのかが分からず、躊躇いもせず答えた。

「いつもソファで寝転がってて、ポテチ食べて、テレビ観てるよ。」

 美鳥は考え込み、言いづらそうに私に言った。

香枝かえの家、おかしいと思うよ。」

『おかしいと思うよ』。その言葉に驚きを隠せなかった。

「でも、テストの結果が気に入らなかっただけで、階段から突き落とすような美鳥のお父さんのがおかしいよ。」

 美鳥はしばらく黙り込んだ。そして、静かに私に告げた。

「確かにうちの親もやばいよ。でも香枝のお母さんみたいな、家事を一切しない親も虐待してるって言うんだよ。」

 私のお母さんも、虐待してる…?なんで?

 空いた口が塞がらなかった。

「香枝。お父さんは?お父さんは何もしないの?」

「…いつからか帰って来なくなったよ。」

 お父さんは小学校低学年のときくらいに帰って来なくなった。どんな風だったかは覚えていない。

 ただ、そうなる前までは、お母さんがご飯を作ってくれていたことだけは覚えている。

「そっか。」

 非難もせず、変な同情もせず、ただ頷いてくれた。

「ねえ、香枝。」

「なに?」

 彼女の言葉を、今でも忘れない。


「一緒に逃げようよ。」


 この頃は始まりに過ぎなかった。

 13歳二人で、逃げようと思った。

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