一章
第1話
1
「フォゲット・ミー・ノット 勿忘草を君に」
駅前の商店街の通りにある交番から出た俺の後ろを、
夜の七時を回った商店街の風は、炎天下だった日中の名残を受けて生温かい。観光客を狙った居酒屋の店頭のテイクアウトフードの香りがその風に纏わりついてくる。昼の十二時から何も食べていない俺の胃袋には、それが、やけに堪えた。
このまま、目の前で焼かれている太いソーセージも、その隣の店で売っている焼き立てのさつま揚げも、片っ端から胃袋に沈めたい気分だった。
だが太いソーセージも、焼き立てのさつま揚げも、この空気のままでは食べられない。後ろをついてくる彼は依然として黙ったままだからだ。
俺は立ち止まり後ろを振り返る。小さく息を吐きながら、出来るだけ彼を元気づける為に明るいトーンで声をかけた。
澪は、一見おとなしそうに見えるが、正義感が強くかなりまっすぐな性格だ。曲がったことが大嫌いで、自分なりに腑に落ちるところまで納得しないと、中々立ち直ることが出来ない。
今回の警察沙汰も、そのまっすぐな性格が故にだと思うと、彼のせいではないのは一目瞭然、彼を怒る理由なんて一つもなかった。俺は、本心で怒っていないと伝えたつもりだったが、結局のところ伝わっていない。
この時間に至るまでの経緯はこうだ。今から、二時間前に遡る。
※
放課後の職員室は、ゆっくりと静かになりつつあった。部活指導に出ていった先生たちの席はぽっかり空いて、残っているのはキーボードを叩く音と、ときどき鳴るコピー機の動作音、そしてエアコンの音だけ。
俺は明日に控えた一学期最後のホームルームで配るプリントをめくりながら、ペンで小さく印をつけていた。そのとき、内線の音がやけに大きく響いた。
コース主任の先生が受話器を取り、二言三言やり取りをしてから、顔だけこちらに向ける。
「あれ?
「あー。さっきお手洗いに行きましたよ」
隣の席の先生が答える。コース主任の先生は少し困ったように眉を寄せて、受話器を手で押さえたまま、今度は俺のほうを見る。
「朝比奈先生、ちょっといい?」
「はい?」
手招きをされた俺はプリントを置いて立ち上がりコース主任の先生のデスクへ向かう。主任は声のトーンを少し抑えて話した。
「実はこの電話、潮見坂警察署からで……商店街のほうで隣町の高校の生徒と、うちの学校の生徒が喧嘩したらしいんです」
「あらら。それは、大変ですね。で、うちの職員室に電話が回ってくると言う事は……」
「そうなのよ。その中に、うちのコースの生徒がいるみたいで。それが、一年の子と、もう一人が二年の……」
「え、うちの生徒ですか? 誰ですか?」
喧嘩や乱闘で思いつく生徒の顔が数名、頭に浮かぶ。しかし主任の口から出た生徒の名前は、まさかの人物のものだった。
「それがね、相良くんなのよ」
「え? 相良……ですか?」
「そうみたい。意外も意外なんだよね。確かに相良くん、やんちゃな子達と仲はいいけど、喧嘩騒ぎを起こす様な子じゃないんだけどねえ」
主任の言う通り相良澪という生徒自体は不良生徒ではないが、やんちゃ盛りの生徒とよくつるんでいる。その輪の中では弟の様に可愛がられていて、どちらかと言うと周りの彼らの非行を止めてくれる印象だった。
そんな彼がやんちゃグループと一緒ではなくて、一年の生徒と一緒に喧嘩騒ぎに巻き込まれていると言うことも気になった。
心の中だけで、深くため息をつきながらも、受話器を代わってもらい、状況を確認する。場所は潮見坂駅前へ続く商店街。大騒ぎと言っても、乱闘になって殴り合って救急車、というような事態ではないらしい。
口論から手が出て人だかりになった程度で、今はもう落ち着いている。と警察官の声は穏やかだった。
「状況は説明した通りなんですが、保護者の方と連絡が取れませんでして……交番まで御足労願えますか?」
「はい。すぐ向かいます。恐れ入ります」
電話を切ってから、校内放送で一年担任の秋月先生を呼び出す。ほどなくして、秋月先生が少し息を切らせて職員室に戻ってきたところで、俺は簡単に事情を説明した。
「えっ! 相良くんが、喧嘩騒ぎを? 僕のところの生徒も、そんなタイプじゃないのに……なんか、気になりますね」
「ええ。詳しくは分かりませんが、とりあえず急ぎましょうか。何事もなければいいんですけど」
「はい。今日はもう……残業確定ですね」
「はは。確かに。夏休み前日に騒ぎを起こすなんて、やってくれますよほんとに」
「あはは。でも、夏休み中に呼び出しとかじゃなくて幸いでした」
なんて、軽い皮肉を言いながらも秋月先生は、嫌な顔ひとつせずに、ふわっとした笑顔を浮かべている。
同感だ。なんだかんだ言っても生徒に対する気持ちが強いからこそ、忙しい時に手を離してでも迎えに行ける。
自分の仕事のために使う時間よりも、生徒のために使う時間の方が大切だ。生徒と向き合える時間は、教師である自分にとって、とても大きなものだ。秋月先生もきっと心の中で同じことを考えているのだろう。
俺は秋月先生の車で、潮見坂商店街の一角にある交番へやってきた。
「おそれいります。潮見坂高校の者です」
中に入ると、若い警察官が立ち上がった。
「あ、わざわざすみません」
警察官が調書を確認しながら、生徒二人の名前を読み上げる。一年の男子生徒は、椅子に座ったまま俯いていた。
頬にはうっすらと赤み。その隣で、澪は背筋を伸ばして座っていた。口の端に小さな切り傷。制服の膝には、うっすら汚れがついている。
「……」
目が合うと、澪は「あ」と小さく口を開けて、それからすぐに「すみません……」と頭を下げた。
「詳しい話は、こちらからも保護者の方にお伝えしますが」
警察官がこちらへ向き直る。
「結論から言いますと、幸いどちらの学校の生徒さんも大きなケガはなくて、相手の高校の先生と生徒さんは隣町の交番に移動しています」
「そうでしたか。うちの生徒が、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。それで、うちの生徒は何を?」
秋月先生が尋ねると、警察官はちらりと澪のほうを見て、手元の紙をめくった。
「大まかに言うと、向こうの学校の生徒さんに絡まれた一年生の生徒さんを、こちらの相良くんが庇う形で止めに入っていまして。そこで逆上した向こうの生徒さんが騒いだ、という感じです」
「止めに入って?」
澪は、拳を強く握りながらも、間違った行動をしてしまったと思っているのか、少し後悔しているような表情で必死に訴えた。
「だって、いきなり理不尽に絡んできたんですよ。ジロジロ見てたとか、睨んでたとか! おかしいですよ、そんなの。俺たちなんにも悪いことなんてしてないのに!」
「はい。相良くんの言う通り、最初に絡んできたのも手を出してきたのも、向こうの生徒さんのほうです。目撃者からの証言もありまして、こちらでも確認済みです」
「いきなりこの子の胸ぐらを掴んだんですよ? だから、俺は止めたんです。ただちょっと、俺も強く言い返しちゃって……。余計にヒートアップさせてしまったので、多分……俺の言い方も悪かったんだと思います。もっと穏便に済ませる言葉があったかもしれないです」
理不尽に絡まれた後輩を守ったのも、相手を逆上させてしまったことを気にして落ち込んでいるのも、澪らしいと思った。澪はまっすぐで曲がったことが嫌いな性格だからだ。
「どちらが悪いとか、どちらが良いとかになると、また話が拗れちゃうのですが、相良くんが、その場を収めようとしてくれたのは、間違いありません」
「そうですか。わかりました」
ひと通り事情を聞いて、『今後はこういうことがないように』という、定型文の様なやり取りを交わす。
「朝比奈先生、とりあえずこの子は、僕が家まで送って行きます。朝比奈先生と相良くんも乗って行かれますか?」
秋月先生の、厚意を聞いて俺は澪の方に視線を送るが、澪は下を向いたまま動かない。唇を少し噛んでいる。やはり悔しそうな表情をしている。
さっきの言葉通り、喧嘩の止め方に対して納得のいってない様子だ。こうなると、澪は一筋縄では行かない。考えて、考えて、考えて、答えを出して納得するまではきっとこのままだ。
「秋月先生、ありがとうございます。相良もまだ落ち着いていないので、秋月先生達は、お先に帰ってください」
「わかりました。じゃあ、お先に失礼しますね」
そういって秋月先生と一年の生徒は頭を軽く下げて交番を出て行った。外はいつのまにか、陽が傾き商店街のネオンが灯り始めている。
「相良くんは……どうしますか? 保護者の方と連絡なが取れるまで待ちますか?」
警察官の問いに、澪は少しだけ視線を落とした。
「……」
「学校側としても今回は『指導の対象』にはなります。でも、相良の親御さんに今ここで連絡して、迎えに来てとなると時間もかかりますし、相良も頭を冷やせないでしょうから、一旦この件は僕が預かります」
「承知しました。じゃあ今日は『厳重注意』ということで、帰宅してもらって結構です」
「ありがとうございます。本当にうちの生徒がお騒がせしてしまい申し訳ありませんでした」
「いえいえ。それでは、お気をつけておかえりください」
「……相良。いくよ。ほら、君もちゃんとお礼を言わなきゃ」
「……どうもすみませんでした。ありがとうございました」
澪がちょこんと頭を下げて謝ると、警察官はにこっと笑って答え、わざわざ外まで見送ってくれた。
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