第6話

 明日になったからといってこれ以上の縫い物はごめんだが、空腹は事実なので夕餉を出す気があるなら食べてから帰ればいいかと思い、麗子は座り直した。

 ほどなく先ほどの女房が簡単なぜんを運んできて、麗子の食事がすむまで局に居座り、さらに今夜は車が出せないからこのまま泊まるようにと念押しして、空になった膳を持って局を出ていく。それで結局帰りそびれ、麗子は文机にかたひじをもたれさせて、ぼんやりしていた。

 ……肝心の婚礼の準備は、どうなったのかしら。

 この局が離れた場所にあるせいか、何の物音も聞こえず、状況がさっぱりわからない。ただ、話のとおりなら、今夜はこれから婿になる男を三日間受け入れる、その大事な初日だ。縫ったものを取り返しにはきても、無駄な嫌みを言いにくる女房がいないのは、皆それなりに忙しいからなのだろう。

 ……源少将、ねぇ……。

 顔は見たことがある。よく宮中をうろついては、あちこちで女房に声をかけているのだ。麗子は言葉を交わしたことはないものの、桐壺の女房の中にも、歌をもらった者がいるとか、宿直とのいのときにはあちこちの殿舎にいる気に入りの女房の局を渡り歩いているとか、そんな噂はしょっちゅう聞く。

 それでいて、本当に妻にしたがっているのは、美女と名高いおんないちみや──現東宮の、同腹の姉皇女だとも。

 ……そうなのよね。宮中では有名な話よ。源少将様が一の皇女様にたいそう御執心だって……。

 何度も降嫁を願い出ているものの、当の女一の宮が久綱との結婚に乗り気ではないらしく、帝も無理強いはしていないのだとか。

 ならば、久綱は女一の宮をあきらめたのだろうか。少なくとも、乙姫をちやくさいにしてしまったら、ますます女一の宮に降嫁してもらうのは難しくなるはずだ。

 よくわからない縁談だ。麗子は独り、首を傾げる。

 気がつけば、外はすっかり暗くなったようだ。御簾の向こうから軽やかな足音と格子を閉める音、めのわらわたちらしき話し声が聞こえた。

「失礼します。あかり、消しますね」

 女童の一人が御簾の内に入ってきてそう告げるや、麗子が止める間もなく、燈台の火を消してしまった。

「えっ、ちょっと……困るわ。まだ早いでしょう」

「ここの灯りも消すようにとの御命令ですので」

 それだけ言って、女童はさっさと廂に出ていき、仲間たちと立ち去ってしまった。

「…………」

 麗子はあっけにとられ、目を瞬かせる。

 廂につり下げられたつりどうろうの明かりがかろうじて御簾越しに差してくるため、真っ暗闇というわけではない。しかしこれでは、もはや何の作業もできない。今日はこれ以上の針仕事をする気もないので、それはいいのだが。

 もの寂しい虫の音が聞こえてくる。

 寝るにはいささか早いが、そうかといってこの状況では、もう寝るくらいしかすることがない。ちょうど単が二枚ある。ひどい縫い目だが、夜具代わりにはなるだろう。

「はぁ……」

 声とともにため息を吐き出しながら単を一枚羽織ると、づくえを手元に引き寄せ、ほおづえをついて目を閉じた。

 普段なら、まだ休む時間ではない。だが一日中細かい仕事をしていた疲労が、麗子をすぐに、まどろみに誘う。

 虫の音と、自分の吐息と──衣擦れと、微かな話し声と。

「…………」

 誰かいる。

 また何か用事を言いつけにきたのか。それでも今夜は、もう何の仕事もするつもりはない。いや、明日の朝もだ。夜が明けたらすぐに帰る。絶対に──

 みしり、と。

 重い足音がした。

 一瞬でまどろみは霧散する。

 嫌な予感とともに、ひとつの可能性が頭の中を駆けめぐった。

 この縁談は、家の長たる為栄も、三位の方も乙姫自身も望んでいないもの。この家の誰もが、乙姫はいずれじゆだいするのだと思っていた。

 そんな断れない、迷惑な結婚の日に、わざわざ自分だけ呼び出され、日が暮れるまで長々とどうでもいい仕事を押しつけられ、帰れなくなった、その理由。

 身代わり──

 麗子はとっさに、文机に置いておいた扇を摑んでいた。

 謀られた。泊まっていけばいいと、親切ごかしに引き止めたのは、このためだったのだ。

 自分だけが呼ばれたのは、召人めしうどの子とはいえ、まがりなりにも為栄の娘だから。婿である久綱を、乙姫のもとへ案内すると見せかけて、ここへ連れてきて──暗闇の中で、ことが起きてしまえば、久綱と「為栄の娘」が結婚したという事実を作れる。

 大方、あとで「偽ったわけではありません。自分が言っていた乙姫とはこの娘のことです」とでも言い繕うつもりでいるのだろう。

 そうはさせるものか。「端の君」がそんな従順な女ではないと、そちらこそよく知っているはずだ。言いなりになるつもりはない。

 自分は乙姫ではないと言ってやる。それが聞き入れられなければ暴れてやる。どうなっても構うものか。

 麗子は扇を握りしめ、いつでも立ち上がれる姿勢で御簾のほうを振り返った。

 御簾が大きく開き、男が窮屈そうに身をかがめて入ってくる。

「…………」

 目は、すでに薄闇に慣れていた。

 だから御簾越しの淡い明かりだけでも、相手の顔立ちは見えていた。

 違う。

 源久綱なら知っている。その姿は後宮で何度も見かけた。

 たしかにあの男は上背がある。そう、背丈は同じくらいだろう。しかしあの男の顔はもっと面長で、鼻の下から唇までがいささか長く、目も口も小さめなのだ。

 こんな──こんな涼やかな面差しではない。

 男は入ってきたそのままの場所で、何故か少し驚いたような表情でこちらを見下ろしている。

 互いの目は合っていた。それでも男は、近づいてこようとはしない。

 だが麗子は、相手が久綱ではないことに気をとられ、それを不自然に思うことも忘れていた。

 そこにいるのは、右近の少将、源久綱ではない。ならば。

「……あなた、誰?」

 当然の疑問を口にすると、久綱ではない男は我に返ったようにはっと目を瞬かせて、たった数歩で麗子のもとへ近づいてくると、畳の脇にかたひざをついた。

「私は──源、久綱です」

「噓」

「えっ」

「わたし知っているのよ、源少将様のお顔。あなた……」

「──っ!」

 途端に久綱をかたった男が、手を伸ばして直衣のうしそでで麗子の口をふさぎにかかる。逃れようとするも頭ごと腕に抱えられ、あなたは少将ではない、と続けた言葉はぐうぐうとくぐもった声にしかならなかった。

「静かに。……外にいる女房は私を少将だと疑わなかった。女房が知らないのに、何故あなたは顔を知っているのですか」

「ぅぐ……?」

 押さえられているのは口だけだったため、麗子は男の腕をおうぎで力任せに打ちすえて暴れていたが、耳元で早口にそうささやかれ、思わずあらがう手を止める。

 何故知っているのかは、それは。

「……むぐぐ、うぐぐぐむぐ、むぐぐぐ」

「え?」

「むぐぐ──」

「あ。……いま手を外しますが、あの、どうかお静かに」

 男はすまなそうにまゆじりを下げ、麗子の顔からそろりと袖を離した。困り顔は、ちょっとあいきようがある。

 麗子は大きく息をつき、あらためて男の顔を見た。……やはり久綱ではない。どちらかといえば久綱より、かなり、断然、整った顔立ちをしている。

「……ここには、女房に案内されてきましたか?」

「え。ああ、はい。なかきみに仕えているという女房二人に」

 麗子が声をひそめていたためか、男も同じく小声で答えた。この家で中の君といえば、乙姫のことである。

 やはり、自分は謀られたのだ。この家の者たちは、乙姫の代わりに久綱と結婚させるつもりで自分を呼び寄せ、夜まで引き止め──

「まだ、女房たちはそのあたりにいるでしょうか」

「どうでしょう……。私がの内に入るときには、まだいましたが」

 策謀がうまくいったかどうか、女房たちは気にしているはずだ。

 つまり、「偽りの乙姫」と「本物の源久綱」が、今夜、間違いなく「結婚」したかを。

「…………」

 麗子は唇を引き結び、かぶっていたひとえの衣を大きく振って、ばさばさと音を立てた。男はげんな顔をしたが、麗子はさらに声をひそめる。

「畳に乗ってください」

「えっ」

「わけはあとでお話しします。女房たちがいなくなったら」

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