case2-2


 憎い。

 恨めしい。

 ゆるせない。


 響くような怨嗟の声の中、細身の男がモップを剣のように薙ぐ。

 使っている道具は凡そ戦いに相応しいものではないが、男はそれで黒い何かを確かに両断した。

 男がここに来る前に言っていた通り、これは『掃除』なのだ。モップだろうが箒だろうがデッキブラシだろうが、男にかかれば化け物を屠る武器となる。

 というのも、男が相手取る敵の見目がそうさせるのかもしれなかった。


 どろどろと悪臭漂うヘドロを絶えず生み出し垂れ流す、充血した一つ目を持つ人型のナニカ。

 二足で立ち上がっているのにイヌ科のようなシルエットの影かと思えば、その腹部に突き出た鼻と涙を流す三つ目を持つナニカ。

 電柱のように細長いかと思えば、その付け根、地面すれすれに真っ赤な紅をさした唇があり、舐めるように滑る舌から黒い液体を滴らせたナニカ。


 総じてどいつもこいつも道を汚しやがる、というのが従業員の不満である。

 言葉通り、それらが通った後は、ひどく匂うどろりとした汚れが染みつき、あるいは飛び散り、もしくは泡立っている。


 だがしかし、一見本来の使い方とは違う用途で用いられていると思われた掃除用具だが、それだけではないようだった。とはいえ、それはどこでも見かけるような見た目通りのものでもないらしい。

 男が周辺の『汚れの元』を処した後、その掃除用具を道に滑らせれば、擦る必要もなくその周辺から『汚れ』がとけて消えていく。水洗いの必要がなさそうで、まったく便利な道具である。


 喰わせろ、喰わせろ、腹が減った。


「うるせェよ」

 反響音のような声に悪態をつきながら、男は襲い掛かる影の胴を蹴りあげた。上から下まで八の字で並んだ多数の口から液体が飛び散り、しかし飛沫がかかるよりもさきに引いた足の代わりに、またしても掃除用具が宙を踊る。

 影は、口の数だけ砕かれた。

「喰ッテきたノは他人の命か? バケモンめ」

 ぐちゅりと一つの口を踏みつぶせば、やがて他の塊も口を情けなく開いてどろりと溶けていく。漏れる声は悲鳴とならず、うめき声となって消えていった。


「本命がいないな」


 粗方周囲を磨いた従業員は、近くの壁に背を預けて髪をかき上げると、黒縁の眼鏡をかけて周囲を見回した。普段は隠れている金の瞳が、暗闇で妖しく煌めく。やがて明かりのないビルの屋上に視線を留めると、掃除用具を手に少しだるそうに歩き出す。

 距離を詰めると、そのだるそうに引きずられていた足が僅かに速度を上げ始めた。それは、やがて風を切るように。そして次の瞬間には大きく跳躍する。

 掃除用具だけはしっかりと握りしめて、従業員の足は目の前のビルの二階の窓辺、花台へとかかる。かと思えばその手すりを蹴り、続いて狭い路地をはさんで向かい側のビルの三階の窓枠を蹴り、再び元のビルの四階へ。それを交互に繰り返し駆け上がった従業員は、最後の階で手にしていた掃除用具を屋上の柵に引っかけると、それを軸にぐるりと宙を回ってそのまま屋上に着地した。

 回った勢いで振り下ろす形となった掃除用具を床に叩きつけて。


「見つケた」


 掃除用具の先では、潰れてごぽごぽと粘着質な液体を溢れさせる、黒いなにかが蠢いていた。それは一見形がないナニカであったが、よくよく見れば時折、ほんの一瞬初老の女の姿を成しては消えてを繰り返す。

「正式な手順で呪ったンじゃなさそうだな。願いだけで呪いと化したか、バケモンめ」

 バケモン、という言葉に反応したのか。黒いナニカから突如大きな一つ目が見開かれ、ぎょろりとその充血した目玉を動かし、視線を従業員に向け射貫く。

 途端周囲に黒い靄が広がり、かと思えば目の前には不鮮明なビジョンが広がった。


 品のいいキモノを身に纏う女性二人が、口元に何かを運んでいる。次いで椀を口に運び、やがてそれを置くと口を開く。それを、正面から眺めているようだ。


『聞きました? 邏?鬆ュ蝎ィさん、また蛻ゥ蟄舌s騒ぎを起こしたのだとか』

『まぁ。でも鬧?Φ繝さんって、ほら……』

 赤い唇が、開く。紡ぐ。口が開かれるたび吐き出される血の霧と、歪んでいく唇の形。

 どうやらくだらない噂話のようだ。かと思えば場面が変わり、ぐちゃぐちゃに顔が歪んだキモノ女性が現れる。

『――、また――――、勝手に持ち出さないでと、――』

『よいではありませんか、――。だって――の腕程度のお菓子を、――手土産に――。むしろ光栄に思ってくださらないと』

 次の瞬間、その女性ははじけ飛んだ。血飛沫のようなものが目の前ではじけたせいで咄嗟に従業員は顔を腕で庇うが、それは振りかかることなく。舌打ちしたところで、今度は目の前に先ほどの『お客様』が現れる。柔和な、しかしどこか困ったような笑みに、周囲の靄が一気に荒れて舞い上がった。それはまるで、炎のようだ。


 寄こせ、寄こせ、金が足りない。菓子を作れぬナラバキエロ。カイゴハイヤダ。ホケンキンダケアレバイイ。

 ヨコセホケン、金、足りナいヨコセ、金作れぬナラバキエロ――


 全ての言葉がばらばらに、しかし重なっているかのように反響し、悲鳴のような、耳障りな金切り声となる。


 視界が晴れれば、先ほどと同じ、掃除用具に押しつぶされて藻掻く何か……いや、あの客の親族だろう女の生霊がいる。先ほどより激しく暴れているようだが、従業員は手を緩めたりしなかった。むしろ、さらにぐりぐりと地面に擦り付けるように掃除用具を押し付ける。


「ロクデモナイな、あんた。ま、こんなんでもたぶん軽い呪い返しにはなるだろうシ、しっかり貰っときなよ」

 そう呟くと同時に、ぐぷり、と、潰れたような粘着質な音と、くぐもった悲鳴が破裂するように響いた。


 そのままその場所をごしごしと掃除用具で磨いた従業員は周囲を見回し、よしと呟いて眼鏡をはずすと乱雑にエプロンのポケットに突っ込んだ。


「さて、残りの塵掃除でもしとキますか」


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