第2話 インプット部のアルマ

 風が、紙の匂いを連れてくる。


 工房の北側にある静謐な部屋──工房のインプット部は、今朝も薄い光の粒を漂わせていた。

 天窓から差し込む光は静かな呼吸のように揺れ、壁一面の本棚がその光を受けて遠い森のように沈黙している。


 司書アルマは白いシャツの袖を少し捲り、眼鏡の位置を慎重に直した。


 机の上には一冊の黒表紙のノートが広がり、そこには細かな文字でこう記されている。


《読む前に、問うこと。

──あなたは、この専門書からどんな“問い”に答えたいのか》


 それは、インプット部が本と対話する心得の冒頭文だった。


 アルマが最も重視する一文であり、彼女自身の哲学を象徴する問いでもある。


「……問いが定まらなければ、ページの隙間に潜む影は掴めないもの」


 独り言のように呟くと、静かな足音が近づいてきた。


 案の定、扉が控えめにノックされた。


「アルマ、入ってもいいかな?」


 企画部のサトリだった。黒髪をひとつに束ね、冷静で鋭い眼差しを持つ彼女はインプット部の決めるテーマに誰より敏感だった。


「ええ。実はちょうど、新しいインプットの最終確認をしていたところよ」


 アルマは静かにノートを回転させ、サトリの前に置いた。


 サトリは数秒読み、ふっと目を細めた。


「……まるで書が“語りかけてくる”ようだね。

 最初に問いを明確にさせる手法は、レビューにも創作にも効く」


「読者の目的が曖昧なままでは、専門性は霧散するわ。

 だからこそ“Why”から始める。

 そこから論理の森に踏み入るの」


 彼女の声は、ページの重なりをめくるように静かだった。


 それは資料にも記されていた──“読書とは、ページの隙間に潜む影を読む行為である”というアルマの哲学そのままだった。


 サトリはノートを閉じ、アルマの机を見渡した。 

 散らばる専門書──民俗学、心理学、比較宗教学、記号論、そして表現技法の論文集。そのどれもが、工房の物語を支える“血”になる。


「今月のテーマは決まった?」


「ええ──“喪われた祭祀と精霊観”。

 あなたの企画に合わせて、専門書レビューの構造を作ったわ」


 アルマは別のページを開いた。そこには整然とした四つの区分が並んでいた。


### 《専門書レビュー用メモ:最終構造》


1. 導入:読む目的と本の位置づけ


2. 中心の論理構造の整理


3. 三視点による深掘り(画期性/弱点/応用可能性)


4. まとめ:総合評価と読者への提言


「……完璧だね。アルマらしい、静かな構造美」


「構造は、読者の“迷わない道”になるわ。

 専門書は森よ。地図が必要でしょう?」


 サトリは満足げに頷いた。


 そのとき、軽い風が吹き込むように廊下から駆け足が聞こえてきた。


「アルマ姉さん! 今日のアイデア、最高だよ!」


 扉を勢いよく開け、構想部のソウが紙束を抱えて現れた。


 紙は曲がり、文字は踊り、線は跳ねている。いつも通り“嵐の手稿”だ。


「ほらこれ、専門書レビューにも使えるんじゃない?

 なんか難しい字がいっぱいで……意味わかんないけど!」


アルマは笑った。


「ソウ、あなたの“わからなさ”は大事よ。

 読書はまず“どこがわからないか”を知るところから始まるのだから」


 彼女は紙束を受け取り、ページをめくるように数枚を透かして読んだ。


「……これは古い祭祀の記録ね。

 うまくいけば専門書レビューの《応用可能性》に使える。

 世界観設計にも繋がるわ」


 そこへ、世界観設計部のレイナが姿を見せた。


「アルマ、その資料を借りてもいい?

 祭祀の地図を作り直したいの」


「もちろん。専門書のレビューは地図の“読解”でもあるのだから」


 そのやり取りを静かに眺めていたサトリが、ふと呟いた。


「……アルマ。

 あなたが作った“読書用プロンプト”は、工房の骨格そのものだね」


アルマはペン先をそっと紙に置いた。


「私はただ──

 外の世界の思考を、あなたたちの物語の血流へ繋ぐだけ。

 物語は知識によって深く息をするのよ」


「書を、物語の燃料に変えるんだね」


「ええ。それがインプット部の役目。

 そしてこれは、あなたたちがページを開くための“最初の灯り”」


 アルマはノートを閉じ、工房全体へ届くように静かに語った。


「──本を開く前に。

 あなたは、この書からどんな“問い”に答えたいのでしょう?」


 その言葉は、光の粒となって空気に溶ける。


 物語を作る者たちの胸の奥で、確かに灯りをともした。


 ページの隙間に潜む影へと手を伸ばす──


 インプット部の朝が、今日も静かに始まっていく。

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