絶望。
水鳥川倫理
第1話、運命の始まり。
ある朝、何気ない日常が当たり前に永遠に来ると思っていたとある日。
いつものように、僕は青い自転車のサドルに跨がっていた。潮風が制服のブレザーの袖を撫でていく。カバンの中で揺れる教科書の重みさえも、この先何十年も変わらないであろう未来を保証する、心地よい重さだった。
僕、佐倉悠真(さくら ゆうま)は中学二年生。人口三万人に満たない小さな海沿いの町、汐凪町(しおなぎちょう)で生まれ育った。
町は、緩やかな坂を下りきったところに広がる砂浜と、その砂浜に抱かれるように立つ汐凪中学校、そして、入り江に沿って建ち並ぶ昔ながらの家々で構成されていた。この町は「時間の流れがゆるやかだ」と観光客には言われるけれど、僕たちにとっては、生まれた時からずっと続く、息をするのと同じくらい自然で、変わらない場所だった。
「悠真、早くしないと遅れるよ!」
背後から、少し焦ったような、でもどこか弾んだ声が飛んできた。振り返ると、幼馴染の海野美咲(うみの みさき)が、白いソックスを翻しながら坂道を駆け下りてくるのが見えた。彼女の長い黒髪が、朝日に照らされて艶やかに揺れる。
「美咲はいつもギリギリなんだから。今日、朝練ないの?」
「美術部のコンクールは終わったからね! でも、昨日徹夜で描いたイラストを先生に見せたくてちょっと遅くなったの。さっさと行こうよ、健太が待ってるよ!」
美咲は、生まれた病院も小学校も中学校も一緒の、文字通りの「隣の家の子」だ。彼女は活発で、成績優秀、美術の才能にも恵まれている。僕とは正反対で、太陽みたいに明るい。
そして、もう一人が、小林健太(こばやし けんた)。学年一のムードメーカーで、野球部のエース。美咲と僕を含めた三人組は、幼稚園の頃からずっと一緒で、誰が見ても「セット」として認識されている。
自転車を漕ぎ出し、海岸沿いの通学路に出ると、少し先に健太の後ろ姿が見えた。
「よっ、健太!」
僕が声をかけると、健太はグローブを握りしめたまま振り返り、満面の笑みを見せた。
「お、やっと来たか、ノロマたち。今日の放課後、俺たちの打順の組み方を話し合うから、体育館裏に集合な!」
「わかったよ。でも、悠真は美術部じゃなくて野球部に入ればよかったのに。そうすれば俺らの打線も完璧だったのにな!」と美咲が茶化す。
「美術は苦手だし、運動神経は健太に全部持っていかれたからね」と僕は笑って返す。
そんな他愛のない会話。僕たちは、この先もずっと、夏は三人で海に飛び込み、冬は健太の家でコタツに入り、互いの進路や恋バナで盛り上がるのだと、疑いもしなかった。僕たちのこの日常は、鉄のように硬く、永遠に続くものだと信じていた。
昼休みの喧騒が収まり、午後の授業が始まっていた。
今日は三時間目の体育でバドミントンをしたため、体が少し火照っている。四時間目の理科は、光の屈折について。窓の外から差し込む夏の強い光が、美咲の席のガラス製ビーカーに反射して、教室の天井に虹の破片を散らしている。
悠真は、理科の先生の単調な声を聞きながら、ぼんやりと美咲の横顔を見ていた。美咲は、いつも通り真剣な顔でノートを取っている。そのノートの端には、授業とは関係のない小さな天使のスケッチが描かれていた。彼女の「永遠」は、絵を描くことと、この町で暮らすことなのだろう。
(この町で、このまま大人になって、家を建てて、たまに三人で集まって……)
そんな未来の絵図は、あまりにもありふれていて、あまりにも幸せそうだった。
その時だった。
キィーン、キィーン、キィィィィィン!!
けたたましい電子音が、教室中に響き渡った。理科の先生の手元にあったスマートフォンが、耳をつんざくような甲高い警報を鳴らしている。
「緊急地震速報です! 強い揺れに警戒してください!」
直後、教室の蛍光灯がバチバチと音を立て、一瞬で消えた。
先生は即座に声を張り上げた。「机の下に隠れろ! 頭を守れ!」
生徒たちは反射的に机の下に潜り込む。悠真も美咲も、健太も。全員が同じ行動をとった。
だが、先生の顔には、これまでの避難訓練では見たことのない、恐怖の色が浮かんでいた。
ゴオオオオオオッ……
次の瞬間、町全体から、地を這うような、聞いたことのない低い唸り声が響き渡った。それは、大型トラックが何台も同時に、地面を削りながら走るような、悍ましい音だった。
そして、揺れが来た。
体育館の裏で友達とふざけ合った後の軽い眩暈などとは比べ物にならない、破壊的な揺れ。まるで巨大な何かに教室ごと掴まれて、前後左右に思い切り振り回されているようだった。
ガッ、ガタガタ、ドォンッ!!
ガラスが割れる音。ロッカーが倒れる鈍い轟音。美咲が座っていた机が、激しく揺さぶられて宙に浮きそうになる。悠真は慌てて美咲の机の脚を掴んだ。
「美咲!大丈夫か!」
「う、うん……っ!」美咲は震える声で答えたが、顔は強張り、理科室の壁が崩れ落ちるのではないかと怯えていた。
揺れは、体感で一分以上続いた。長く、深く、容赦なく。その間、悠真の頭の中は真っ白になりながらも、ただただ「終わらないでくれ」とだけ祈っていた。
やがて、揺れはゆっくりと収束していった。
静寂が戻る。だが、それは安堵の静寂ではない。耳鳴りがするほどの異常な静けさ。
先生はすぐさま冷静を取り戻し、低い声で指示を出した。
「津波の恐れがある! すぐに避難するぞ! 悠真、美咲、健太! 周りの怪我人を助けながら、高台の避難所へ急げ!」
僕たちは立ち上がった。教室の床には、割れたビーカーの破片、散乱した教科書、倒れた教卓。変わり果てた光景が広がっていた。
健太が真っ先に声を上げる。「高台の神社まで全力で走るぞ!」
学校の校庭に集合した生徒たちは、先生たちの誘導に従い、一斉に高台へ続く坂道を登り始めた。校舎の壁には大きな亀裂が走り、窓枠は歪み、ところどころ瓦が剥がれ落ちている。
悠真と美咲、健太は三人が並んで走り出した。
「美咲、大丈夫か。足、ひねってないか?」健太が美咲を気遣う。
「大丈夫! 走れる!」美咲はそう答えるものの、顔色は蒼白だ。
避難経路となっている町の中は、すでに地獄絵図の片鱗を見せていた。
古い家屋の土壁が剥がれ落ち、ブロック塀が倒壊している。停電のため信号は消え、電柱は不気味に傾いている。近所のおばさんたちが、泣きながら子供の手を引き、必死の形相で坂道を駆け上がってくる。
その時、町内放送が聞こえてきた。ノイズだらけで聞き取りにくいが、その内容は耳から離れなかった。
「…ただいまより、大津波警報を発令します。ただいまより、大津波警報を発令します。海岸付近の方は、直ちに高台へ避難してください。津波の到達予想時刻は、地震発生からおよそ10分後です…」
10分。
地震が起きてから、すでに数分が経過している。残りは、あとわずか。
美咲が、ハッと息を飲んだ。
「家…お母さん…」
美咲の家は、この町の中でも海に最も近い場所にあった。悠真の家も、そこから数百メートルしか離れていない。
悠真は美咲の手を強く握り、健太もまた、二人の背中を押すように走った。
「健太! 美咲! 考えるな! 走れ! 高台まであと少しだ!」
僕たちは、自分たちが育った町を、家を、学校を、そして当たり前の日常を失うことになる、そのわずか数分の猶予を与えられたに過ぎなかった。
僕たちの眼下に広がる汐凪町。瓦礫が散乱し、砂埃が舞う中、その海岸線は、さっきまでとは比べ物にならないほど、不気味に遠くまで引いているように見えた。
海は、静かすぎた。
その静寂こそが、次に起こる破滅的な出来事の、最も恐ろしい前触れだと、僕たちはまだ知る由もなかった。
高台の神社まで、あと五分。僕たちは、ただ、走った。失うものの大きさを知らずに。
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