悪魔祓い
@gagi
第1話
遠い場所の遠い時代の話だ。
人々は戦争と悪魔に怯えていた。
銃火器がまるで雪を解かすように人々の命を奪う。
雪崩のような戦車の群れが、村を瓦礫と廃墟に変えていく。
愛する人を失った人。財産と思い出を残して故郷を追われた人。それらの不幸がいつ、己の身に降りかかるのかと憂う人。
それらの人々の中には戦争の与える負荷に心が耐え切れず、狂いだすものがちらほらといた。
まるで悪魔に取りつかれたかのように。
人々は戦争と悪魔の災禍が自らに及ばぬようにと、信心深く神に祈る。
しかし、W.L.という男は戦争にも悪魔にも、神にも関心がなかった。
彼の関心事、というか常に意識している憎悪の対象は、同じ街で暮らす己以外の人間だった。
W.L.は街のクリーニング工場で働いている。
未だ戦禍の届かぬ街はずれの、川のほとり。川沿いの草地の上にふんわりと雪がつもったその中にある大きな建物。そこがW.L.の職場だった。
そこは大衆向けのクリーニング工場だった。低賃金の肉体労働者たちから汗にまみれた衣類の洗濯を二束三文で引き受ける。大量の衣類を工房でまとめてこなすことで、僅かな利益を積み重ねていた。
W.L.が配属されているのは衣類を洗剤でこすり洗いする工程だ。
洗剤を流すときの水。冬場のそれは手の全体を覆う氷のようで、W.L.の指先から手首までの体温をことごとく取り去っていく。彼の手はあかぎれ、ひび割れて、まるでゾンビのようだった。
長年の労働によって安い洗剤の陳腐な芳香と、人間の皮脂や老廃物の臭気がW.L.の皮膚の奥深くまで染みついていた。彼からは一概に臭いとは言い切れない、どちらかと言えば不快よりの体臭が漂う。
醜く、異臭がして、貧乏。そんなW.L.を人々は軽んじて嫌っていた。
W.L.が住むアパートメント。そこの他の住人たちは彼とすれ違えばあからさまに嫌な表情と雰囲気になった。
商店に行けば店主たちの接客は露骨に愛想が悪くなる。
所有者はことあるごとにW.L.の仕事へ難癖をつけた。洗剤を使いすぎだの、水を使いすぎだの。そして指導と称してW.L.を殴った。
そんな街の人々をW.L.は憎んでいる。
彼は衣類を洗剤でこすり洗いしながらいつも、ぶつぶつと憎悪の対象へ罵りの言葉を吐いた。
「隣の部屋の男、いつも俺をバカにしやがって。なにが『お前の工場に洗濯物を出してもいつも臭い。お前の腕が悪いからだろう』だ。それはお前がわきがだからだ。そんなに臭いのが嫌ならお前のわきを切り取ってやるぞ」
「肉屋のばばあ、俺の時だけ態度を悪くしやがって。ぶくぶく太って歩くだけでも大儀だから、疲れて接客もろくに出来ねえんだ。きびきび働けるように腹の肉をそぎ落としてやろうか」
「工場のオーナー、自分は何一つ働かねえくせに、ふらっとやって来てはケチばかりつけやがる。俺たちから搾り取った金で宝石の指輪やら首飾りやらをジャラジャラとつけやがって。趣味の悪い成金野郎が。そんなに宝石が好きなら、てめえの目ん玉も宝石に替えちまえ」
ぶつぶつと悪態をつきながら手を動かすW.L.の勤務態度は、他の従業員の彼に対する心証を悪くさせた。そして憎悪の対象がまた増えていく。
W.L.の初めての殺人は衝動による突発的なものだった。
その日はオーナーが工場へやって来て、いつも以上にW.L.へ暴力を振るった。
日没のなか雪道を歩くW.L.。頬にひりつく痛みを感じ、腹には溢れるほどの鬱憤を抱えながら、彼は家路についていた。
その道中、街灯の真下でW.L.は隣の部屋の男と出くわした。
隣の男は外套も羽織らず部屋着のままで、顔が赤らんでいる。右手にはビール瓶。どうやら酔っぱらっているようだった。
隣の部屋の男はその酔眼にW.L.の姿を認めると、千鳥足で彼に詰め寄った。
「L.よぉ、お前また適当な仕事をしやがったなぁ。お前のとこでクリーニングに出したコートがよぉ、また臭えんだよ。これで金をとるってのか、お前はよお!」
男は瓶を振り上げて、W.L.の頭に叩きつけた。
瓶が割れて、頭骨の内部が揺さぶられる。
この時だ。
脳の中心で何かが激しく発火した。
W.L.は殴られて俯いたまま屈んだ。雪の中に落ちた瓶の破片。その中でもっとも大きく、尖ったものを右手で拾い上げた。
体を起こし、流れるような動きで破片を男の喉元へ突き刺す。
瓶の破片を引き抜くと隣の男の喉からは、血と空気がごぽりと漏れ出た。
「――ッ、ガ、――ギ、」
隣の男が何かを喋ろうとする。けれども声帯が震える前に空気が喉から逃げていくから、うまく音が出ない。
「臭い、臭い、ってよお。そんなに臭いのが不満なら一つ教えてやるよ」
W.L.が左手で男の右手を掴み、腕を上げさせる。
「臭いのはてめえがわきがだからだ! てめえなんだよ! 臭いのは!」
W.L.は逆手に持った瓶の破片を、男の腋に突き刺した。
「――――ッ!!」
隣の部屋の男が悲鳴もどきのくぐもった音を発する。
「お前なんだよ、臭いのは! 言え、ごめんなさいって。臭くてごめんなさいって言え!」
W.L.は男の腋へガラス片を刺しては抜き、刺しては抜きを繰り返す。
「――ゴ、ゴッ! ――ザ、――ッ!」
男が何かを話そうとする。けれどうまくできない。
「ごめんなさいって言え! ごめんなさいって言え! ごめんなさいって言え!!」
W.L.は雪の上に男を組み伏せて、なおも執拗に右腋の刺突を続けた。
実を言うとこの時にはW.L.の怒りはある程度落ち着いていた。
彼は楽しんでいたのだ。男の反応を。腋をガラスで刺すたびに発音できないその喉で『ごめんなさい』を言おうとするその無様な姿を。
だから隣の男が事切れて反応を示さなくなると、W.L.は刺突の手を止めた。
男が横たわる周囲。喉の穴とずたずたになった腋から流れた血によって、白かった雪は生臭く汚らしい液体に変わっていた。
怒りと興奮の収まったW.L.は辺りを見まわした。
そうして恐ろしくなって逃げだした。
恐れたのは惨たらしい死体や、その惨状を生み出した己ではない。
ただ単に警察に捕まって酷い仕打ちを受けることを恐れたのだ。
翌日もW.L.は怯えていた。いつ警察がやってくるかと身構えていた。
けれども工場に出勤して、昼休憩を挟んで午後からはむしろ、彼は愉快で仕方がなかった。
理由は周囲の人々だ。
W.L.が起こした殺人事件は朝刊の一面を飾った。死体を放置したままにしたのだからバレるのは当然だ。
記事を見た人々は口々にこの事件の犯人へ畏怖を口にした。
通勤時にすれ違う人々、工場の同僚たち、昼食を買いに行った先の商店の客たち。
それらの人々の話題はW.L.の殺人事件でもちきりだ。まだ捕まっていない犯人を皆が恐れている。
W.L.は楽しくて、嬉しくて仕方がなかった。
今まで自分をバカにしていた連中が、自分を怖がっているのだから。
この一件でW.L.のタガは外れた。
知ってしまった殺人の興奮と、人々の恐れによる愉快さを再び味わいたかった。
W.L.は自分を軽んじてきた気に食わない人間を次々と殺していった。
肉屋を経営する夫人は、肉切り包丁で腹回りの贅肉をそぎ落として殺した。
工場のオーナーは、目を抉り取ってその眼窩に宝石をありったけ詰め込んで殺した。
これらの殺人の際には手始めに、対象の喉を破壊した。
そうして発声機能を失った喉で『ごめんなさい』を言わせた。何度も、何度も、何度も。決して発音できない『ごめんなさい』を言おうとする被害者をいたぶる。
W.L.はそれが楽しくて仕方がない。
死体は毎回現場に残した。事件が必ず報道されるように。
事件が記事になって街の人々へと届く。人々が恐れの言葉を口にする。事件が積み重なるほどその声は多くなり、大きくなる。
W.L.は人々の畏怖の中で愉悦に浸った。
証拠を数多く残すW.L.の殺人のスタイルで、警察に捕まらないわけがない。
彼が警察に捕らえられたのは工場の同僚を殺害している時だった。
その同僚はいつもW.L.の作業について効率の悪さを指摘し助言をしてくる。W.L.にとっては鬱陶しい存在だった。
工場の裏手で同僚の首を裂き、『ごめんなさい』を言わせながら手の爪をひとつ、ひとつと割って剥がしているところを現行犯逮捕された。
軽い拷問と取り調べの後、W.L.は裁判に掛けられた。
判決の結果W.L.は『悪魔憑き』だとされた。
彼の殺人が財産を目的としたものでなく極めて非合理的であること。彼の殺人方法が極めて残酷で、不必要な労力を費やしていること。これらが人間らしくないと判断されたのが理由だ。
W.L.の『悪魔』を祓うために一人のエクソシストが教会から召喚された。
この彼が三日間にわたってW.L.の悪魔祓いを行う。
もしも四日目になってなお、W.L.に悪魔が憑りついていたら。
その時には、W.L.は処刑される。
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