第11話

 ところが同じ年の暮れ、斎院の大宮が突然倒れ、一日と経たないうちに身まかってしまった。麗子はあっというまに、一番の者を失った。

 年が明けると、北の対の女房たちが次々と辞めさせられていった。年若い女房たちの何人かは、東の対で暮らす邦栄付きの女房や女童として雇い直されたが、斎院の大宮付きの女房は、長年仕えてきた高齢の者も多く、結局はほとんどが北駒殿を去った。

「わたしもそのとき、誰かについていって辞めてしまえばよかったのかもしれません。ですが……」

「それは難しいでしょう。あるじの血を引いていては」

「……ええ」

 季時の同情的な面持ちに、麗子は微笑を返す。

「結局わたしだけが、北駒殿の寝殿に移ることになりましたが……」

 何しろ嫡妻が産んだ孫より可愛がられていた、召人腹の孫である。寝殿の女たちの誰にもいい顔をされるはずがない。特に三位の方と乙姫、その二人付きの女房たちからの当たりは、きついものだった。

「わたしも気の弱いほうではありませんから、言い返したりやり返したりしていましたが、多勢に無勢で……。ただ大姫様は、わたしに特に何も言ってはきませんでしたし、そちらの女房も、率先してかばってくれるわけではありませんでしたが、何をしてくることもありませんでしたので、自然と大姫様の近くにいることが多くなって、そのまま何となく……。入内されるときに、一緒に来るかと声をかけてくださったのは、本当にありがたかったです」

 そういう意味では、この家で恩や情を持っているのは大姫に対してだけだ。

「肝心の父親は……左府は何をしていたのですか」

「何もしません。わたしがどんな扱いをされていようと、見て見ぬふりです」

「……そうなのだろうとは思いましたが」

「でしょう?」

 小さく首を傾げ、麗子はふふっと笑う。

「わたしの身の上話は、こんなものです。桐壺では、大姫様のお召し物を調えたり、物語や歌集を写したり……。ごく普通の女房としてすごしております」

「桐壺には、あなたをいじめるような女房はいないのですね?」

「召人腹のくせに生意気だと、疎む者も少しはおりますが、わたしに嫌がらせをしたところで、やり返されるだけですので、もうたいしたことはしてきません」

「……何だか解せませんが」

 まゆを寄せ、季時は腕を組んでうなった。

「それくらいは、わたしにとってどうでもいいことです。新しく入ってきた女房たちとは仲よくしておりますので。問題はありません」

「そうですか……」

「それより、次は季時様のお話をしてください」

「私のですか」

 腕を組んだまま、季時は苦笑する。

「私こそ、つまらない話しかないですよ。生まれたときは祖父が存命でしたので、子供ながらに我が家の華やかさはわかっていました。それも十三年前の代替わりで一変しましたが」

「その件は、しばらくして斎院の大宮様から教えていただきました。先の主上おかみは何人もお子を亡くされて、たいへんお気の毒でいらしたと……」

「そうですね。先の帝とは、我が家はいまも親しくさせていただいていますよ」

楊梅やまももいん──と呼ばれておいでだと、伺いましたが」

「御出家されたあとの、いまのお住まいが楊梅やまもも小路こうじにあるのですよ。六条の我が家とは近いので」

「なかなか外を歩く機会がありませんので、伺ってもどこにあるのか、わたしにはさっぱりですが……」

 時を知らせる太鼓が聞こえた。四度打たれたということは、の刻だ。後宮で聞くより、音が遠い。

「宰相様は、前に国守をお務めでしたでしょう。季時様も御一緒されたのですか?」

「ああ、父は二度、国守になりましたね。遠江とおとうみで……安房には同行できませんでしたが、遠江は、私も元服したあとでしたので、供をしました。あそこは海がありますので……」

 今度は季時がひとしきり、東国に行ったときの話や、都に戻ってから任官されるまでのことを、ときにこつけいな口調や大げさな仕種をまじえながら語ってくれた。それが思いのほか楽しく、麗子はうっかり大きな声で笑わないよう、気をつけながら耳を傾ける。

「本当は任官も、もっと遅れると思っていたのですよ。ところがもくの直前になって、右京源氏に仕える家司けいしの息子と、左府と親しいだいべんの息子が、左兵衛権佐の職を取り合い始めましてね」

「……あの、失礼ですが、ひようえのすけではなく……?」

「ええ。兵衛佐ならともかく、何も権官ひとつでそこまでと思われるのも当然ですが、このときの除目は動きが少なく、権官ですら得るのは貴重でして。互いに弘徽殿の女房も巻きこんで売りこみ合戦をしたものの、そのせいで女房同士が争うことになり、収拾がつかなくなって、とうとう弘徽殿のきさきがかんかんに怒って、左兵衛権佐はどちらにもやらなくてよい、まったく関係ない者を就かせるべきと主上に進言されて……そうしたら、ちょうど前から兵衛佐の役目を望んでもうしぶみを出しているやつがいる、どうせ権官、もうこいつでよかろう──という経緯で、私は自分が考えていたより早く、官位を得ることができたわけです」

「でも季時様くらいのお年でしたら、特に早くはございませんでしょう」

「まぁ、万年宰相の息子にしては、という意味ですね」

 笑えない話のはずだが、季時は快活に笑ってみせる。

「思えばこのあたりで、すでに右京源氏と北駒藤原家の仲は、譲り合えるような穏やかさを失っていたのかもしれませんね。おかげで私が得をしたわけですが」

「そういうことは、今後増えてくるでしょうね」

 それは、今度はこちらにとっての笑えない話になるだろうが、麗子はつい、面白そうだと思いながら口にしていた。するとそれが伝わったのか、季時は目を見開く。

「そうなったら、桐壺も大変でしょう。左府はますます、桐壺の御方に期待しますよ」

「こればかりは、なるようにしかなりませんので……」

 麗子が苦笑すると、季時は声を落とした。

「噂には聞いていますよ。梨壺と桐壺のあいだには、隔てがあると」

「…………」

 麗子はその言葉に、ただあいまいな笑みを浮かべるにとどめた。内裏の外を警備する季時の耳にも入るほど、東宮と大姫の不仲は知られているらしい。

 季時はそれ以上、東宮と大姫について何かいてくることはなかったが、それがかえって気遣われているようで、不仲の件は後宮の外でも、存外深刻に受け止められているのかもしれないと思えた。

「季時様は──これから、どうなさいますか?」

 話題を変えようと、麗子は少し声を高くする。

「これから?」

「右京源氏の家の車で、ここを出たあとです。ここにいたのが身代わりだったと、源少将にお話しになるのでしょう?」

「さて、本人に話せるかどうかはわかりませんね」

「え?」

 季時はまた腕を組み、何かを思い出すように視線を上向かせた。

「このあとは右京源氏の家の車で退出したあと、すぐ近くに待たせてある我が家の車に乗り換えて、一度六条に帰ってから出仕します。源少将のほうは、ひとまず後朝きぬぎぬの文を北駒殿に届けると言っていました」

 それなら、乙姫のもとへ届く後朝の文だけは、久綱からの本物だということだ。

「そして、明日の夜も今日と同じように、源氏の家の車で行くように言われているのですが、私は明日、夜番の仕事がありましてね。二晩続けて代わりはできないと、さっき源少将の兄弟きようだいに伝えたのですが」

「……お仕事を休んででも身代わりをしろと、言われたのではありません?」

「そのとおりです。よくおわかりで」

 赤の他人にこんなことを命じるような者が、仕事にだけ配慮するとも思えない。

「では、どうなさるのですか? わたしは桐壺へ戻れれば、明日はもうここへ来るつもりはありませんが……」

「あなたがいなければ、私も仕事を休んでまで来ることはありませんね。外の車で源少将の乳兄弟が待っているはずですから、その男に、中の君が身代わりだったと言いますよ。そうすれば、明日の晩は仕事ができるでしょう」

 大騒ぎになるでしょうから──と言って、季時がにやりと笑う。

「私より、八橋さん、あなたは無事に桐壺に帰れるのですか? すんなり帰してくれるとは思えませんが」

「わたしは夜が明ける前に逃げるつもりですが、寝殿に戻る途中にはきっと誰かが見張っているでしょうから、見つからないように、庭を歩いて寝殿へ行って、うしかいに声をかけて車を出してもらうつもりです」

「ちょっと待ってください」

 声を上げ、季時が腰を浮かせた。

「それは、庭を裸足はだしで歩くということですか?」

「履物がありませんので」

 ぎつしやを乗り降りするときには、車を建物の軒先に寄せるので、地面に降りることはない。だから履物がなくとも移動できるわけだが、まさかここでくるま宿やどりまで地面を歩くことになるとは、さすがに桐壺を出発したときには考えなかった。

「危ないですよ。暗い中で怪我でもしたら」

「庭くらいでしたら、裸足でも何とかなります。それより、夜明けまで車は出せないと言われてしまうかもしれませんので、そうなったときにはどうしようかと……」

「でしたら、うちの車で帰りませんか。桐壺まで送ります」

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