第3話

「えっ!?」

「ただし母は、左府様の亡きお母君、さいいんおおみや様付きの女房でした」

「…………」

 桃君とたま君はしばらくぽかんとしていたが、ややあって、たま君が召人めしうど、とつぶやいた。

「そう。左府様の娘でも、母が召人だったから、こちらの桐壺の大姫様や御実家のおとひめ様とは立場が違うの。わたしはただの女房です」

 主の手がついた女房、つまり召人から生まれた子と、正式な婚姻関係にあるちやくさいから生まれた子とでは、おのずと扱いは変わるものだ。十歳そこそこの女童でもそこは理解できたようで、二人とも微妙な面持ちで黙りこんでいる。

「八橋というのは、わたしの母が使っていた女房名なの。母は八年前、わたしが十歳のときに亡くなったから、娘のわたしが女房名を引き継いだわ。大姫様が御実家においでのころには、この女房名なら八橋の娘だと誰にでもわかったのだけど、ここに来てからは、かえって誰の身内なのかわからなくなってしまったわね。でも、まさか左府とは名乗れないでしょ?」

 おどけた口調で告げると、女童たちはようやく、ぎこちないながらも笑顔を見せた。

「でもね、わたしが誰の娘なのかとか、そんなこと考えて接しなくていいわよ。実際、召人腹の娘なんて、たいした扱いはされないもの。わたしも左府様のこと、父君だなんて思ったことないわ。そこは皆と同じように、左大臣の大殿様よ。だからわたしを怒らせたら左府様に言いつけられるなんていう心配も、なしね。そもそも滅多にお目にかからないから」

「…………」

 それをみにしていいものか、女童二人は量りかねているようだったが、こればかりは今後の付き合いの中で判断してもらうしかない。麗子は軽く自分の膝を打ち、声を少し高くした。

「二人とも、仕事のことは誰に教わるの? やっぱり民部の君と備前の君?」

「あ、はい。初めはそのつもりでした……けど、民部さんは、女童のことは女童にけって……」

 たま君が途端に心細そうにうつむく。桃君も不安げだ。

「それなら、なつがいいわよ。あの子、真面目で仕事が丁寧だから、わからないことは教えてくれると思うわ」

「ありがとうございます。訊いてみます」

 女童たちは何度も頭を下げ、夏君を捜しにいくと言って、麗子のつぼねをあとにする。

 二人を見送って、左馬は不機嫌そうに口をとがらせた。

「何が、左府様に言いつけられる心配はなし、よ。むしろ八橋は、一度くらい左府様に言いつけてやればいいんだわ」

「何を? あなたの嫡妻腹の娘たちの女房が、召人腹を目の敵にしてきます、って?」

 麗子はさっき縫ったうちきを手に取り、たたみ直す。

「実際そうでしょ。姫君たちならともかく、何でお付きの女房どもが八橋をいびれるのよ。その小袿だって、どうせ仕立てろって押しつけられたんでしょ? 断りなさいよ。八橋のほうが立場は上じゃないの。左府様の娘なんだから」

「……娘ねぇ……」

 たたむ手は止めずに、麗子は首を傾げた。

「わたし自身、娘だっていう気がしないのよね。だから、あの人たちがわたしをただのさんくさい女房だと思っても、仕方ないっていうか……」

「仕方ないって……まぁ、たしかに八橋の顔は左府様に全然似てないから、見た目だけの話なら、親子とは思えないけど」

「そうでしょ? それに、父親らしいこともしてもらったことはないもの。母だって、あの方はあるじであって父君だなんて思ってはいけないって、口酸っぱく言っていたし」

 話しながら、麗子は残っていた針目のしわを指で伸ばす。

「でも、左大臣家の姫君らしい教育は受けてきたのよね? 縫い物は上手だし、和歌や琴だって」

「縫い物は……むしろ女房勤めを始めてから、やらされて上達したのだけど。そうね、姫君らしい教育は、たしかにしてもらったわ。ただし左府様じゃなく、左府様のお母君の、斎院の大宮様に、だけれど──」

 そのとき、こちらに近づくせわしない足音が聞こえてきた。ひさしの曲がり角から人影が姿を現し、いた、という少女の声がする。

「八橋さん、大姫様がお呼びですよ」

「あら、わたし?」

 麗子を呼びにきた女童は、伝えたのだから用はすんだとばかりにきびすを返してしまう。

「何の用でお呼びなのか聞いてないわね、あの様子では」

「仕方ないわね。行ってくるわ」

 麗子はため息をつきつつ腰を上げ、白菊重の小袿をついたてに掛けた。

「左馬。これ、へいのないへの贈り物にする小袿。甲斐の君が訪ねてきたら、渡しておいてくれる?」

「えー? 嫌ぁよ。どうせ言わなくたって勝手に持っていくでしょ」

 左馬はひらひらと手を振り、自分の局に入ってしまう。それもそうかと、麗子は小袿をそのままにして、主のもとへ向かった。

 桐壺のやすどころこと大姫は、正殿にあたる身舎もやの中で、ちように囲まれ、姉妹きようだいの女房、春日かすがとともに、文らしきものを広げていた。

「八橋です。御用でしょうか」

「ああ、ようやく来たか。ちょっとここへ」

 春日が手招きして、麗子を几帳の内に招き入れる。

「北駒殿から文が届いた。乙姫様の婚儀の手伝いに人手がほしいので、八橋をしてほしいと」

「……は?」

 思わず訊き返してしまったが、告げた春日も途惑った表情をしているため、とがめられることはなかった。

「すみません。どういうことでしょう。乙姫様が御結婚されるのですか?」

「そういう話らしいのだが……」

 北駒殿とは左大臣の邸宅のことであり、つまり大姫の実家で、麗子が生まれ育った家でもある。現在そこに暮らしているのは主の為栄と、その嫡妻であるさんかた、そして三位の方が産んだ子供たちだ。

 三位の方は三人の子を産んでいた。嫡男のくにしげに、長女の大姫、次女の乙姫である。このうち大姫はじゆだいしたが、邦栄と乙姫は両親と同じ北駒殿に住んでいる。邦栄は昨年の秋、こんえのごんのしようしように任じられた直後に結婚しているので、たしかにこの三人のうちで未婚なのは乙姫だけなのだが。

「……左府様は、乙姫様もいずれ入内させたいとお望みではありませんでしたか?」

 麗子は大姫にちらと視線を向け、そして春日に問いかけた。大姫は普段から口数少なく、自分で女房を呼び出しても、自分がしゃべることはあまりない。話すのはもっぱら春日だ。

「それは私も聞いている。左府様は、みかどが御譲位され東宮が御位に就かれたあかつきには、乙姫様も入内させるつもりであると、はっきり仰せであった。……何も姉妹でちようを競わずともよいではないかと私は思うし、現に左府様にもそう申し上げた」

「では、左府様はそれでお考えを変えられたと」

「あの左府様が、女房に言われたくらいで、そうやすやすと入内をあきらめなさるとは思えなかったのだが……」

 春日は眉根を寄せ、首をひねっている。

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